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週刊武春 西郷どん特集

西郷隆盛49年の生涯をスッキリ解説【年表付き】 なぜ幕末維新の英雄は西南戦争へと追い込まれた?

更新日:

評価の難しい西郷隆盛

西郷隆盛は「評価の難しい人だ」とよく言われます。

それはそうでしょう。
彼の生涯は、歴史の授業で習うような「薩長同盟」や「倒幕・維新」だけでは、とても収まりきりません。

若かりし頃は二度も島送りにされたり、入水自殺を試みたり、上級権力者の島津久光と仲違いをしたり……。

その一方で多くの藩士に慕われ、類まれなる政治力で明治維新を遂行しながら、ついには西南戦争で自決するのですから、まさに波乱万丈というほかありません。

ざっと事績を追ってみても、三英傑(織田信長豊臣秀吉徳川家康)クラスの人物と評されるのも頷けます。

しかも、です。
巷にあるフィクション作品だけでなく、多くの歴史家たちの研究に目を通すと、必ずしも彼が聖人君子ではないことも見えてくるから困ったものです。

稀代のカリスマでありながら、江戸幕府を倒すまでには独断専行な一面があったり、冷酷苛烈な判断もあったり。

『いったい彼は大人物なのか、それとも何なのか』

本稿ではそんな西郷の生涯を、できるだけフィクション作品の要素を削ぎ落とし、史実を忠実に追ってみました。
皆様からのご批判、ご指摘も真摯にお伺いしたい所存。

栄光と破滅に彩られた西郷隆盛の一生とは、いったいどんなものだったのか?

幕末維新と西郷隆盛の年表マトメはコチラ

※維新三傑とは、西郷隆盛(薩摩)、大久保利通(薩摩)、木戸孝允(長州)の3名を表します

 

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父・西郷吉兵衛 母・マサ 1827年に生まれる

文政10年(1827年)12月7日、鹿児島城下。西郷吉兵衛の長男として、後の西郷隆盛は生まれました。

幼名は小吉。母は椎原権衛門の娘・マサです。
政治活動のため借金の多かった西郷家でしたが、食うに困るほど困窮していたわけではないようで、西郷家は藩内で御小姓組に属していました。

弟の西郷従道も有能な人物としてよく知られておりますね。

西郷隆盛誕生地

薩摩藩は他藩と比較して、際だって武士の割合が多く、26パーセントを占めていました。薩摩では、戦国の雄・島津家以来の武勇を誇り、郷中教育という独自の方針で藩士子弟を鍛えあげていたのです。

幼い西郷は、大久保利通らと同じ郷中で学び、また大山巌ら後進も鍛えました。

切磋琢磨しあう厳しい教育の中、幼い薩摩藩士は育ちます。
そんな環境のもと、10歳頃の西郷は喧嘩で腕を負傷。大柄な体を活かした相撲は強かったものの、ケガを機に武芸で頭角を現す道を断念するのでした。

彼の人生に変化が訪れたのは18歳のとき。西郷は郡方書役助という役職に就きます。

この頃、薩摩では後に日本全体を揺るがす問題が起っておりました。
イギリス、フランスの軍艦が琉球に来航し、通商を迫り始めたのです。黒船来航よりも早く、薩摩の人々は「このままでは日本が植民地と化してしまう」と危機感をおぼえていたのです。

薩摩藩は日本の中でも、海にも面して拓けた国でした。
沖縄からの影響もあり、他の地域ではタブーとされていた獣肉も好んで食していて、西郷は豚骨が好物。肉食文化のおかげか、西郷始め薩摩の人々は立派な体躯をしている人が多かったようです。

更にこのころは、海外からの脅威以外にも、薩摩藩をゆるがす騒動が起こっていました。
「お由羅騒動」(高崎崩れ)です。

幼き頃からの盟友だった大久保利通/国立国会図書館蔵

 

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お由羅騒動で島津久光に対して生まれた敵意

お由羅騒動の顛末を簡単に記しておきましょう。

このころ藩主・島津斉興には、海外情勢に通じた世子・島津斉彬と、側室お由羅の子・島津久光がいました。

問題が起こったのは久光サイドから。
お由羅が我が子・久光を次の藩主とすべく、斉彬を呪詛したという噂が広がります。
しかもタイミング悪く斉彬の子である虎寿丸が亡くなったため、やはり呪詛は事実であった、と斉彬派は激怒します。

