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イラスト・富永商太

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週刊武春 毛利家

毛利元就はナゼ一代で中国地方8カ国を支配できたのか 人生75年の出世ストーリー!

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毛利元就といえば、どんなイメージを抱くであろう?

マムシこと斎藤道三や、相模伊豆の北条早雲など。同世代に輝かしい活躍をした武将は他にもいるが、彼らと比して元就がときに一回りも二回りも大きく感じられるのは、西の毛利王国が戦国~江戸期を通じて影響力を保ち、さらには日本の近現代史にまで食い込んできたことも無関係ではないだろう。

道三や早雲の家が、数代で早々に潰されたのと比べると、やはり「三本の矢」を育てた元就の実力は目を見張るものがある。

そんな毛利元就の生涯にスポットをあて、同時に戦国初期の西国に注目してみたのが本記事。

残念ながら「三本の矢」は後世の創作というのが明らかであり、本稿には国民的な人気武将である織田信長も武田信玄もほとんど登場しないが、中国地方に一大王国を作り上げた元就の足跡は両者に決して見劣りはしない。

では早速、生誕から見ていこう。

毛利の本拠地として知られる吉田郡山城(日本100名城の一つに数えられる)

 

父は安芸国内陸部の国人領主・毛利弘元

後に中国地方の覇者となる毛利元就。
その半生は、大河ドラマで知られる真田家や井伊家のように小さな国衆として周囲の大勢力に翻弄されながら、しかし着実に勢力を伸ばし、「厳島の戦い」を機に一気に大国へとのし上がるというものだ。

ともすれば、この「西の大国」という言葉に惑わされがちな人物像であるが、幼きころの元就は幾度も苦労を重ね、辛酸を舐めさせられ続けていた。

生まれたのは1497年(明応6年)3月14日で、父は安芸(広島県)の内陸部の国人領主・毛利弘元、母は福原広俊の娘(正室)だった。両親の間には、先に生まれた興元という嫡男がおり、次男の元就にはこの時点の相続権は無い。
(*国人領主とは、現在なら知事に相当する大名とはほど遠い、現在ならば町長レベルの支配領域しかもっていない勢力)

元就の幼名は松寿丸と言い、出生地は母の実家である鈴尾城(広島県安芸高田市福原)とされている。

このころ中央では、日野富子らが室町10代将軍・足利義材を廃して11代義澄(義高)を擁立する『明応の政変』(明応2年=1493年)が起きており、1467年の応仁の乱から続く一連の騒乱によって戦国時代は幕開けしていた。

そんなタイミングで生まれた毛利元就は如何なる人物へと成長していったのか……。

元就が毛利を継ぐころの勢力図・安芸や備後には国人の諸勢力がいた(広島県HP参照)

 

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父が急逝すると家臣に城を追い出され、周囲からは蔑まれ

元就誕生のころ、毛利氏は中国地方の大名・大内氏の勢力下にあった。
しかし、前述のように「明和の政変」が起きると、大内氏の保護下にあった前将軍(足利義材)と、室町幕府の現将軍(足利義高)の両方から、それぞれの命に従うように言われ、弘元は板挟みに。

幕府にも大内氏にも逆らうことができず、1500年、自身の引退というカタチでこれを解決し、33歳の若さで家督を嫡男・興元に譲ることとなった。
弘元は本拠であった郡山城(広島県安芸高田市)を去り、幼い元就を連れて多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)へと移り住む。

悲劇はここからだ。
1501年(文亀元年)に元就の実母が死去すると、永正3年(1506年)には父・弘元も、身体を壊して急逝。酒が原因ともいわれている。
このとき後見役であった家臣の井上元盛によって多治比300貫の領地を横領され、まだ9歳という幼き身にして城を追い出されるという憂き目に合い、周囲からは「乞食若殿」と蔑まれた。

困窮する生活、武士としての窮地。それを救ったのは、父の継室つまり義理の母・杉大方(すぎのおおかた)だった。

彼女の出自は、安芸国から石見国にかけての有力武家であった高橋氏と言われている。
元就の父・弘元の側室ではあったが、正室(元就の母)の死後に継室になったと伝わっており、幼少で城を追われた先妻の子供を不憫に思った杉大方は再婚もせず、これを養育したのである。

