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【藤原兼子】
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権力と共に複数の求婚者が
正治元年(1199年)、兼子は45歳で典侍となりました。
後鳥羽院の側近として政治の表舞台に姿を現し、同年、土御門通親が重用していた藤原宗頼と結婚します。宗頼も遅咲きで、兼子の一歳年上でした。
そして建仁2年(1202年)、時代が動きます。
絶大な権力を誇っていた土御門通親が就寝中に急死。
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重石の取れた後鳥羽院はもはや思うがままに振る舞うことができ、側近として重用されたのが、藤原範光と藤原兼子という一才差の兄と妹でした。
後鳥羽院の意を受け、その実行に移す役割を得ていたのです。
姉や姪とは異なり、兼子自身は結婚からは縁遠い人生でした。
しかし、権力と共にその状況も変わってゆきます。
建仁3年(1203年)に夫の宗頼が亡くなると、兼子のもとへ複数の求婚者が現れました。
彼女の年齢を踏まえますと、あからさまな権力狙い。
それほどまでに絶大な力を持っていた兼子は、大炊御門家3代当主・藤原頼実を選びます。夫婦揃って後鳥羽院の側近となりました。
女性が政治権力を持ち、それを狙いに求婚者が殺到する。
若さでも美貌でも出産能力でもなく、その政治手腕が結婚の理由になる。
日本史とはこうも奥深いのか?
歴史の教科書ではほとんど取り上げられないのは、明治維新の影響かもしれません。このとき女官が天皇に取り次ぐ役目が廃止されました。
しかし本来、宮廷で女官には政治力があり、兼子はその代表格でした。
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後鳥羽院と実朝
京都で着実に権力を有していく藤原兼子。
鎌倉からの醜聞も彼女のもとへ届いていました。
建久10年(1199年)、源頼朝が落馬後に急逝して以来、鎌倉では酷いほどの内輪揉めが続いていました。
「鎌倉本体の武士」として京都でも知られていた梶原景時一族の死。
流浪の頃から頼朝を支えてきた比企一族の滅亡。
『吾妻鏡』では、その死を明記してはいない源頼家の酷い死に様は『愚管抄』にあります。
風呂で追い詰め、首に縄をかけ、急所を握りつぶした殺した。
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もう言葉にならない。これで報いがないはずがない……そんな都人の驚きと嘆きが記されています。
夥しい流血事件を繰り返した鎌倉では、頼家の弟・源実朝が将軍に就任。
後鳥羽院は、側近の源仲章を鎌倉へ送り込みます。
元服したばかりの実朝に、豊富な漢籍知識を基にした帝王学を教え込み、朝廷に忠実な将軍としたのです。
さらには坊門信清の娘・信子を京都から鎌倉へ向かわせ、実朝の正室としました。
坊門家は後鳥羽院母方の血筋です。
これでもか、という囲い込みでありますが、この時も血生臭い事件が起こってしまいました。
元久2年(1205年)、実朝の正室を迎えるため上洛した北条時政と牧の方(りく)の子・北条政範が齢16にして急死してしまったのです。
この事件の直後に、鎌倉は再び動乱へ。
畠山重忠の乱が起き、他ならぬ北条家でも
時政と牧の方(りく)
vs
政子と義時
という【牧氏事件】が起き、事件の余波を受けて、京都まで追手が到達しました。
狙いは時政の娘婿・平賀朝雅です。
ドラマでは、源氏一門としてはいささか情けない印象で討たれていましたが、『吾妻鏡』によると、後鳥羽上皇と囲碁を打っているときに「追手が来たから退席する」として自らその場を離れ、謀反人として討伐されたとあります。
首実検を務めたのは、朝雅を高く買っていた後鳥羽院。
これまた『鎌倉殿の13人』では、怒りに震える後鳥羽院の姿が描かれていましたね。
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北条氏により粛清の嵐が吹きすさぶ鎌倉では、その後も、和田義盛が大暴れする【和田合戦】など、状況が好転する兆しが見えません。
一方、京都では、武芸にも和歌にも長けた文武両道の帝王・後鳥羽院が君臨しています。
権力簒奪の好機を狙うには、十分すぎる状況が整っていました。
政子と会談
鎌倉にはある問題が持ち上がります。
源実朝と坊門信子夫妻は仲睦まじくしているものの、一向に子供が生まれません。実朝は側室も置こうとしない。
そんな建保6年(1218年)正月、実朝の母である北条政子が「熊野詣」を名目に上洛を果たしました。
実朝の特徴として、父・頼朝や兄・頼家をしのぐ官位昇進の速さがあります。
母である政子も、落飾した女性でありながら、従三位に叙せられました。
ちなみに「北条政子」の「政子」という呼び方は、官位を叙せられるために名乗ったものとされます。
父・時政から「政」を取ったとされ、官位を得るまでは別の名で呼ばれていたと考えられます。
しかし「政子」の名があまりに有名なためか、『鎌倉殿の13人』はじめフィクションでは最初から政子名義で通すことが一般的です。
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この上洛のとき、政子は藤原兼子に面会を果たました。
女性政治家二人の会談が、しかも歴史を大きく動かします。
男子を授からぬまま、実朝に万一のことがあれば、後鳥羽院の子・頼仁親王を鎌倉に下向させ、将軍としてはどうか?
兼子がそう提案したのです。
彼女は頼仁親王を養育してきました。親王は、実朝の妻である坊門信子の甥にもあたります。
しかし、政子は躊躇したことでしょう。
実朝はまだ三十前であり、常識的に考えれば子を諦める年齢ではありません。
それでも実朝自身には、何らかの理由で「自分に子はできない」と考えていた節もあります。
源氏将軍は自分の代で終わる――そんな予感を口にしていたとされるのです。
そして兼子と政子の会談は、思わぬ方向へ飛び火します。
源頼家の子であり、実朝には甥に当たる公暁(こうぎょう)。
己という甥がいながら源氏将軍を自らの代で終わりにするとは何事か――とばかりに実朝へ憎悪の念を抱き、恐ろしい事件を引き起こすのです。
ご存知のとおり暗殺です。
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