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【武田信義】
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木曽義仲の挙兵とニアミス
甲斐源氏が再び記録に登場するのは、治承四年(1180年)のこと。
平家打倒を計画した以仁王の令旨を受け取ってからです。
例によってこの時代には公的な記録が存在しないため、武田信義がいつ令旨を受け取ったのか、具体的な日付は明らかになっていません。
しかし、源頼朝が【石橋山の戦い】で敗れた後、平家方の大庭軍と信義軍が波志田山で戦っているため、おそらく頼朝とほぼ同時に挙兵したものと思われます。
石橋山で頼朝とはぐれた(別れた)者のうち、甲斐源氏軍と合流した者もいたようです。
9月には諏訪に攻め込み、順調に近場を固めて後顧の憂いを断っています。
この間、近い場所から挙兵した木曾義仲(源義仲)と衝突しなかったことは、幸運だったかもしれません。いろいろな意味で。
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義仲は9月頃から本格的に動き出し、西上野に進出した後、横田河原の戦いを経て北陸道に進出したため、信義とはいい感じに場所もタイミングもずれていました。
ぶつかっていたら……なかなか面倒なことになってそうです。
東国で三人の源氏が
その後、武田信義は駿河・遠江方面に向かい、10月半ばには【鉢田の戦い】で平家方の目代(もくだい・代官)を撃破。
同時期は、頼朝が各地の武士や源氏の縁者に連絡を取っており、信義のもとにも北条時政がやってきていました。
鉢田の戦いのときも、信義軍に時政が参加していました。
二人の間には特に逸話もないようですから、まぁうまくやっていたのでしょう。
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また、この年(治承四年=1180年)の末に蜂起した近江源氏とも連絡を取っていたようです。
武田信義は、源平~鎌倉期の武士としてはなかなか政治的感覚が優れているといいますか、いろいろと気の回る器用なタイプといえそうです。
信義はそのまま【富士川の戦い】で頼朝と合流し、勝利を収めると、朝廷からもその存在が認められるようになっていきました。
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つまり当時の東国は、源頼朝・武田信義・源義仲という三人の源氏が並立していたんですね。
結果、信義の親族から、頼朝へ近づく者や義仲と同道する者なども出始めましたが、それらについて信義が干渉した形跡はないようです。
しかし頼朝との間には、暗雲が立ち込めたこともありました。
養和元年(1181年)のことです。京都で“頼朝の耳目”と呼べる存在だった三善康信から頼朝に向けて、こんな報告が入りました。
「後白河法皇が、武田信義に命じて頼朝様を討たせようとしているようです」
すかさず頼朝が、信義に直接問い合わせると、信義は自ら鎌倉へやってきて弁明の機会を求めました。
「私にはそんな命令は来ていませんし、頼朝様に背くつもりもありません」
信義は、そう述べた上で、誓約書を書いて持ってきたため、頼朝は対面を許します。
それでも左右に三浦義澄や梶原景時などの側近を同席させた上で……という、緊迫した状況。
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信義はその空気を察したのか。
自ら刀を外して預け、頼朝が退席してから返してもらったのだそうです。
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