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【楠木正成】
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坂東一の弓取り 宇都宮公綱と対峙
元弘三年(1333年)4月、楠木正成は突如河内に現れて幕府方の城を攻略、兵糧を奪い、軍備を整えました。
また、この頃に六波羅探題から差し向けられた宇都宮公綱と戦ったとされています。
彼は「坂東一の弓取り」と呼ばれた精強な武士。
宇都宮が小勢で出てきたということは、決死の覚悟でやってきたに違いない。そんな相手に正面から戦っても味方が危うくなる――そう考えた正成は一計を案じます。
わざと天王寺を占拠させた後、正成方がその周りで三日三晩篝火を焚いて文字通り煙に巻き、宇都宮方を不安に陥れて撤退させたのだとか。
『太平記』では以下のように双方を褒め称えています。
『もしも両軍がぶつかり合っていたら、楠木も宇都宮も討死していたに違いない。お互いに退いて名誉と命を守ったのは、二人が深謀遠慮の将だからだ』
この話は赤坂城や千早城に比べてあまり知られていませんが、やはり正成の頭脳明晰ぶりがうかがえますね。
正成の戦略眼が鍛えられたのは「小勢だからこそ、あらゆる手段を使って勝つのだ」という価値観が彼にとって自然なものだったからなのかもしれません。
武士としての名誉とか、どうでもええ。勝ちゃいいんだ、勝ちゃ。
ということで、もしも正成が力攻めができるほどの大軍を率いていたら、後世に知られるほどの名将にはなれなかったのかもしれません。
正成は再び赤坂城に入り、同時期に護良親王も吉野近辺でゲリラ戦を始め、大和・河内あたりで倒幕の機運を高めていきました。
赤坂城奪還・千早城攻防戦
楠木正成は赤坂城を改修すると、さらにその背後に千早城を築き、万全の体制で籠城戦に望みました。
もちろん幕府も黙っちゃいません。
2月下旬から赤坂城・千早城攻略を開始し、まずは赤坂城から落とします。
諦めずに千早城で粘る正成。
戦闘の経過については別記事にて後日公開しますので、今回は詳細を省きますが、
正成の戦法が巧みだったため、幕府軍の多くは千早城に釘付けにされ、その間に護良親王も吉野で挙兵。
あちこちに令旨を出して倒幕を促しました。
これに応じたのが赤松則村や足利高氏(足利尊氏)、あるいは新田義貞などです。
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5月上旬に尊氏が六波羅探題を落とすと、同じく中旬に義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は崩壊します。
尊氏が六波羅を落としたという知らせを聞いて、千早城を攻めていた幕府軍も霧散していきました。
つまり正成は、幕府の大軍を引き付けるという大任を果たしたわけです。
この戦いについては、東京大学の本郷和人教授が著書の中で「城という軍事的拠点で敵兵を疲れさせる戦術を日本で初めて実行した」として評価されています。それほど画期的だったんですね。
そして6月初めには摂津へ向かい、隠岐を脱出して帰京する道中だった後醍醐天皇と合流。
両者はそのまま京都へ入りました。
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