土肥実平

源範頼・源義経の平家追討軍出陣の図に描かれた土肥実平/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

初戦で敗北の頼朝を助けた土肥実平~西国守護を任される程に信頼され

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備前・備中・備後三ヵ国の守護

なぜ一ノ谷の戦い土肥実平にとっての転機なのか?

というのも、この勝利の後、備前・備中・備後三ヵ国の守護に任じられるのです。

同時に梶原景時も播磨・美作二ヵ国の守護に任命されていて、頼朝がこの頃の中国エリアを実平と景時に任せようと考えていたことがうかがえます。

なんせ当時の中国地方は、対平家の最前線ですから最も重要といえるところ。

二人に対する頼朝の評価と信頼が伝わってきますね。

その引き立てぶりは、他の武士から嫉妬されるほどで、元暦元年(1184年)2月、甲斐源氏である板垣兼信(武田信義の三男)がこう訴えています。

「実平がいるせいで、遠征軍の編成や準備に私は関与できません」

板垣にしてみれば、源氏である自分が大役を任されるべきなのに……というわけです。

対する頼朝は何と答えたか?

「実平は信頼できるし、西国の代官を任せるに足る器だからやらせているのだ」

言外に

『源氏だからというだけで、重い役目を任せることはない』

という意が含まれている気もしますね。

頼朝はたとえ弟であっても”家臣”として扱っていましたので、遠い親戚の甲斐源氏であっても同様ということでしょう。

逆に言えば、身内でもちょっとしたことで謀反の疑いをかけるきらいのある頼朝が、

「実平は信頼できるから、何をやらせても大丈夫だ」

と確信できるほど、日頃の実平が信用されていたことになります。

日頃から質素な生活を好んでいたそうですので、それも好ましかったのでしょう。

細かな日常については記録に残りづらいので、なかなか実証しづらいのがもどかしいですね。

 

建久二年(1191年)を最後に記録から消え

元暦二年(1185年)4月には

「土肥実平と梶原景時が畿内近国の荘園公領を横領している」

という訴えもありました。

頼朝は「彼らが悪いのではなく、代官たちが勝手にやったのだろう」として、代官を咎める書状が発行されるだけで済んでいます。

また『平家物語』では【壇ノ浦の戦い】直前に源義経と梶原景時が言い争った際、景時を止めたのが実平だとされています。

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平家物語はあくまで創作なので、事実かどうかはアヤシイものの、成立当時の人々から見て

「このようなときに実平ならば仲裁するだろう」

と評価されていたのではないでしょうか。

そんなわけで実平本人については、特にトラブルや荒っぽい話もなく……となると、記録における登場も少なくなってしまいます。

建久二年(1191年)7月、鎌倉で厩の立柱上棟の奉行をしていた――という記録が最後に、この後どうしていたのかハッキリしません。

吾妻鏡』は一部を除いて人の没年に関する記述があいまいですので、ご多分にもれずというか、なんというか。

同著の建久六年(1195年)7月13日に

「実平の後家の尼(出家した未亡人)が鎌倉へ参上し、酒などを献上した」

という記述が出てくるため、実平は1191年7月~1195年7月12日までに世を去ったと考えられます。

 

湯河原町の城願寺を創建

最後にもうひとつ、土肥実平に関する事績に注目しますと……。

地元である湯河原町の城願寺は、実平が創建したものだといわれています。

城願寺(湯河原)表参道と仁王門

城願寺(湯河原)表参道と仁王門/wikipediaより引用

こちらの山号である「萬年山」は、実平が「萬(万)年経っても我が家が栄えるように」と願ってつけたものなのだとか。

その通り……といいますか、この後の土肥氏は長く血を繋げていきます。

実平の孫である維平が【和田合戦】で和田義盛方についたため、一時、家勢は衰えたものの、子孫の一部は戦国時代まで続いたようです。

残念ながら、最上家のお家騒動に巻き込まれ、江戸時代初期に絶えてしまいますが……鎌倉時代から江戸初期まで続いたというだけでも、歴史上では稀でしょう。

もしも長生きしていたら、源頼家を支えるメンバーが14人にっても不思議はなかった――そう言えるのが土肥実平という武士ではないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
ほか

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