矢部禅尼

絵・小久ヒロ

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矢部禅尼(北条泰時の妻)の不思議な魅力~三浦は滅ぼされるも孫が次々と執権に

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夫・盛連と子・時氏に先立たれて出家

承久の乱後、上洛した三浦義村は、政治活動を行いました。

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義村は、京都でも智謀を発揮。

藤原定家の日記『明月記』に、前漢の張良、陳平に例えてこう記されています。

義村八難六奇之謀略、不可思議者歟

義村の八難六奇の謀略、不可思議の者か。

しかし、その娘婿であり初の夫・佐原盛連は、義父・義村を支えるどころか、失態を犯してしまいます。

義父の権力を傘に着たのか。

それともストレスが溜まっていたのか。

嘉禄2年(1226年)、盛連は京都で酔っ払った挙句に傷害事件を起こし、「悪遠江守」と呼ばれるようになってしまうのです。

朝廷から疎まれ、数年間諸国を放浪すると、天福元年(1233年)、強引に上洛しようとして殺害されてしまいました。

夫の横死を受けた初は、法名「禅阿」として出家。

その後、三浦にある矢部郷に戻ったため「矢部禅尼」と呼ばれるようになります。

なお、彼女が出家する3年前の寛喜2年(1230年)、泰時との間に生まれた北条時氏は、28という若さで両親に先立ち、病死していました。

そして矢部禅尼を語る上で避けて通れないのが【宝治合戦】でしょう。

 


彼女の子が執権を継いでいく

宝治合戦とは、宝治元年(1247年)に起きた北条と三浦の権力闘争です。

『鎌倉殿の13人』の舞台からは少々先の時代に起きた内紛であり、結論だけを申しますと、三浦一族が敗北します。

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となれば矢部禅尼も立場を失いそうに思えるでしょうか。

しかし、彼女の子である盛時は北条方につき、後に三浦家再興を果たしました。

三浦義村の子孫は【宝治合戦】で全滅したわけでありません。

男系ならば確かにそうですが、女系が残り、三浦家を再興させたのです。

そして建長8年(1256年)――矢部禅尼は70歳で生涯を終えました。

泰時と矢部禅尼の子・北条時氏は若いうちに亡くなってしまいますが、血統は途絶えず、彼女の孫にあたる北条経時が第4代執権、北条時頼が第5代執権となっています。

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北条の泰時と、三浦の初(矢部禅尼)の子が、執権を代々継いでいったのです。

なんと不思議な史実でしょうか。

北条と三浦はライバルともされます。

そのライバル同士が夫婦となり、両者の血により執権が引き継がれていったのですから、興味深い。

三浦の血は、女系を通して残り、矢部禅尼の遺した足跡は大きなものがあります。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで』(→amazon
高橋秀樹『三浦一族の中世』(→amazon
高橋秀樹『北条氏と三浦氏』(→amazon
峰岸純夫『三浦氏の研究』(→amazon

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