毛利家文書に彼女に関する記述が2つある。
1つ目は、1557年(弘治三年)の「三子教訓状」の第十二条だ。原文と現代語訳を並べて見てみよう。

【現代訳】私が11歳で土居(猿掛城の麓にある地名)にいた頃、井上元兼のところへ客僧が来て、念仏の大切さを説く講義があった。大方殿もこれにお出になられ、私も同様に11歳にて伝授をうけた。それ以来、今に至るまで毎朝たいてい祈願をしている。やり方は、朝日を拝んで念仏を十編唱えることである。こうすれば、後世のことは勿論、現世の幸せも祈願することになるからである。

【原文】我等十一之年土居ニ候つるニ、井上古河内守(光兼)所へ客僧一人来候て、念仏之大事を受候とて催候。然間、大方殿御出候而御保候、我等も同前二十一歳ニて伝授候而。是も当年之今ニ至候て、毎朝多分呪候。此儀者、朝日をおがミ申候て、念仏十篇つつとなへ候者、後生之儀者不及申、今生之祈祷此事たるへきよし受候つる

「三子教訓状」はもともと、息子達に謙虚な信仰心を持つようにと伝える文章の一部であるが、杉大方が元就の信仰に影響を与えたことが窺えるであろう。

もう1つの記述は、元就62歳のとき、長男・隆元へあてた書状の中にある。

【現代訳】私は5歳で母と死に別れ、10歳で父とも死別した。11歳の時に兄興元が京に上ったので、わたしはよく分からないままに孤児となった。杉大方殿はこの様子をあまりに不憫と思い、捨て置くことができなく、まだ若い身であったのに実家に帰らず留まって私を育てて下さった。そのため、再婚をすることもなく私の父に貞女を通された。兄が留守の3年間、私は大方殿を頼りにして過ごした。

【原文】我等ハ五歳にて母ニはなれ候。十歳にて父にはなれ候。十一歳之時興元京都へ被上候。誠無了簡ミなし子ニ罷成。大かた殿あまり不便ニ(之)然を御らんすてられかたく候て、我等そたてられ候ためハかリニ若御身にて候すれ共、御逗留候て、御そたて候。それ故ニ、終ニ両夫ニまみえられす、貞女を被遂候。然間、大かた殿ニ取つき申候て、京都之留守三ケ年を送候。

こちらもまた、幼くして身よりの無くなった自分を育ててくれた杉大方(すぎのおおかた)への感謝と尊敬の念がにじみ出ている。

その後、所領を横領した井上元盛が急死したため、多治比の地は再び毛利のもとへ。1511年(永正8年)、京にいた兄の興元へ義母の大杉方が使いを出し、許可をもらって松寿丸は元服、多治比(丹比)元就を名乗った。
あくまで分家であり、このときは毛利ではなく、多治比殿と呼ばれた。

毛利元就/wikipediaより引用

 

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ハタチでの初陣 それはイキナリ家運を賭けた戦いとなる

運命が大きく変わるのは、それから約5年後のこと。1516年(永正13年)、兄であり、毛利総領でもある興元が急逝した。またも酒の害が原因だったという。

これにより毛利家では、興元の嫡男・幸松丸(こうまつまる)がわずか2歳で家督を継ぐことになり、叔父であった元就が、幸松丸の外祖父(母方の祖父)・高橋久光と共に後見となる。

しかし、当主が立て続けに早世し、主君が2歳となった毛利家内では動揺が避けられない。
好機とみた佐東銀山城(広島市安佐南区)城主・武田元繁が吉川領の有田城(北広島町)へと侵攻するのであった。

明応の政変後、大内氏に服属していた武田元繁だが、本来は安芸守護という名門(武田信玄の甲斐守護と同等)だった。武田元繁は、厳島神社(広島県廿日市市)の神主家の跡目争いのイザコザに乗じて大内氏から離反し挙兵、安芸国内で勢力を拡大していた。
これに対抗すべく、幸松丸の代理である元就は、西隣の吉川氏の有田城救援に向かう。

若干20歳の初陣。
それはイキナリ、毛利家の命運をかけた戦いとなった。

有田中井手の戦い(西国の桶狭間)

