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【平清盛】
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安徳天皇の即位で絶頂かと思いきや……
平家と法皇の関係も変化しつつありました。
平清盛は、法皇との協調を図ってきましたが、嘉応の強訴が片付いた流れなどからわかる通り、世間的な影響については清盛のほうが上回っている状況です。
法皇本人や近臣にとっては、これが面白くない。
安元二年(1176年)7月、両者の緩衝材となっていた建春門院(滋子)が死去し、溝はさらに深まります。
具体的な動きが出てきたのは、一年近く経った治承元年(1177年)6月のこと。
このとき、”鹿ケ谷の陰謀”と呼ばれる平家排斥計画が発覚し、清盛はこの処罰として院の近臣を排除しにかかりました。
こちらも現代では少し見方が変わってきていて、
「鹿ヶ谷の陰謀は存在していなかった。後白河法皇の力を弱めるために、清盛がでっち上げたものだ」
とする説もあります。
治承三年(1179年)には、清盛にとってつらいこと、そして腹立たしいことが続きました。
まず6月に娘の盛子が逝去。これに対し、後白河法皇は清盛に何の相談もなく、盛子の荘園を没収してしまいました。
さらに7月には、嫡子の平重盛が病死してしまいます。こちらも同様に、法皇が勝手に重盛の知行国・越前を没収してしまいます。
続いて、法皇は松殿基房の子・師家(当時8歳)を権中納言に任じました。
基房の兄である近衛基実の子・基通が成人していたにもかかわらず、です。
基通の継母が清盛の娘・盛子であり、そして妻も同じく清盛の娘・完子だったため、後白河法皇は平家の影響力を弱めるために、基通を遠ざけて師家を引き立てたものと思われます。
ここまであからさまにやられると、清盛としても黙っていられません。
同じく治承三年11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行しました。
いわゆる【治承三年の政変】です。
松殿基房・師家をはじめ、反平家とみなした公家や院の近臣たち39名をクビにしてしまいました。
そして後任には、平家に近い人々を就けます。
さらに後白河法皇を鳥羽殿に押し込めて、実権を完全に奪取。
清盛の怒りがうかがえるというか、お互いに極端すぎというか。
大掃除を追えた清盛は、後のことを宗盛に任せて福原に帰ります。
しかし平宗盛は、清盛と比べるとかなり優しい性格をしており、このような大鉈を振るった後の始末には向いていませんでした。
また、高倉天皇や近衛基通も、これまで法皇や清盛に導かれてきた側です。
急に「今日から政治を主導しろ」と言われても、「そんな無茶な」と思ったことでしょう。
そのため清盛は楽隠居とは行かず、たびたび政治の場に出てくることになります。
まずは政治経験の少ない宗盛らをサポートさせるため、左大臣・藤原経宗、そして右大臣・九条兼実を懐柔。
異母弟・平頼盛の武力を取り上げながら、政治的に復権させました。
他、清盛の妻の弟である時忠、平家一門から妻を迎えていた藤原(四条)隆季・源(土御門)通親などに実務を任せています。
治天の君となった高倉天皇には迷惑でしかありませんね。
周囲は平家の息のかかった者ばかり。
よほどそれが堪えたのか、政変からおよそ3ヶ月後の治承四年(1180年)2月に退位してしまいました。
そこで跡を継いだのが、言仁親王改め安徳天皇。
高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた人です。
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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも可愛い赤ちゃんが出て話題になっていましたね。
清盛は天皇の外祖父として、かつての藤原道長のような地位に登りつめたことになります。
しかし、後白河法皇を押し込めた強引さなどから、水面下で平家への反感は募っていました。
それが噴出したのが、かの有名な【以仁王の挙兵】でした。
以仁王の挙兵
治承4年(1180年)5月26日。
後白河法皇の子である以仁王(もちひとおう)が源頼政と共に挙兵しました。
興福寺・園城寺もこの動きに同調し、再び反平家の機運が高まります。
これを知った清盛は、ただちに兵を動かし、以仁王らを討ち取らせました。
しかし、延暦寺も反平家に傾きそうだということがわかり、地勢的に不利な京都を捨てることを決意。
清盛一生の不覚は、ここで安徳天皇を巻き込んで遷都を選んだことでしょう。
ただでさえ、遷都には膨大な資金と時間がかかります。
さらに、この頃の近畿地方は【養和の飢饉】の端緒となる干ばつに見舞われていました。
そんな状況で強引に遷都を選んでしまったのですから、それまでの遺恨があろうとなかろうと、反感を招くのは致し方ありません。
飢饉については、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも北条義時が話題にしていましたよね。
こうした中で、以仁王の令旨を受けた人々が兵を挙げました。
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一ヶ月ほど遅れて木曽義仲が、それぞれ地元の勢力を率いて立ち上がったのです。
