楠木正成

楠木正成/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町 逃げ上手の若君

戦術の天才・楠木正成には実際どんな功績があるのか?なぜ最終的に尊氏に敗れた?

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恩賞てんこもり

後醍醐天皇が【建武の新政】を始めると、楠木正成には褒美として

・記録所寄人
・恩賞方寄人
・雑訴決断所奉行
・検非違使

といった都での役職と、河内の国司及び河内・和泉二国の守護の座が与えられました。

寄人は現代でいうところの職員みたいなものです。後醍醐天皇も褒美を与えたいのはわかりますが、仕事を与えすぎですね。

他にも「武者所」では新田義貞や名和長年らと共に務めていたとか、名和長年・結城親光と共に天皇の身辺を警護したともいわれています。

義貞とは後々一緒に戦うこともあったので、この辺りからお互いの人となりを知っていったのかもしれません。

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やがて護良親王足利尊氏が対立すると、正成は親王方につきました。

同時代に成立した『梅松論』という軍記物語では

「後醍醐天皇が護良親王・楠木正成・名和長年らに尊氏暗殺を命じた」

ということになっています。

後醍醐天皇が関与したのか、正成や長年が賛同していたか、その辺の詳細は不明ですが、護良親王は確実に尊氏を暗殺しようとしていました。

『太平記』によると尊氏のほうが一枚上手で、逆に

「護良親王殿下が皇位を簒奪しようとしているので、先手を打つべきです」

と後醍醐天皇に讒言。護良親王は名和長年・結城親光らに捕らえられて鎌倉へ送られ、建武二年(1335年)の【中先代の乱】における混乱の中で暗殺されることになります。

『梅松論』も『太平記』も軍記物語の面が強いので、全てが事実とはいえません。少なくとも尊氏の言動によって護良親王が封じ込められたことは事実です。

どちらも正しかったとしたら、名和長年の動きが表裏比興とか二股膏薬ってレベルじゃありませんね。

ちなみに、同時期に「北条氏の残党が尊氏と新田義貞の暗殺を試みて失敗した」という話もあります。

これは私見ながら、もしも正成が尊氏暗殺計画を知っていた・関与していたのなら、もう少し違う手段を用いたのではないでしょうか。

・北条氏残党が暗殺に動いた直後を立て続けに襲うとか

・屋敷に招いて毒殺するとか

・尊氏本人ではなく両腕といえる直義や高師直を先に始末するとか

そういうやり方をしそうですよね。

護良親王は正成にとって籠城戦中の後援者でもあり、相談されていたなら協力を惜しまなかったでしょう。

ちなみに護良親王が捕縛された時、正成はたまたま紀伊で反乱した佐々目憲法僧正という人物を討つために京都を留守にしていました。

これも、もしかしたら尊氏方の策略だったかもしれません。

正成が京都にいたら、何かしらの手段を講じて護良親王を逃がせたかもしれませんし。

いずれにせよ、親王の捕縛は、ただでさえ雲行きが怪しくなってきていた建武政権の信望をさらに失墜させました。

そりゃあ「自分の息子を信用せず、他人の尊氏を信じた上司」だなんてイヤですよね。

雑訴決断所の寄人筆頭だった貴族・万里小路藤房も失踪しており、その下についていた正成も距離を置いたようです。

藤房は『太平記』で「後醍醐天皇の忠臣」として描かれている人で、出家した説もあるのですが、判然としません。

正成は?というと、建武二年(1335年)6月に西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企んだときには高師直とともに捕縛側に回っているので、完全に京都を離れたわけではなさそうです。

あれほどの立場を与えてくれた後醍醐天皇を見限る事はできなかったのでしょう。

 


尊氏討伐の一翼として

後醍醐天皇暗殺が露見した直後、鎌倉では中先代の乱が発生しました。

当時の鎌倉は足利尊氏の弟・足利直義が治めていたため、尊氏は「乱の鎮圧に向かいたいです!」と願い出ます。

しかし、なかなか許可が下りない。

尊氏が征夷大将軍の座を望み、天皇が「鎌倉で新たな幕府を作るつもり?」と警戒したからともされています。

焦れた尊氏は勝手に東へ向かい、見事、鎮圧に成功。

鎌倉に留まって自分に味方した武士へ勝手に恩賞を配り始めてしまいます。

これに激怒した後醍醐天皇は、同じく建武二年11月に、中務卿尊良親王と新田義貞を足利尊氏・直義の追討に向かわせました。

正成はこの間京都にとどまり、京都・畿内の守備についていました。

代わりに一族の楠木正家を代官として常陸へ派遣し、関東における南朝方の足がかりを作らせています。

ここで奥州将軍府の北畠親房・北畠顕家とも連絡を取ったかもしれませんね。

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一方、そのころ新田義貞は敗れて京都へ向かい、尊氏が追って西上していました。

さらにその背後から北畠顕家が日本史上最速で追撃する、という壮大な追いかけっこ状態になります。

同年末には尊氏が京都に迫り、正成は後醍醐天皇を擁して比叡山へ出向き、尊氏軍の兵糧を絶つ手段に出ました。

そして年が明けて建武三年(1336年)1月、宇治で足利軍と衝突しますが、この戦いに敗北。

北畠軍が到着して体制を立て直すと、義貞は三条河原、正成は結城宗広や名和長年と共に糺の森で足利軍を破ります。

しかしまだ完全勝利ではなかったので、正成は一計を案じました。

「もしかしたら尊氏は小勢で近所に潜んでいるかも」と言い、義貞に坂本へ行くよう進言。

そして京都市中では僧侶たちに戦死者を弔わせ、

「正成や義貞など天皇方の主だった将が討死したので、供養するために遺体を探している」

と噂を流させて、尊氏軍をおびき寄せるのです。

その上で夜になってから蔵馬方面に松明をたくさん立て、

「今まさに天皇方の兵が落ち延びています!!」

と尊氏らを勘違いさせ、追撃しようとする尊氏軍を京都の郊外から囲み、散々に打ち破りました。

これも『太平記』に出ている話なので、どこまで事実かは分かりません。

しかし「味方が窮地に陥っていると見せかけて敵をおびき寄せる」というやり方は赤坂城や千早城でもやっている正成の得意技でもありますので、事実でもおかしくはなさそうですね。

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