1517年(永正14年)10月22日、有田へ進軍した毛利・吉川連合軍は、猛将として知られる武田軍先鋒・熊谷元直率いる軍を撃破し、これを討ちとった。
有田城包囲中の武田元繁はその報に激怒し、一部の手勢を有田城に残すと、自ら主力部隊を率いて毛利・吉川連合軍の迎撃態勢に入る。

戦いは多勢に無勢で、元就率いる連合軍が押される。
一時、又打川の東まで軍を後退せざるを得なくなったが、元就は兵を叱咤激励してよく粘り、武田元繁が先頭に立って馬で川を渡ろうとした瞬間を狙い一斉に弓をかけた。

矢は元繁の胸を貫き、川へ転落した。
そこへ毛利軍の兵士が駆け寄り首を取ったという。
大将を失った武田軍は総崩れとなって多くの将兵を失い、撤退する結果となった。

この有田中井手の戦いは、後世になって「西国の桶狭間」とも呼ばれ、毛利氏の勢力が拡大する一方、安芸守護の武田氏が滅亡への道を歩んで行く契機となる。なお、実際の「桶狭間合戦」はこれから44年ほど後であることを補足しておく。

 

大内と尼子の「国境線」ということは……

「西国の桶狭間」を制した元就は、主君を大内氏から、日本海側の出雲の大名・尼子氏に鞍替えし、そこでも地道に勢力を拡大していった。
毛利氏の本拠は瀬戸内海と日本海のちょうど間にある山間部であり、大内氏と尼子氏との「国境線」としてキャスティングボードを握れる立場でもあった。

まずは鏡山城(東広島市、西条盆地)攻略戦で大内方の副将を寝返らせ、尼子軍を手引きさせると、一番の戦功を獲得。
しかし肝心の主君の尼子経久がケチというか策略というか、寝返った副将を処刑した上、元就には恩賞も与えず、不信感を募らせることに……。
経久もまた同様に、元就の知略を警戒するようになっていたのだった。

鏡山城の戦い後、甥で毛利当主の幸松丸が突如9歳で亡くなった。
続けざまに急逝する毛利の人間たち。9歳の子が3代続けて酒が原因とは思えないが、それが病気であったのか、あるいは何者かの陰謀めいた手口だったのか、今となっては定かではない。

いずれにせよ重臣たちの推挙で27歳の元就が毛利本家の家督を継ぐことになった。
その際、彼の才覚を恐れた尼子経久が、元就の異母弟・相合元綱の擁立を画策するも、元就はすぐさま元綱と支持派を粛正し、尼子からの介入を退ける。

こうして、元就は尼子から離れ、再び大内氏の配下となるのであった。

吉田郡山城二の丸

 

正妻・妙玖とは仲睦まじく5人の子供が生まれる

元就の結婚の時期は定かでない。
1513年頃と、1517年頃の2説ある。

いずれにせよ初陣から家督相続の間に、以前から関係の深い吉川国経の娘(本名不明/法名・妙玖)を正室に迎え、多くの子に恵まれた。

【妙玖との間に生まれた子供たち】
・生年不明 長女
・1523年(大永3年)嫡男 毛利隆元
・1525年(大永5年)次女 五龍局
・1530年(享禄3年)次男 吉川元春
・1533年(天文2年)三男 小早川隆景

夫婦間は仲むつまじく、1545年(天文14年)秋に妙玖が死去するまで元就は側室を置いていない。
息子たちは「三本の矢」として名高い、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3名だ。

こうして私生活を充実させる一方、尼子への不信から再び大内氏の傘下となっていた元就は、安芸国内での勢力拡大に奔走した。

まずは1529年(享禄2年)、毛利家の家督相続において相合元綱を擁立しようと画策した高橋氏を討伐。
この家はもともと甥・幸松丸の母方実家であったが、実力で奪い取り、安芸から石見にかけての広大な土地を手中に収めた。ただし、このとき人質として高橋氏に送っていた元就の長女が処刑されたとも伝わる。

1535年(天文4年)には備後の多賀山氏の蔀山城(しとみやまじょう、広島県庄原市)を攻め、これを降伏させるなど、戦による勢力拡大の一方、婚姻関係でも周囲との結びつきを強めていったのが、知謀で知られる元就のヤリ方なのであろう。

