日蓮

日蓮/wikipediaより引用

寺社・宗教

他宗派を攻めて鎌倉幕府に叱られ元寇を予言!なぜ日蓮はああも攻撃的だったのか?

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斬首寸前で佐渡への島流し

北条時宗からすれば

「元に備えないといけないときに、ウチの地元で騒ぎを起こすんじゃねーよ!(#^ω^)ビキビキ」

という気持ちになってもおかしくはありません。

北条時宗/wikipediaより引用

とはいえ、まさかムカついただけでひっ捕らえたわけでは……ない……ハズ。

そんなこんなで日蓮はとっ捕まり、相模竜口で斬首される直前までいきました。

ギリギリのところで佐渡への流罪に減刑され、まさに命拾いをしています。

ただし、弟子の中にも流刑や拘禁などに処された者が多く、また、この時点で日蓮宗から離れた者も少なくなかったそうですから、宗教団体としては壊滅同様でした。

しかし、障害があればあるほど燃えるのが恋と宗教です。

日蓮は流刑先でも信仰を失わず、著述をしながら赦免を待ちました。

そして文永十一年(1274年)、幕府に許されて鎌倉へ戻り、北条時宗の御内人・平頼綱と会見します。

その席で元寇に対する意見を求められ、「今年は元が攻めてくるでしょう」と予言し、「だから今からでも法華経を重んじるべきです」と改めて主張しました。

元寇
元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった?神風は本当に吹いたのか

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はたから見ると「それとこれとに何の関係が?(´・ω・`)」と思えてしまいますが、日蓮の言い分では「法華経を信じれば国は守られる!」ので、彼からすると関係があるということになるわけです。

幕府も今度は手荒にならず「お、おう」(超訳)とスルーして日蓮を帰しました。

日蓮も「幕府には私の言っていることが伝わらない」と感じたのか、このときは粘らず、鎌倉を去って甲斐の身延山に移っています。

 


池上本門寺の子院・本行寺近辺で入寂

このあたりでまた信者が増え始め、同時に日蓮宗に関するトラブルもまた起きるようになりました。

弘安二年(1279年)には、現在の静岡県富士市厚原で、日蓮の弟子たちに対して弾圧が起きています。

当時はこの土地を「熱原」と書いていたので、熱原の法難と呼ばれる出来事です。

既に老齢に入っていたためか、日蓮は身延山から指示をしていたといわれています。

若い頃の日蓮は結構アクティブな気がしますが、歳をとって丸くなったんですかね。

というのも、熱原の法難から三年後の弘安五年(1282年)には体調を崩し、常陸の温泉で湯治をしようと出かけ、途中で亡くなっているのです。

享年61年。

三年前からゆっくり病状が進んでいたと考えれば、弟子のピンチに動けなかったのも自然ですよね。

最期は武蔵池上の信者・池上宗仲の館に滞在していました。

現在の池上本門寺の子院・本行寺の位置にあったといわれており、日蓮が入寂(にゅうじゃく・僧侶が亡くなること)したとされる建物もあります。

東京都大田区にある池上本門寺・大坊本行寺

日蓮が千葉県出身というのはよく知られていますが、都内で亡くなったというのはあまり知られていない気がしますね。

他宗派批判というと道元の特徴でもありますが、道元と日蓮は世代がズレていて、同じ時期には活動していません。

日蓮のほうが22歳ほど年下で、道元が亡くなった年に日蓮が初めて説法を行っていますから、全く世代が違います。

もしもこの二人が同時期に活動していたら?

どこかで激しい対決があったかもしれません。

見てみたいような、なくてよかったような……^^;


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「日蓮」
日蓮/wikipedia

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