藤原秀康

源平・鎌倉・室町

今はここから早う去ね!藤原秀康が後鳥羽上皇に見捨てられ迎えた最期

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もろくも崩れゆく朝廷方

まさか自分たちが攻め込まれるとは思っていなかったか。

あるいは院宣さえ出せば、鎌倉幕府が勝手に崩れると考えていたか。

後の朝廷軍の、あまりに呆気ない崩れ方からして、幕府軍が京都を目指して進軍してくることは、完全に予想外だったのではないでしょうか。

朝廷が院宣を出す

幕府は動けなくなる

武士、御家人たちの間に蔓延する不信感

鎌倉幕府は自壊する

確かに、こうした流れになっていれば、朝廷軍でも勝利できたかもしれませんが、結局、北条泰時らを先頭に幕府軍が攻め上がってきた。

兵数はいかほどだったか?

どのくらいかと言いますと、相当誇張のうえで記されていて、攻める幕府軍10万に対し、朝廷軍はおよそ1万9千騎です。

実際は数分の1でしょうけど、それでも幕府軍と朝廷軍の兵力差は歴然。

しかも藤原秀康は、そのうち1万2千騎を12箇所に分散させて配置していました。

大軍を寡兵で破るには、兵力を集中させての一点突破が良さそうなものですが、朝廷軍はなぜかこうした陣形に固執するのです。

かろうじて士気が高かったのは、軍勢を集結させる策を取った美濃源氏の山田重忠ぐらいで、結局、他の軍勢はすぐに崩壊。

秀康も負傷し、京都へ逃げ帰るしかありませんでした。

朝廷軍の敗北を知り、後鳥羽院は愕然としました。

もはや藤原秀康など頼りにならん……とばかりに、延暦寺の僧兵に期待をかけますが、果たしてどれだけ頼りになるか。

僧兵は神罰を後ろ盾にして強訴で暴力を振るうし、寺が攻められたら対抗はします。

そうした際、個人的戦闘力が発揮された悪僧の記録もありますし、実際、強かったのかもしれません。

しかし、個と集団の武勇は別物です。

怒涛のように押し寄せる坂東武者をどうこうできるはずもない。

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もはや震えるしかない後鳥羽院ですが、本気で京都を守る気があれば、地の利(メリット)がないわけじゃありません。

川です。

京都市内にはいくつかの河川がありますが、渡河の最中は防御できないため、最も危険とされます。守る武士たちが本気であれば、そこをうまく使って防御できたでしょう。

実際、幕府方が川を渡る際に苦労した話も残されています。

しかし、朝廷軍は呆気なく敗れます。

 

後鳥羽院に見捨てられる

朝廷軍は、なぜ地の利を活かせなかったのか?

そこには「人の和」の差が見て取れます。

北条泰時のもとには、主君のためなら命も惜しまぬ武士が駆けつけました。

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泰時は彼らの言動に感激し、労わります。

一方で後鳥羽院は酷かった。

使い者にならなくなったと思うと、いとも簡単に見捨ててしまうのですが、それこそが最大の失敗だったのではないでしょうか。

承久3年(1221年)6月、幕府軍に宇治川を突破された藤原秀康たちが、後鳥羽院の元へ向かうと、こんな風に言われてしまうのです。

「おぬしらが御所で戦ったら、鎌倉の武士どもが攻撃してくるではないか。

そんなのはごめん被る。今はどこぞへ早う去ね」

なんという心無い言葉でしょうか。

それでも見捨てられた朝廷方の武士は、最後の奮戦を果たし、一人、また一人と散ってゆきました。

後鳥羽院は、自らの「叡慮(賢明な判断の意・君主の判断をさす)が兵を起こそうとしたのではなく、“謀臣”に乗せられただけだ」と切断処理の弁明を始めます。

 

河内で捕縛され処刑

後鳥羽上皇は隠岐へ。

順徳上皇は佐渡へ。

乱に全く関わりが無かった土御門上皇も土佐(後に阿波)へ。

承久3年(1221年)7月に主な戦後処理が終わっても、幕府軍は京都で睨みを利かせることとしました。

京都守護に代わって六波羅探題を置き、朝廷や西国の武士らを監視することとしたのです。

すると同年9月、藤原秀康・秀澄兄弟が南都に潜伏しているとの知らせが六波羅にもたらされ、北条時房が家人に捜査を命じました。

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藤原秀康兄弟は、河内に逃れたものの10月6日に捕縛され、六波羅への護送後に斬られました。

歌人としても有名な武士であった弟・藤原秀能は兄たちよりも幸運でした。出家して罪を許され、隠岐島に向かい後鳥羽院を慰めています。

藤原秀康の生涯は、あまりに苦い結末でした。

誰かに殉じるわけでもなく、誰かを守るわけでもなく、何の救いもない敗死。

主君である後鳥羽院からは最後の最後で呆気なく裏切られ、ただただ気の毒でむごたらしく、何の見せ場もありません。

同じ武士でも戦略の選び方が無茶苦茶です。

特に、数に劣る兵力を分散させたのは致命的。

とはいえ、秀康だけが責められる話でもないでしょう。

承久の乱】は、真の大将である後鳥羽院が、適切な状況把握をしていなかった――この一点に尽きると思います。

幸か不幸か、秀康は初動が良すぎた。

三浦胤義を味方に引き込み、伊賀光季を一気に討ち取った。

しかし、ここで失敗していた方がよかったかもしれません。

楽勝ムードで悠長に構えることなく、少しは必死に戦う武士も現れたのではないでしょうか……とそんなことを考えても致し方ないことですね。

藤原秀康――後鳥羽院と時代に翻弄された悲運の人物でした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
坂井孝一『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』(→amazon
坂井孝一『考証 鎌倉殿をめぐる人々』(→amazon
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon
細川重男『鎌倉幕府抗争史』(→amazon

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