あらためて御確認を・高橋家と武田家は毛利が滅ぼしている

例えば、以前から抗争を繰り返していた同じ地区(安芸高田市)の宍戸氏に対しては、宍戸隆家に次女(五龍局)を嫁がせて強固な友好関係を構築(後に、吉川元春の嫡男・吉川元長正室や、毛利輝元正室も宍戸家から嫁いでいる)
そのほか天野氏や熊谷氏といった、毛利や吉川、宍戸らと同様の国人領主とも良好な関係を作り、安芸国人領主たちの盟主としての地位を確立していった。

少し遡るが1533年(天文2年)には、主君筋の大内義隆の推挙で官位(従五位下)を授かって同家との関係も深めており、1537年(天文6年)には、長男の隆元を人質として大内氏へ差し出している。

むろん策ばかりに溺れるワケではない。

勢力が拡大したとはいえ周囲の大名に比べて貧弱な毛利勢。これを討つべく1540年(天文9年)にやってきたのが尼子詮久(あきひさ・後の晴久)率いる3万の尼子軍であった。
中国地方の歴史に知られる「吉田郡山城の戦い」であり、このときわずか3000の兵と共に郡山城に籠城した元就は、ともすれば陥落の危険性に陥っていた。
が、宍戸氏らの協力や、遅れて到着した大内義隆の援軍もあって、この戦いに勝利し、その勢いで佐東銀山城を落城させ安芸守護の武田氏を滅亡へと追い込み、安芸国の中心的存在に一気に浮上する。

 

水陸両用の「毛利両川体制」を確立

着々と勢力を拡大しながら基盤を固めていく毛利。
その側には、いつも吉川・小早川の通称「両川」がいることは、戦国時代ではよく知られた話だ。

むろん両家は最初から毛利の傘下にあったワケではなく、次男の元春、三男の隆景が婿養子入りすることによって支配力を及ぼしていったのであり、これも元就の知謀として知られている。
ざっと流れを追ってみよう。

1542年から1543年(天文12~13年)にかけ、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いが始まった。
撃退した尼子に対して今度は大内側が攻勢に出て、尼子氏の出雲の富田城(とだじょう、島根県安来市)へと攻め込んだのだ。
このとき元就は、なんと同盟国であるはずの吉川氏の吉川興経らの裏切りなどに遭って大敗、絶体絶命の危機に部下が身代わりとなり、命からがら安芸国へ帰国する。

そして翌1544年(天文13年)、跡取りが不在となった竹原小早川家から養子の要望を受けて、三男の徳寿丸(後の小早川隆景)を差し出した。

程なくして元就自身は隠居を表明して、隆元に家督を譲っているが、これはあくまで表面上のこと。実権はほぼ元就が握っていた。

1547年(天文16年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ次男の元春を養子に出した。

なぜ養子に差し出したのか。
いったい吉川家に何が起きていたのだろう?

実はこのとき吉川家当主の興経は、先の第1次月山富田城の戦いで元就を裏切り、更には新参の家臣を重用したことから一族内で諍いを生じさせていた。
そこで反興経派が吉川家の血を引く「元春を養子にしたい」と申し出たのである。

最初から元就が画策していたのか、それとも偶然か。
いずれにせよ、このチャンスを見逃す手はなく、当主の吉川興経が家臣団によって強制的に隠居させられると、その息子と共に暗殺によって命を奪い、吉川元春の当主基盤を固めた。

かくして吉川家は、完全に毛利のものとなり、次なるターゲットは、小早川家である。
小早川家は、安芸東部(広島県竹原市や三原市など)の名門だったが、早くから竹原小早川と沼田小早川にわかれていた。すでに、竹原小早川氏には息子を送り込んでいた。

さらに、沼田小早川氏は、当主が第一次月山富田城の戦いで戦死し、ときの当主・小早川繁平は幼少かつ盲目(追い落とすための理由づけともされる)であったため、「尼子氏の侵攻には対抗できない」と主君筋の大内義隆が判断。
「おまえは尼子と内通しているであろう」と繁平に対して内通嫌疑をかけて高山城から追放すると、竹原小早川当主であった三男・隆景を繁平の妹と結婚させ、両小早川家を合体させ、当主に据えたのである。

これにより手に入れた元就の果実は、領土だけではない。
小早川の安芸東部は、村上水軍で有名な大三島などの瀬戸内海の島々が浮かぶ海もあり、山の中の毛利家にはない水軍を保持していた。
これにより水陸両用の「毛利両川体制」を確立させたのであった。

