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【永享の乱】
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「今度の将軍は、何かあれば容赦しない!」
繰り返しますが、当時の将軍はあの「万人恐怖」と恐れられた義教です。
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元は延暦寺の座主までのぼりつめた義教。
このころ古巣の延暦寺とは真っ向から対立し、山門使節四人を処刑した後でした。
「今度の将軍は、何かあれば容赦しない!」
そんな姿勢は、遠く離れた鎌倉府にもハッキリ伝わっていたことでしょう。
持氏が高をくくっていたのか。
わかっていてもなお反抗したのか。
いずれにせよ、上杉憲実以下の鎌倉府で働く人々は気が気じゃなかったはずです。
後世から見ると「そんなアホ、とっとと幕府に告発してクビにしてもらえばいいじゃん」と思ってしまいますが、憲実は性格的にも実に生真面目で、さらに儒教に傾倒していたため、どんなにアレな主君でも手荒な真似はしたくなかったようです。これがぐう聖か。
ついに永享の乱が勃発!
憲実は、義久の元服式に出ませんでした。
「口で言うだけでは持氏様は考え直してくださらない。元服式を欠席して、行動で示してみれば……」
と考えたそうです。
が、式の前に
「日頃、ウザイ憲実を、持氏様は今度こそ始末するつもりだ」
という噂もあったそうです。
そして、ついに持氏は
「あの野郎、俺の倅(せがれ)の大切な日にサボるとはどういう了見だ! ブッコロ!!」
とブチ切れ、兵を出そうとします。
上杉憲実、大ピンチ!
自身の予想とは異なる展開に「かくなる上は腹を切ってお止めするしかない」と切腹の準備を始める始末です。
近習たちに止められて思いとどまりますが、その代わり憲実は、上杉氏の本拠だった上野(現・群馬県)へ引き上げます。
同時に、室町幕府へ事の次第を知らせる使者を出したようです。
後世では、この時点で【永享の乱】が勃発したと受け止められています。
本拠の鎌倉府で部下に裏切られ
足利持氏も動き始めました。
鎌倉府を三浦時高(鎌倉時代の御家人だった三浦氏の傍流子孫)にあずけ、
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自らは武蔵へ出陣。
この一報を京で聞いた将軍・義教は「あの野郎、ついにやりやがったな!!」と激怒し、持氏討伐のため駿河・甲斐・信濃の大名へ出兵を命じました。
彼らは主に相模で持氏方の軍と戦い、一勝一敗といった構図になります。
持氏はこれを聞き、武蔵から相模に陣を移して幕府軍を迎え撃とうとしました。
が、その直後に鎌倉府の留守を預けていたはずの時高が「もう持氏様についていけない……幕府方につこう」と覚悟を決めて、一度地元の三浦に戻ってから鎌倉へ攻め込んでしまいます。
意地の悪い人であれば
「留守を任せた相手に裏切られるってどんなきもち? ねえどんなきもち??^^」
みたいな態度を取るところですが、前述の通り憲実はとても律儀な人だったので、そんなことはありません。
一方、鎌倉府は当然のことながら大慌てです。
義久と鎌倉公方家の親戚にあたる足利満貞は報国寺。
義久の弟である安王丸・春王丸は下野日光山。
もう一人の弟・永寿王丸は甲斐を経て信濃へ。
散り散りに逃げていきます。
彼らは全員、元服前の少年たちだったんですが……トーチャンのせいで大迷惑ですね。
このとき上杉憲実は、越後・上野の兵を率いて、武蔵分倍河原まで出陣しました。積極的に持氏の首を取ろうとはせず、先陣としてやってきた軍を追い返すに留めています。
それから半月ほどして、憲実の重臣で鎌倉付近まで兵を率いていた長尾忠政が、鎌倉へ帰ろうとしていた持氏と、葛原(現在の神奈川県藤沢市)でばったり出くわします。
忠政は持氏を説得し、幕府軍へ降参するよう促しました。
事ここに至って、持氏もやっと状況を冷静に受け止め、出家を決意。
さらに持氏方の一色直兼と上杉憲直を処分(という名の自害命令)することを約束し、数日のうちにそれを実行しました。
忠政はいわゆる文武両道タイプだったようだから、弁も立ったのでしょう。
余波は続き結城合戦に繋がる
憲実もこれに安堵し、持氏親子の助命を義教に頼んだ……のですが……が、果断がモットーの義教は同意しません。
「持氏を徹底的に追い詰めろ! どうしてもイヤだと言うなら、お前もまとめて始末してやる!」
と、半ば以上脅迫をし、憲実はにっちもさっちもいかなくなります。
かなり逡巡の末、結局は将軍に逆らいきれずに出兵。
持氏と義久、その近臣たちは自害し、これにて【享徳の乱】は終わりを告げました。
余波は、しばらく続きました。
鎌倉から脱出した持氏の息子たち安王丸・春王丸・永寿王丸が結城氏朝の元へ身を寄せ、結城城(茨城県結城市)に立てこもり【結城合戦】が始まります。
幕府と山内上杉家の軍に攻め込まれ、安王丸と春王丸は美濃国垂井で斬罪。
しかし、末っ子の永寿王丸の番になろうというところで【嘉吉の乱(1441年)】が起き、彼は命を取り留めました。
嘉吉の乱で、将軍・足利義教が殺されたのです。
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そして結城合戦から宝徳元年(1449年)に新たな鎌倉公方へ任じられ、将軍・義成(後の足利義政)の一字をもらって成氏と名乗るようになります。
あとは持氏の旧臣にあたる大名たちが成氏に仕え、鎌倉府が再興となるはずだったのですが……。
成氏は、憲実の子孫及び親戚である山内上杉家・扇谷上杉家と対立してしまうのです。
いわば敵対関係が継承されてしまったんですね。
成氏からすれば、上杉氏は父の仇だから仕方ないのですけれども、そもそもが持氏の勘違いと逆恨みを極まらせたのが原因です。
子供だった成氏がその事情を知っていたかどうか不明ですが。
この対立が【享徳の乱】へとつながっていきます。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「永享の乱」
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon)
永享の乱/wikipedia