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【辻殿】
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強弓伝説を持つ源為朝の外孫
辻殿(つつじ)の母は、伝説的な武人の娘でした。
その名も源為朝(ためとも)――。
頼朝にとっては叔父にあたり、戦場では他に並ぶないほどの強弓で知られていました。
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ただし、【保元の乱】において父・源為義とともに崇徳上皇方について敗れてしまうと、伊豆大島へ流刑。
その伊豆大島で国司に従わぬため討伐されたとされています。
『鎌倉殿の13人』では序盤に相模の武士・大庭景親が登場しましたが、彼には兄である大庭景義(景能とも)がいて、戦場で対峙した為朝の強弓を「あれこそ無双である」と語っていた記録があります。
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平家方について処刑された弟の景親とは異なり、大庭景義は古参の鎌倉御家人。
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弓術を重視する坂東武者にとって、源為朝の名は伝説の勇者として鳴り響いていたことでしょう。
つつじ(辻殿)は、そんな武人の孫なわけです。
坂東武士の御家人一族より、由緒ある家柄の娘――両親ともに源氏の血を引くつつじ(辻殿)を、頼家の正室にしようと頼朝が考えても不思議はありません。
源氏の血こそ鎌倉殿に相応しい。そんな正当性を示すうえで、彼女は重要な選択と言えました。
源氏の血を引く娘を頼家の妻に
『鎌倉殿の13人』では第23回において、建久4年(1193年)富士の巻狩りが描かれました。
【曽我事件】と重なったこの行事、頼家が二代目鎌倉殿となることを示すものとされ、ドラマではこの回から金子大地さんが演じています。
そして第24回放送では、父の頼朝、母の政子と共に京都へ上洛した姿が描かれ、建久5年(1194年)13歳での場面では元服した姿となっています。
史実における頼家の元服はいつなのか?
実はこのことも確定していませんが、ともかくこのときの上洛で、頼朝は京都の朝廷に近づくため、様々な工作をしていました。
姉・大姫の入内を画策し、さらには自らの後継者が頼家であることを都で披露したと考えられます。
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ところが、です。
建久8年(1197年)7月に大姫が亡くなり、さらには後鳥羽天皇の譲位により数多の工作も頓挫。
頼朝にとっては逆風が吹く建久9年(1198年)、今度は一転、慶事が訪れます。
頼家最初の子、頼朝には初孫となる一幡が生まれたのです。
頼家まだ17歳であり、逆算すると16歳の時にはせつ(若狭局)を側に置いていたことになります。
二人が結ばれた経緯は不明ながら、この一幡誕生の翌建久10年(正治元年・1199年)1月、頼朝が急死しています。
この時期には、辻殿(つつじ)も頼家の妻とされていたと考えられます。
そして翌正治2年(1200年)、辻殿(つつじ)は源頼家の第2子となる善哉(後の公暁)を産みました。
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