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これに対して清盛は平維盛を総大将とし、東国へ軍を派遣しました。
しかし、彼らはこれまた有名な富士川の戦いで逃走してしまい、平家の評判を決定的に落としてしまいます。
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上方でも反平家の動きが勃発。
園城寺・興福寺・延暦寺などの寺社勢力や、近江源氏などが結びつき、琵琶湖周辺を占拠。これによって物流と交通を押さえられてしまいました。
まだまだ動きは止まりません。
程なくして九州でも反平家の乱が発生し、さらには高倉上皇をはじめとした京都周辺、そして平家一門からも遷都への反対意見が強まり、清盛は諦めて京都へ戻りました。
しかし、それでおとなしくする清盛ではありません。
平清盛は、京都に近いエリアの外敵を排除するため、一門の人間を差し向けました。
まずは平知盛らに命じて園城寺を焼き、近江源氏を討伐すると(「近江攻防」と呼ばれる)、孫の平重衡は奈良へ向かわせ、興福寺や東大寺などを焼かせました。
こちらは【南都焼討】としてよく知られていますね。
こうしたパワープレイで、いったんは近畿周辺の反平家勢力も収まったかに見えました。
しかし、やりすぎでした。
「数千の民と多くの仏像を私欲の犠牲にした」という事実は、清盛に”仏敵”の烙印を押し、目の前の不満を鎮めることはできても、潜在的な敵を増やしたといえます。
実際、治承四年中に平家側だった伊予の河野通清・通信父子が離反。
翌治承五年(1181年)には豊後・伊勢・志摩で豪族の反乱がありました。
関東武士たちの進言により、頼朝が常陸の佐竹氏など、平家側の家を攻略していったことも、清盛たちにとっては不利に働いていきます。
むろんここで心が折れる清盛ではありません。
状況を打開しようと、いくつかの工夫をこらします。
・平宗盛に畿内の軍事権
・越後の城資永と陸奥の藤原秀衡に、頼朝と信義追討の宣旨
を与えたのです。
平宗盛には畿内を掌握させ、城資永と藤原秀衡には、東日本における反平家勢力の打倒を目指したのです。
そして治承五年(1181年)2月下旬には、宗盛らが東国へ向かう予定だったのですが……。
清盛、倒れる――。
同じ部屋にいると焼けてしまう
「同じ部屋にいると焼けてしまいそうだ」
そんな風に言われる程の高熱が出て、倒れてしまった平清盛。
病名は不明で、いくつか候補は推測されています。
・マラリア
・インフルエンザ
・猩紅熱
・肺炎
・脳出血
・腸チフス
・髄膜炎
一昔前は、マラリア説が主力でしたが、周囲の状況からしてまだまだ謎。
いずれにせよ死期を悟った清盛は、後白河法皇にこう献言します。
「自分の死後のことは全て宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行ってください」
これに対し法皇は返事をしなかったため、清盛はこのことを恨みに思っていたようです。
しかし、報復に出る前に余力が尽きてしまいました。
治承5年閏2月4日、鴨川東岸にある平盛国の屋敷で息を引き取ったとされています。
享年64。
終焉の地は異説もありますが、有名なのがその遺言ですね。
「我が子孫は最後の一人になるまで頼朝と戦い、奴の首を我が墓前に供えよ」
頼朝としては「清盛を討って父の仇討ちを果たす」ことが目的だったようで、平家に対しては、この後、和解を申し出ます。
しかし宗盛が、真っ向から跳ね除けました。
「父の遺言がありますので、和睦など出来ません」
後世の創作では、貴族的に描かれることの多い平家ですが、武士としての気概を失っていたわけではなかったのでしょう。
最終的な勝者となる源頼朝らと比較されるためか。
悪役として描かれがちな清盛の人物像も、別の記録では好人物として書かれたりします。
例えば鎌倉初期・建長四年(1252年)に成立したとされる説話集『十訓抄』の中ではこう紹介されています。
「若い頃の清盛は、とても慈悲深い人物だった」
非常に優しい人物像も浮かんできます。
・戯れやお愛想(おべっか?)をされたら機嫌よく笑ってやった
・誤りや失敗をした者にも、声を荒立てて叱るようなことはなかった
・冬の寒さが厳しいときは、若い小侍従たちを自分の衣の裾の方に寝かせてやった/翌日彼らが寝坊していても咎めず、ゆっくり寝かせておいた
・とても身分の低い召使いでも、本人の家族や知り合いの見ている前では一人前に扱った
傲慢な権力者像からはかけ離れた姿ですよね。
また『愚管抄』には、こんな描写があります。
「清盛は常に慎み深く、よく思慮を巡らせて、どの方面にも細かい気配りをする人だった」
晩年の政策には強権的なところも多々見られますが、一個人としての平清盛には、学ぶべき所も多いのかもしれません。
北条義時の三男で、北条泰時の弟である北条重時は、同様の心がけを持ち、家訓として周囲に言い含めていたともされています。
敗者だから悪人で勝者だから善人とは限らない――。
そんな視点で捉えると、また違って見えてくる人物の好例ではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
五味文彦/日本歴史学会『人物叢書 平清盛』(→amazon)
浅見和彦『日本古典文学全集 十訓抄』(→amazon)