吉川元春館を正面石垣から

 

中国地方に激震! 大内義隆が陶晴賢に討たれる

1551年(天文20年)中国地方に激震が走る。
当時の覇者であった大内義隆が家臣の陶隆房(後に出家して陶晴賢・すえはるかた)によって殺害されたのだ。

主君筋であった義隆の死で、意気消沈……する元就ではない。むしろ当初はこのクーデターに賛同していたともいわれている。
義隆殺害の影響で大内氏に「大寧寺の変」という内乱が起きると、元就はこの動きに同調しつつ、守護武田氏がいた佐東郡(広島市)などを奪取。
大内氏支持であった平賀氏の当主をすげ替え、傘下に収める。山の毛利が広島湾に面したところまで領有したことで、小早川を含めて水軍の力が一気に強化された。

急拡大する元就の勢力に危機感を抱いたのがクーデターによって大内氏の実権を奪った陶晴賢である。
ドサクサ紛れに毛利が得た大内の支配権の返上を求めるが、むろん受け入れる元就ではない。

両者の対立が静かに激しくなっていく最中、大内氏配下の石見(島根県西部)の吉見氏が、陶晴賢に叛旗を翻した。

これに対し、家中の反対で動けずにいた陶晴賢は、すぐさま安芸の国人衆たちに「吉見氏を鎮圧せよ」との使者を出したが、この頭越しの出陣命令が元就との決裂の決定打となる。
「元就が国人衆のまとめ役である」という約束に反しており、毛利と陶の同盟に終止符が打たれた。
ときに謀略も辞さない元就は、同時に人心掌握にも優れており、難しい国衆たちの心をシッカリと掴んでいたのである。

しかし実情が相当に苦しいのは、兵力を見れば歴然である。

当時の大勢力であった陶晴賢率いる大内勢は、動員兵数3万。
一方の毛利家は最大でも5千余。

正面から当たって就き崩せる相手ではなく、元就は謀略を用いて大内家の内部分裂を計った。

その一例が陶家臣の江良房栄(えら ふさひで)だ。
元就は、陶晴賢の家臣であった江良房栄に、まず内応を約束させた。
が、実際は、両者の条件が折り合わずに調略は不成立となる。そこで、転んでもただでは起きない元就は、毛利との関係をリークして、陶晴賢自身の手により江良房栄を粛正させたのだ。

そして1554年に元就は、石見の謀反鎮圧に手間取っている陶晴賢に対して堂々と反旗を翻す。
晴賢は重臣の宮川房長に3,000人の兵を預け毛利氏攻撃を命令するも、元就軍は先制攻撃でこれを打ち破り、宮川房長は敗死した(折敷畑の戦い)。

 

夕刻から天候が崩れて暴風雨「これぞ天のご加護である!」

毛利元就、最大の合戦は何か?

鮮やか過ぎる戦術で「西国の桶狭間」をしのぐほど著名なのが「厳島の戦い」であろう。
このとき元就は60歳近く。老い先短い(と世間から思われる)中で、一体いかなる戦いを演じたのか。

1555年(弘治元年)、折敷畑の戦いの敗北に激怒した陶晴賢は、自ら大軍を率いて毛利氏の交通かつ経済の要衝である厳島(いつくしま、広島県廿日市市)の「宮尾城」攻略に乗り出した。
厳島(安芸の宮島)は、ご存知、瀬戸内海に浮かぶ島で、日本三景の1つとして知られる景勝地である。

島は周囲約30キロメートルで楕円形。
対岸からは現在のフェリーで約10分、距離は最も近いところで300メートルしかない。
海上に浮かぶ大鳥居で知られる同神社は、平安末期に平清盛の庇護を受け、その後も大きく発展していた。

厳島はまた、周防(山口県)から安芸(広島県)への水運の要衝ともみなされており、1554年5月に厳島を占領した元就は、宮尾城を補修し番兵を置いたとされる。

宮尾城は、島内の要害山と呼ばれる標高30mの丘を中心に築かれた城だった。現在のフェリーの港のすぐそばだ。
当時の岸は、城北部の山麓まで迫っており、三方が海に面した、水軍の運用も可能な重要拠点である。