斉彬派はお由羅を亡き者にしようとしました。
が、事前に計画は露見。およそ50名が処断されてしまいます。

嫡子をどちらにするか?という問題は、「悪い側室が暗躍した」という単純なものではありません。
フィクションの影響で悪女のイメージが強いお由羅ですが、実際にそうであったかは疑問が残ります。
呪詛というのも攘夷祈願の祈祷を誤解したためです。

斉彬と久光の兄弟仲も悪くはありませんでした。
斉興が藩主の座をなかなか譲らなかったのも、後継者問題が原因ではありません。
兄弟間での藩主の座をめぐる確執、暗愚な久光を立てるために暗躍するお由羅という像は、あくまでフィクションでの描写ということです。

というのも斉彬は、祖父・重豪に似ていて西洋流の技術導入に熱心でした。このことは薩摩藩を幕末の躍進へと導いた部分はあるものの、負の側面もあるのです。

お金です。

技術導入には莫大な費用が必要です。
重豪の代に財政が傾いた薩摩藩は、琉球を介入した清との密貿易、「黒糖地獄」とも呼ばれたほど厳しい、奄美大島からの黒糖専売による年貢取り立てといった手段を用いて、やっと黒字に転換できた。そんな苦難がありました。

しかし、藩主が斉彬になったら、また赤字に転落するのではないか。
そう懸念し、久光を推す者がいたのです。他でもない斉興すらそう考えていたのでした。

西郷の父・吉兵衛もまた、この騒動に巻き込まれてしまいます。
彼は斉彬派とみなされ、切腹を命じられた赤山靭負の切腹に立ち会うのです。
父が持ち帰った靭負の形見である血染めの肩衣を抱きしめ、西郷は号泣。胸の内には、お由羅と久光への激しい憎悪が刻まれたことでしょう。

世間のイメージとは異なり、西郷は人の好き嫌いが激しい性格が見てとれます。
この憎悪は、後の「西郷と久光」の関係に暗い影を落とすこととなるのですが、詳細は後ほど。

ともかくこの同騒動は、久光派だけの責任だけではなく、斉彬派の暴走もまた大きな原因だったのです。呪詛の噂だけで怒り、藩主の側室暗殺計画まで立てたのは、やはりヤリ過ぎ。冷静になってみると逆恨みといえます。
薩摩というのは豪快なイメージのある反面、強すぎる思いが憎悪に転ずるという負の部分も否定できないようです。

こののち、斉彬派は幕府を通じて工作を行い、斉興の隠居と斉彬の藩主就任を獲得するのでした。

島津斉彬像

 

ペリー来航を機に転機が訪れる

嘉永5年(1852年)になって、西郷は妻を娶とりました。
が、すぐに離縁。同年に両親を相次いで亡くし、家督を継いで家長となります。

その翌年には、ペリー艦隊が浦賀に来航します。黒船以前から海外の武力に危機感を抱いていた斉彬は、幕府から江戸に来るよう要請され、西郷も江戸詰御庭方として同行、江戸に留まりました。

「御庭方」とは幕府の「御庭番」にならったもので、これが西郷にとって大きな転機となります。

というのも御庭方の役目は、主の命を受けて諸藩の動向を探るというものだったのです。
西郷が本格的に政治活動を開始するのは、まさにこの役目を拝領した時から。藤田東湖や橋本左内らの思想的影響を受けるようになり、また西郷に接した諸藩も、彼の才能に一目置くようになりました。

西郷は徐々に、斉彬の右腕として存在感を増してゆきます。
御庭方は、身分こそ低いものの、藩主にとっては手足のようなもので、距離が近いのです。
斉彬は、西郷の血気盛んな性格こそ、この混迷を極める政局ではむしろ活躍できる、と考えたのでしょう。西郷も主君の信頼に応えるべく張り切ります。

こうした情勢の中、安政3年(1856年)島津家から篤姫(天璋院)が将軍・徳川家定の正室として嫁ぎます。

縁談は将軍家の方から強く望まれたものであり、斉彬は将軍の岳父として、ますます存在感を増すのでした。

 

