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【武田信義】
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平家討伐に向けて協力体制
命がけの面会で疑いが晴れたのでしょう。
武田信義はその後、頼朝軍と協調した動きを見せています。
源範頼や源義経と協力し、源義仲の討伐や【一ノ谷の戦い】【壇ノ浦の戦い】に参加していました。
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こうして平家打倒の一翼となった信義と甲斐源氏。
厚遇されてもおかしくなさそうなものですが、その存在は結局、頼朝にとって脅威と受け取られていました。
少々時系列が前後します。
それは平家滅亡前の元暦元年(1184年)6月16日のことでした。
武田信義の子・一条忠頼が鎌倉に招かれ、宴の席で暗殺される
という大事件が起きていたのです。
その二ヶ月前に、源頼朝は長女・大姫の婚約者だった木曽義高を殺害。
二人を排除したことにより、甲信の地において頼朝の力が強まった……と見ることもできるでしょう。
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甲斐源氏は力を弱めて存続
一方で、甲斐源氏の中でも親・頼朝派の加賀美遠光については、頼朝が信濃守への任官を上申していたりします。
平家を滅ぼした後、鎌倉に武士の政権を根付かせたい頼朝としては、山を越えれたところに自分と匹敵する勢力が存在し続けるのは避けたいところ。
かといって、奥州藤原氏の始末も考えていたでしょうから、甲斐源氏とまでガチバトルをするのは得策ではありません。
そんなわけで、次世代の殺害&親族の切り崩しという手段をとったのではないでしょうか。
だとすれば、この頼朝の作戦は首尾よく進み、甲斐源氏は大幅に力を弱め、鎌倉政権の御家人として存続してゆきます。
信義も世情の流れを悟ったのでしょう。
事件に対し、大きな動きを見せていません。
『吾妻鏡』によると文治二年(1186年)3月9日に信義が亡くなったとされていますが、この後も信義の名が登場する場面があるため、正しくない可能性もあります。
この扱い自体が、当時の甲斐源氏、その勢力の衰えを表している……ともとれるでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
『国史大辞典』
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
ほか