厳島の合戦に先立ち、陶方の水軍が宮尾城を攻めるも攻略出来ず、そこで陶晴賢の家臣・三浦房清が進言したのが厳島への上陸。
これを受けた晴賢は9月22日、陶軍約2万をもって厳島へと進み、宮尾城が見通せる塔の岡(厳島神社のすぐとなり)に本陣を置いた。

知らせを受けた元就は、水軍の基地である対岸の草津城(広島市西区)に入り、26日には熊谷信直の水軍を宮尾城へ援軍として派遣させる。
宮尾城では27日にも水源が絶たれ、堀も埋められ、攻撃されるのを待つばかりであった。が、毛利にとっては幸いなことに、陶軍は「日柄が悪い」として総攻撃を延期していた。

30日、およそ4000の毛利軍は厳島への渡海を準備しており、夕刻から天候が崩れて暴風雨となった。
「これぞ天のご加護である!」
かくの如く将兵を鼓舞した元就は、夕闇と嵐に紛れて島の東岸・包ヶ浦に上陸、村上水軍を沖合に留まらせて開戦を待った。

厳島神社の古写真

 

厳島の戦いで大逆転を果たし大内氏も滅亡→計8カ国に膨らむ

翌10月1日の午前6時、毛利軍は奇襲攻撃を開始した。

主力が、陶軍の背後から襲いかかり、これに呼応して別働隊(小早川隊)と宮尾城の兵が陶本陣を前面から攻め、沖合に待機していた村上水軍が陶水軍を焼き払う。
圧倒的大軍と、前夜の暴風雨でスッカリ油断していた陶軍は、狭い島内で進退もままならず総崩れとなり、追い詰められた晴賢は自刃して果てるしかなかった。

とまぁ、あまりに鮮やかな毛利元就の代表的合戦だが、実はこのとき元就自身が相当に追い込まれ、様々な策を巡らせて必死だったのは意外かもしれない。

この戦いの詳細は当サイトの「厳島の戦い」に譲るが、いずれにせよこの一戦を機に毛利の家名と家勢は一気に上昇していく。

翌1556年、陶晴賢を失い弱体化した大内氏が撤退した後の石見銀山(島根県)を巡る攻防では出雲の尼子氏に敗れるが、翌年には大内氏の内紛に乗じて当主の大内義長(九州・大分県の大名・大友家からの養子で大友宗麟の弟)を討ち、複数の国を支配した大大名の大内氏を滅亡させた。
周防・長門(いずれも山口県)を手に入れた元就は、尼子氏と肩を並べる西国の大大名に躍進した。

更に1560年(永禄3年)に名武将・尼子晴久が急死すると、1562年に出雲侵攻を開始して月山富田城を包囲(第2次月山富田城の戦い)、1566年11月には晴久の子・尼子義久を降伏させる。

これにより戦国大名としての尼子氏(石見・出雲・隠岐・伯耆を領有)は滅亡し、さらに瀬戸内海をわたり伊予(愛媛県)の河野氏を下した、元就は一代にして、中国地方を中心に8ヶ国(安芸、備後、周防、長門、石見、出雲、伯耆、隠岐)+四国(伊予)を支配する大名になった。
*伊予や伯耆は全体ではなく一部の平定だった可能性がある。伊予については注目されていないが、のちに毛利氏が伊予の領有を主張して四国の長宗我部氏と対立し、本能寺の変後に秀吉による長宗我部征伐が計画される伏線となる

ただし、尼子氏との戦いの間に嫡男の隆元が亡くなっている。
3人の息子を枕元に呼んで「一本の矢ならスグ折れるが、三本なら折れない」とする遺言を伝えたという逸話が、あくまで創作であることがご理解できるであろう。
※後述するが、吉川・小早川の両川と協力して国を維持せよ――という生前の指示という意味ではキッチリ引き継がれた。

かくして元就の王国は出来上がる

 

織田信長との対戦がジリジリと迫る最中に大往生

尼子氏を滅ぼした後も、織田信長の支援を受ける山中鹿之介率いる尼子残党は毛利に抵抗を続け、更には九州・豊後(大分県)の大友宗麟とは北九州の支配権をめぐり、激しく争うこととなった。

