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比企能員の変
建仁3年(1203年)5月19日、子の刻(深夜0時頃)――謀反の疑いがあるとして、突如、阿野全成が捕縛され、御所に押し込まれました。
全成はそのまま25日に常陸国に配流され、翌6月23日、源頼家の命を受けた八田知家により誅殺されました。享年51。
さらに7月16日、京都にいた三男・播磨坊頼全が源仲章によって殺されてしまいます。
あっという間の出来事に何事なんだ?
と戸惑ってしまいますが、それは阿波局(実衣)も同じ思いだったでしょう。
彼女の身柄も要求され、必死に守り抜いたのが姉の北条政子でした。
夫と我が子を殺され、阿波局はどれほど苦しめられたことか。
それでも千幡と北条の結びつきは変わらず、事件以降は阿波局の父・北条時政が乳母夫となり、その正室である牧の方が傅母(貴人の子の養育係)となります。
結果、北条と比企の対立はますます激化。
そういった心労が祟ったのか、建仁3年8月末に頼家が病に倒れると、比企能員と北条時政は家督相続の分配を語り合いました。
一見、比企側が勝ったようで、北条側が食い込むカタチです。
だからでしょうか。先に動いだのは比企能員でした。
病床の頼家に、北条時政追討の許可を得るのですが、それを聞いた政子がすぐさま父へ伝え、時政は大江広元のもとへと赴きます。
「懸命な配慮をしていただきたい……」
広元が“はい”とも”いいえ“ともつかぬ言葉で濁す中、時政は比企能員暗殺の決意を固めます。
能員を呼び出して殺害――返す刀で比企一族郎党が立て籠った一幡の館・小御所へ襲いかかったのです。
この【比企能員の変】で、比企一族は一幡と共に滅びました。
千幡が三代目の鎌倉殿に
乱のあと、阿波局は再び歴史の舞台に顔をのぞかせます。
政子にこう告げたのです。
「時政の邸宅に千幡様を置いておくのは危険です。牧の方の、千幡様を見る目がおかしいの……」
それを聞いた政子は慌てて千幡を引き取り、手元に置くこととしました。
比企一族と争っていたときは、共に千幡を保護する立場でしたが、結局、彼等はそのとき利害が一致しただけで、他では協力体制にはない。
親子だろうと権力闘争をいとわない、パワーゲームの恐ろしさが浮かび上がってきます。
そしてそのパワーゲームの駒のような彼女の姿は、歴史の中から消えたかのように思えるのです。
頼家は後ろ盾を失い、政子のはからいで出家。
しかし元久元年(1204年)、暗殺されてしまうのでした。
千幡から源実朝となったが三代目の鎌倉殿となります。
実朝は結婚してから十年以上を経ても子ができず、側室すらおりませんでした。
自分の代で源氏の血を引く鎌倉殿は終わりと考えていたのか。
後鳥羽院の親王を次代にしようとしており、後鳥羽院もこれを好意的に考えていた。
しかし、このことを快く思わないものは当然出てきます。
頼家の遺児・公暁がそうでした。
実朝に実子がいなければ、甥である己が鎌倉殿となっても不思議はありません。
待てば転がり込んでもよい地位なのに……建保7年(1219年)1月、公暁は実朝を暗殺という暴挙に出るのです。
その後、公暁はじめ、河内源氏の血を引く男子たちは次から次へと命を奪われてゆきました。
全成と阿波局の子である時元もまた命を落とします。
しかし、夫妻の子は死に絶えたわけではなく、血脈を保っていたと伝わります。
嘉禄3年(1227年)11月4日、阿波局は亡くなりました。
兄・義時の死から三年後、姉の死からは二年後のことでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
永井晋『鎌倉源氏三代記』(→amazon)
坂井孝一『源頼朝と鎌倉』(→amazon)
他