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【笛吹峠の戦い】
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追い込まれた上杉は尊氏暗殺を狙ったが……
ここで弟の義宗が兄の義興を待っているうちに、上杉憲顕や後醍醐天皇の皇子・宗良親王(むねよししんのう)など、他の南朝方と合流することができました。
しかし、他の人がやってくるということは、尊氏らも体勢を整える時間があったということ。
そして、義興よりも先にやってきたのが……そうです、尊氏です。
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当然のことながら、激しい戦闘が始まりました。
ノリにノッているときは抜群の統率力を見せ、ダメなときは徹底してダメな尊氏。
この戦いの時は「ノッてる」ときでした。
新田・上杉軍は苦戦し、このままでは敗北か……という形勢の中で、一計を案じる者が現れます。上杉憲顕の兵のうち、二人が足利方の兵に化け、尊氏の首を直接取ろうとしたのです。
彼らは首尾よく足利方の陣へ忍びこむことには成功しました。
が、暗殺は失敗。
残念ながら二人の顔を見知っている者がいたためにバレてしまったのです。
ここでうまくいっていたら、その後の歴史は全く違うものになっていたのでしょう。
戦場という非日常の場でも、顔がわかるような者同士で殺し合う――というあたりは何とも無情ですね。
切っても切れない「戦場と軍人と笛」
上杉憲顕がこの計画を知っていたかどうか?
それはハッキリしませんが、日が暮れて彼我の陣地に灯る火の数から戦力差を思い知り、上杉軍は先に撤退してしまいます。
新田軍もこのままでは分が悪いと考え、義興と合流できないまま越後へ退いたといわれています。
そこで「笛吹峠」という名称に注目です。
この戦いの最中、とある夜、宗良親王が月明かりを見て笛を吹いたことからきているのだとか。
「月夜に笛を奏でる貴公子」とは、絵物語のような情景ですよね。
実際には敗色濃厚で「もののあはれ」を感じている場合じゃないんですが、それを忘れるほど見事な月夜だったのでしょう。
古来「戦場・軍人・笛」という取り合わせはよくあります。
武田信玄が、笛の音に聞き惚れていたときに狙撃され、その結果、亡くなった――なんて伝説もありますね。
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ただし……この戦い自体は中々激しかったようで、後に付近の工事をしたときに大量の人骨が出土したと言います。ゾワッ……。
★
この戦いに勝利した足利尊氏は、関東を完全に平定。
観応の擾乱が始まった1349年、尊氏の四男・足利基氏が第二代・鎌倉公方に就任しておりましたが、その体制がより堅強なものとなっていきます。
とはいえ、この鎌倉公方を巡って関東も後に戦国時代へ突入するのですが、それはまた別の機会に。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
笛吹峠(埼玉県)/Wikipedia
武蔵野合戦/Wikipedia
足利尊氏/Wikipedia