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【日蓮】
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斬首寸前で佐渡への島流し
北条時宗からすれば
「元に備えないといけないときに、ウチの地元で騒ぎを起こすんじゃねーよ!(#^ω^)ビキビキ」
という気持ちになってもおかしくはありません。
とはいえ、まさかムカついただけでひっ捕らえたわけでは……ない……ハズ。
そんなこんなで日蓮はとっ捕まり、相模竜口で斬首される直前までいきました。
ギリギリのところで佐渡への流罪に減刑され、まさに命拾いをしています。
ただし、弟子の中にも流刑や拘禁などに処された者が多く、また、この時点で日蓮宗から離れた者も少なくなかったそうですから、宗教団体としては壊滅同様でした。
しかし、障害があればあるほど燃えるのが恋と宗教です。
日蓮は流刑先でも信仰を失わず、著述をしながら赦免を待ちました。
そして文永十一年(1274年)、幕府に許されて鎌倉へ戻り、北条時宗の御内人・平頼綱と会見します。
その席で元寇に対する意見を求められ、「今年は元が攻めてくるでしょう」と予言し、「だから今からでも法華経を重んじるべきです」と改めて主張しました。
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか
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はたから見ると「それとこれとに何の関係が?(´・ω・`)」と思えてしまいますが、日蓮の言い分では「法華経を信じれば国は守られる!」ので、彼からすると関係があるということになるわけです。
幕府も今度は手荒にならず「お、おう」(超訳)とスルーして日蓮を帰しました。
日蓮も「幕府には私の言っていることが伝わらない」と感じたのか、このときは粘らず、鎌倉を去って甲斐の身延山に移っています。
池上本門寺の子院・本行寺近辺で入寂
このあたりでまた信者が増え始め、同時に日蓮宗に関するトラブルもまた起きるようになりました。
弘安二年(1279年)には、現在の静岡県富士市厚原で、日蓮の弟子たちに対して弾圧が起きています。
当時はこの土地を「熱原」と書いていたので、熱原の法難と呼ばれる出来事です。
既に老齢に入っていたためか、日蓮は身延山から指示をしていたといわれています。
若い頃の日蓮は結構アクティブな気がしますが、歳をとって丸くなったんですかね。
というのも、熱原の法難から三年後の弘安五年(1282年)には体調を崩し、常陸の温泉で湯治をしようと出かけ、途中で亡くなっているのです。
享年61年。
三年前からゆっくり病状が進んでいたと考えれば、弟子のピンチに動けなかったのも自然ですよね。
最期は武蔵池上の信者・池上宗仲の館に滞在していました。
現在の池上本門寺の子院・本行寺の位置にあったといわれており、日蓮が入寂(にゅうじゃく・僧侶が亡くなること)したとされる建物もあります。
日蓮が千葉県出身というのはよく知られていますが、都内で亡くなったというのはあまり知られていない気がしますね。
他宗派批判というと道元の特徴でもありますが、道元と日蓮は世代がズレていて、同じ時期には活動していません。
日蓮のほうが22歳ほど年下で、道元が亡くなった年に日蓮が初めて説法を行っていますから、全く世代が違います。
もしもこの二人が同時期に活動していたら?
どこかで激しい対決があったかもしれません。
見てみたいような、なくてよかったような……^^;
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「日蓮」
日蓮/wikipedia