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【阿波局】
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曽我事件
象徴とも言える不気味な事件が建久4年(1193年)に起きています。
【曽我兄弟の仇討ち】です。
頼朝たちが富士の裾野で大規模な巻狩りを開催したとき、兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が、父の仇である工藤祐経を討ち果たした――というもので『曽我物語』で脚色されたにしても、何かが引っかかる話でした。
兄弟たった二人で厳重な警備を突破し、そんな大胆なことができるのか?
単なる仇討ちじゃないのでは?
その証拠に、仇討ちを果たした兄弟が処刑された後も、騒動は一件落着とはなりませんでした。
建久4年(1193年)8月には、事件の余波を受けたようなカタチで、頼朝の弟・源範頼が謀反の疑いをかけられ、自害させられました。
同じ頃、大庭景義(景能とも)や岡崎義実も、出家の上で鎌倉を追放されています。
源頼朝とその子が鎌倉殿となる根拠とは、河内源氏の棟梁としての血統にあります。
問題行動が多かった弟・義経とは異なり、範頼はそつなく生きてきました。
謀反の疑いにしても、言いがかりのようなもの。それでも範頼に河内源氏の血が流れている時点で潜在的な脅威です。
大庭景義と岡崎義実――彼らは戦でのしあがった古株の御家人であり、政治的な意味では役に立ちません。
飛鳥尽きて良弓蔵る。狡兎死して走狗烹らる。
飛ぶ鳥が尽きて弓は片付けられる。素早い兎がいなくなれば、猟犬は煮られてしまう。
平和な世の中に戦うばかりの男は無用という時代がやってきたのです。
政治的には、河内源氏の血を引く阿野全成も邪魔者のはずですが、阿波局の夫である彼は、粛清の対象となりませんでした。
全成は範頼と異なり合戦での戦果が乏しい。
政治的手腕もそこまで目立たない。
彼に関する情報は“阿波局の夫”としてのものが多く、北条氏の後ろ盾もあります。
頼朝を中心とした血生臭い駆け引きから、阿野全成と阿波局の夫妻は、とりあえず逃れることはできました。
しかし、それも頼朝が急死するまでのこと。
その時は確実に迫っていました。
バランス取れた13人の合議制
正治元年(1199年)正月――源頼朝が急死しました。
二代目の鎌倉殿として、将軍職に就いたのはまだ若い源頼家です。
頼家は、鎌倉殿にしては若すぎ、かつ戦場での経験もなく、周囲からは侮られます。
しかし、だからこそ頼家は若さの勢いに任せて不祥事を起こしてしまう。
そんな悪循環に陥りがちな頼家を支えるために、鎌倉では十三人の合議制が敷かれました。
十三人をいかにして自分の陣営色に塗り分けるか?
そこがパワーゲームの第二ラウンドとも言えました。ざっと勢力を分類してみましょう。
◆北条氏
北条時政
北条義時
◆比企氏
比企能員
安達盛長(妻は比企尼の長女・丹後内侍)
◆三浦氏
三浦義澄
和田義盛
◆その他武士
梶原景時
八田知家
足立遠元
◆文士
大江広元
三善康信
中原親能
二階堂行政
血縁的にも源氏との関わり色濃い武家、坂東武士(御家人)、文官系の者たちなど、なかなかバランスの取れた人事ではないでしょうか。
頼家は、この中でも梶原景時を信頼し、重用するようになりました。
景時は宿老でありながら、頼家の乳母夫(めのとお)という、二重の属性があったのです。
梶原一族の滅亡は阿波局の言葉から?
源頼家のもと十三人の合議制で始まった鎌倉政権。
キーマンの梶原景時がつまずけば新たな権力ゲームが動き始める――。
そんな状況で、北条の血を引く阿波局が歴史の表舞台に出てきます。
ある日、頼朝時代を懐かしむ結城朝光が、こんなことを口にしました。
「忠臣は二君に仕えずという。私も頼朝様が亡くなったからには、出家しようと思ったのだが、ご遺言によりそうもできなかった。今となっては残念でならん」
そんな朝光に対し、阿波局はこう言います。
「あなたの発言は不忠であるとして、梶原景時が頼家様に讒言したとか……このままでは危険ですよ」
この発言は、ガソリンにマッチを投げ込むようなものでした。
まずい、このままでは我が身が危うい……そう焦った朝光は三浦義村に相談。
今こそ景時を追い落とす好機!?
義村はそうみなしたのか、すかさず同族の和田義盛と共に御家人66人分の弾劾署名を集めました。
義村と義盛には、わだかまりがありました。
彼らにとって祖父にあたる三浦義明は、頼朝挙兵の際、平家方によって討ち果たされていました。
梶原景時はこのとき平家方にいたのです。
それを言うなら、三浦義明を最後まで追い込んだのは畠山重忠ですが、重忠は他ならぬ義明の孫であり、義村や義盛とは従兄弟の関係でした。
いずれにせよ66人分の弾劾署名を集めた二人は、頼家に奏上させるため大江広元に渡します。
広元は「文官なので」と断っても、義盛は止まらない。
結果、署名は提出されてしまいます。
これに対し、景時は一切の弁明をせず、一族と共に本拠の相模国一宮に戻りました。
ほとぼりが冷めるまで離れようと考えたのか。
あるいは何を言ってもダメだと諦めたのか。
梶原景時の本意は不明ですが、少なくとも自暴自棄にはなっていなかったでしょう。
正治2年(1200年)正月、彼ら一族は京都を目指して上洛を始めたのです。
と、思いもよらぬ事態が起きたのはその直後のことでした。一行は、隣国・駿河国の狐ヶ崎で在地の武士団と戦闘となり、命を落としてしまったのです。
景時のこの顛末を、慈円は『愚管抄』に「頼家最大の失敗」と記しました。
忠実で有能な側近である景時を失ってしまった頼家は、以降、自暴自棄になり、幕府内で孤立を深めていったのです。
頼家を盛り上げて権力を保ちたい比企一族からすれば手痛い失点。
ライバルの北条をおとしめるべく、彼らは事件の発端を探ります。
と、そこにいたのが阿波局でした。
あの北条の娘が余計なことを言ったばかりに……と比企一族が焦ったとしてもおかしくありません。
とにかく頼家は、取り巻きに恵まれない人物でもありました。
主な御家人は比企能員に小笠原長経ぐらい。近習は以下の通り、あまりに頼りない面々です。
政治は混迷を極め、頼家は現実逃避をするようにますます鷹狩りや蹴鞠に溺れてゆきます。
そんな中で北条氏に打撃を与える陰謀が進んでゆきます。
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