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【北条時宗】
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おまけに日蓮宗の開祖・日蓮までややこしや
まずは朝廷から幕府へ連絡が送られますが、幕府としても勝手な判断はできません。
そこで後嵯峨法皇の中宮であり、後深草天皇・亀山天皇両者の母親でもある大宮院(おおみやいん)にお伺いを立てることにしました。
最初から、朝廷のほうで大宮院の意向を確認して、それから幕府に連絡したほうが無駄がなかったんじゃ……?とツッコミたくなるのは野暮ですかね。
大宮院はやはり「亀山天皇の血筋を続けていくのが故院の意思かと思います」との返事。
こうして幕府は亀山天皇側につき、世仁親王が後宇多天皇として即位します。亀山天皇は上皇となり、治天の君として政治を執り行うようになりました。
まあ、これで後深草天皇側が黙っているわけがないのですが……。
次に事態が大きく動くのは元寇の後のことなので、ここで一区切りとしましょう。
ついでにいうと、ほぼ同時期に日蓮宗の開祖・日蓮が
「今の仏教と世の中はここがなってない!!」(超訳)
というようなことを立正安国論などで主張し、世間を(いろんな意味で)賑わせていました。
時宗からすれば「この忙しいときに人心を惑わすんじゃねぇよクソ坊主(#^ω^)」(※イメージです)としか思えなかったでしょうね。
時宗は禅宗に帰依していましたので、自分の信じる宗派を否定されて気分を害したでしょうし、ただでさえ元軍の迎撃体制を整えたり、上記の皇室がらみでバタバタしていたところですし。
それでなくても、歴代の執権は激務のせいで早死にしたといわれています。
こんな歴史に残る大事件を、ほぼ同時に複数処理しなければならなかった時宗の心身に、どれほどの負担がかかったかは想像を絶する……といっていいでしょう。
時宗に子供が少なく、側室がいないのも、それどころではなかったからなのでしょうね。
忙しいからこそ癒しを求めて……というタイプの人もいますが、時宗はそうではなかったようです。
クビライ・カーン、いよいよ
さて、話を元寇関連に戻しましょう。
戦闘の経過などは以下に詳細がありますので、ここではざっくりとした流れをお話しますね。
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか
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最初の数回は元から
「ウチの傘下になれよ。ならないとどうなるかわかってるよね?^^」(超訳)
という手紙を無視していた幕府ですが、あまりにもその回数が多いため、日本からも元の都・大都へ使者が立てられました。
元の皇帝であるクビライ・カーン(フビライ・ハーン)に謁見し、その意志を確かめようとしたのです。
しかし、これまで返書をしなかった鎌倉幕府に対し、元のほうでは相当に不審感がつのっていました。
そのため、せっかく無事に海を渡れたというのに、日本の使者は謁見できずにトンボ返りすることになります。
この時点で、既に元の出兵が決まっていたのかもしれません。
実際、元は日本からの使者を追い返した翌年から、本格的に日本侵攻の準備を始めています。
そしていよいよ文永十一年(1274年)10月。元の大軍が数百隻の軍船が、対馬・壱岐に襲来しました
両島に赴任していた御家人らは勇戦しましたが、衆寡敵せずあえなく敗れ去り、住民のほとんどが惨殺されるか、捕虜としてさらわれるかという惨状になりました。
そのまま九州・肥前へ上陸した元軍は、ここでも似たようなことを繰り返します。
【弘安の役】暴風雨は微妙では?
一方、日本側では、対馬・壱岐のことが大宰府に伝えられ、九州の御家人たちが博多へ集合していました。
そして、博多湾で元軍vs九州御家人たちの戦いが始まります。
やはりここでも激戦が繰り広げられ、多くの武士と庶民が命を落としました。
しかし、遠く海を渡ってきた元軍としては、帰り道のこともそろそろ考えねばならないところです。
元の武将の一人が日本軍にやられたこと、兵が疲弊しつつあることも勘案された結果、元軍はここで一度引き上げることになりました。
が、そこは海の事情に明るくない内陸国のこと。
本来ならば日和待ちをしなければならないところを、元軍は急いで帰ろうとしたために、出港には向かない荒天、しかも夜間に船出したため、多くの犠牲を出してしまいました。
この辺が日本では「神風」と呼ばれたわけですが、近年の研究では「旧暦10月=新暦11月に暴風雨は起きにくいんじゃないか?」との見方も強まっています。
福岡管区気象台のホームページ(→link)によりますと、2011年1月のように、大陸や海上の気圧の影響によって強い寒気が九州に流れ込むことがあるようです。
もしかすると、元寇のときも急激な寒気のせいで船の漕ぎ手が激減し、海を渡れなかった……なんて理由だったのかもしれません。
それならそれで気圧の流れ=神風といえないこともないですが。
この辺も後日、元寇をピックアップするときにもう少し考察してみるとしましょう。
今回は時系列を進めていきます。
こうして第一次襲来である【文永の役】は終わりました。
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