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【比叡山延暦寺】
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円仁と円珍の仲間割れ そして武装化は進む
こんな感じで名僧を育て上げた延暦寺は、次第によからぬ傾向も現れ始めました。
最澄の弟子だった円仁派と円珍派が仲間割れしてしまった上に、実力行使のために武装化を図っていくのです。彼らはやがて僧兵となり、延暦寺の性格を大きく変えてしまいました。
もちろん真面目に修行や学問に励んでいた僧侶もいたのですが……。
最澄が亡くなって200年ほど後には、当時、実質的な権力を握っていた白河法皇からも疎んじがられます。
「賀茂川の水と、双六の賽、そして山法師(延暦寺)だけは私にもどうにもできない」(意訳)
と言われたという有名な話がありますね。
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なんせこの頃の延暦寺の僧侶はひどかった。気に入らないことがあると文字通り神輿(みこし)を担いで突撃してきて、自分たちの要求を押し通すのです。
武力をほとんど持たない朝廷としては機嫌を取るより他にナシ。
水戸黄門の印籠みたいなもので「神仏の意向が目に入らぬか!!」というわけでした。この時点で仏罰不可避の予感が……。
数多の名僧を輩出すると同時に、武装化が進んでいたというのは、なんとも摩訶不思議ですね。
足利将軍だけでなく有力武家の細川も凸!
こうして延暦寺は八坂神社や北野天満宮などの著名な神社、さらには鴨川の西岸までをシマを拡大。朝廷に対する不入権(使者の立ち入りを拒否する権利)まで得て、まるで外国の大使館のような状態になっていきました。
平家政権時代にも、延暦寺が絡んでいたと思しき事件はちらほらあります。
しかし、武家でさえ(一応)はばかる「朝廷すら屁の河童♪」という態度の延暦寺ですから、彼等と真っ向から戦おうとする人は長らく現れません。
そんな中で、延暦寺と戦った人が意外にも室町幕府から現れました。
六代将軍の足利義教です。
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義教は「くじ引き将軍」という不名誉な二つ名で有名ですが、失われつつあった幕府の威光を取り戻すため、いろいろなことをやっていました。
その一環として、延暦寺を何とかしようとしたのです。
元は延暦寺のトップだった義教だけに勝算はあったのか?
実は、義教自身が将軍になる以前は、延暦寺のトップ(天台座主)だったので、
「元上司の言うことなら、さすがに素直に従うだろう」
と考えたのかもしれません。
が、そう簡単にはいきませんでした。
武力対決になった上に山ごと焼くわ、主要人物の首をはねるわ、その抗議のために延暦寺で焼身自殺をする僧侶が二十四人も出るわ……。
そんなこんなで、さらに延暦寺の武装化が進んでしまい、勢力を削ぐことはできなかったのですね。
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結局、政元も抜本的解決を図ることはできず、延暦寺もさらなる防備という名の武装化を進めたことでしょう。
そしてその次に対決したのが、皆さんご存知の織田信長です。
一体どんな顛末だったのでしょうか。
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