宗麟は大内氏の残党を支援。
長門(山口県)へ攻め込ませるなどしたが、博多湾の支配権を大友氏へ渡すことで和睦し、毛利は尼子残党軍を一掃する。

そして1571年(元亀2年)6月14日、自ら築いた王国を見守るようにして、ふるさとの吉田郡山城(広島県安芸高田市)で死去。
死因は老衰とも食道癌とも言われ、享年75。

ちなみに織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちした年であり、畿内の諸勢力や、武田信玄からの脅威にさらされるときでもあり、この時点での信長の中国地方への侵攻は現実味は薄かったかもしれない(毛利水軍と織田水軍の直接ぶつかった第一次木津川口の戦いが1576年)。

元就は、この時代として破格の長寿ともいえる年齢で死去している。
父も兄も酒毒のため短命だったばかりか、実は祖父も酒のため33歳の若さで死亡しており、アルコールに弱い家系であったと推測される。
ゆえに元就自身は酒を断ち、身内にも節酒の心得を説いている。それが健康に大きく影響したのであろう。

家督を継いだのは、後に関ヶ原などでの戦略が拙いと酷評される、孫の毛利輝元(急死した毛利隆元の嫡男)だった。

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三本の矢は創作なれど、教えは守られていた

ここからは蛇足であるが、元就の人物像に注目し、まずは「三本の矢」について見てみたい。

晩年の元就が死の間際に、長男・毛利隆元、次男・吉川元春、三男・小早川隆景を呼び、
「1本の矢は折れやすいが、3本の矢は折れない。3人が結束し毛利家をよく守るように」
と教え諭した逸話である。

前述の通り、長男・隆元は元就が亡くなる8年前に死去しており、創作であることは説明させていただいた。

しかしコレ、全くの創作でもなく、1557年(弘治3年)に書かれた『三子教訓状』に基づいている。
三子教訓状は14条から成り、まだ全員が生きていた3人の息子たちを中心に、一族が一致団結して毛利家を盛り立てて行くように――という内容だ。実際、この中で次女の五龍局と、元春・妻の不仲をたしなめている。

「三矢」や「三子」という言葉から、元就の子は3人と誤解されがちであるが、そもそも正室・妙玖との間には早世した長女と五龍局の女性2人と、隆元、元春、隆景の3兄弟がいる。
正室の死後には、四男の元清(母は乃美氏)、五男の元秋(母は三吉氏)、六男の元倶(母は三吉氏)、七男元政(母は乃美氏)、八男元康(母は三吉氏)、九男秀包(母は乃美氏)の男子が6人(一説に7人)、女子が1人いたとされる。
中でも元就71歳の時に生まれ、兄・隆景の養子となった毛利秀包(ひでかね・後に小早川元総)は武勇に名高い。九州征伐や肥後国一揆、文禄・慶長の役で戦功を挙げ、豊臣政権下で筑後久留米13万石の大名となっている。

 

そもそも毛利氏の家系は鎌倉幕府の重臣?

毛利氏の祖は、鎌倉幕府の重臣であった大江広元の四男・毛利季光(もうり すえみつ)とする。

季光は父の所領のうち相模国毛利庄(厚木市)を相続し、領した地名から毛利季光と名乗り、毛利氏の祖となった。承久の乱での功績によって、安芸国吉田荘の地頭職を与えられている。

しかし、1247年(宝治元年)、北条氏執権派と対立した妻の実家・三浦氏方に付いて敗北し、毛利季光は息子4人と共に自刃。合戦に参加しなかった四男・経光の家系だけが唯一残ったとされ、安堵された所領のうち安芸国吉田荘を経光の息子が継ぎ、この家系から元就が輩出されている。ただ、実際に安芸国に移り住んだのは14世紀になってからともされている。

毛利家の家紋「一文字に三つ星」は大江家の氏族が用いているもので、大江氏の祖・阿保親王が正一品であったことから「一品」を図案化したものといわれる。

また、数字の始まりである「一」とオリオン座の中央に輝く三ツ星、これは三武、将軍星と呼ばれ武勇の象徴であり、こちら2つの組み合わせという側面もある。

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文・編集部
【参考】国史大辞典 東京大学史料編纂所 毛利元就/wikipedia 備陽史探訪の会 毛利家文書 岸田裕之『毛利元就』(ミネルヴァ書房、2016) 戦国武将の履歴書/宝島社

 





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