偉大なる斉彬の死 そして安政の大獄が始まった

安政4年(1857年)、孝明天皇の強い反対にも関わらず、江戸幕府はアメリカ公使ハリスの条件をのんで「下田条約」、さらには「日米修好通商条約」を締結しました。

外国勢力に抵抗するためにも、発言力を強める斉彬。
その力はついに将軍継嗣問題にも及ぶようになります。
篤姫が嫁いだ家定は、子が生まれぬまま病状が悪化してしまい、次の将軍をどうするか、という問題が浮上したのです。

この将軍継嗣問題が熾烈な争いとなってきます。

薩摩側は徳川斉昭の子である一橋家の慶喜を推し、西郷も朝廷を通して工作を行います。
が、斉昭自身の不人気さや、薩摩勢力の伸張を苦々しく思う井伊家の反発等があり、交渉は難航。井伊家は、慶喜よりも将軍家に血統の近い紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推しておりました。

結果、一橋派はこの争いに敗北し、将軍は徳川家茂に決まります。
よほどこの敗北が応えたのか、それとも単なる偶然か。将軍継嗣問題に負けた斉彬は、同年7月、赤痢で急死してしまいます。
西郷にとってこの死はあまりにショックであり、一時は殉死を考えたほどでした。

斉彬の嫡子は、このとき2歳。
次の薩摩藩主は、久光の子・茂久(のちの忠徳)となり、祖父の斉興が後見となります。
その斉興もすぐに亡くなり、実権は、西郷にとっては憎き久光が握りました。

更にこの将軍継嗣問題は薩摩だけでなく、政局全体にも影響を及ぼします。
大老・井伊直弼は、一橋派が密かに幕府と水戸藩にあてて勅書を下していた(戊午の密勅)ことを問題とし、容赦のない弾圧を始めたのです。

世に言う「安政の大獄」の始まり。

吉田松陰が連座したことから、後の倒幕派を弾圧したように捉えられがちな「安政の大獄」ですが、主目的は一橋派を抑え込むための政治闘争でした。
これが西郷にも影響するのです。

井伊直弼/wikipediaより引用

 

追い詰められ、月照と入水するも……

井伊直弼による弾圧の手は、京都清水寺成就院の僧・月照にも迫りました。

月照は、将軍継嗣問題における朝廷工作の過程で西郷と親しくしていた者。そこで京都の近衛家から保護を依頼され、薩摩まで連れてゆくことにしたのです。

しかし、実際のところ薩摩藩では、月照の取扱を持て余しておりました。
斉彬が生きていた頃ならいざ知らず、幕府に睨まれている人物を匿っていても百害あって一利なし。

そこで同藩は、西郷に「日向送り」を命じるのです。

月照/wikipediaより引用

離れの地で匿っておけ。ということではありません。
「藩境まで来たところで斬り捨てよ」という、実質的には死刑でした。

西郷は、この決定に背くことはできません。
しかし、ここで旧知の月照を殺しては、保護を依頼されておきながらそれを破ることにもなる。
何よりも月照という男を殺すなどできはしない。彼に残された道は……。

せめて一人で死なせはしない――。

かくして西郷は日向へ向かう途中、月照と共に鹿児島湾へ身を投げます。
月照と西郷、水死。
藩にはそう届けられました。

しかし、月照はそのまま水死し、西郷は一命を取り留めていたのでした。

 

大和のフリムンと呼ばれた奄美での日々

藩命に背き、死んだことになった西郷は菊池源吾と名を変え、奄美大島龍郷(たつごう)に潜伏します。

その間、懇意の橋本左内や、将軍継嗣問題に関わった薩摩藩士らが処罰されたことを知り、一日も早い帰郷を望みました。
藩からの僅かな扶持米で生きながらえる日々は、決して幸福とは言えません。

薩摩藩一の俊英政治家であった西郷からすれば、鬱屈の日々であったことでしょう。

声をあげながら木刀を振り回し、大木相手に相撲を取っていた西郷は近所の人から
「大和のフリムン(狂人)」
と呼ばれ、気味悪がられていました。

さらにはストレスから過食気味となったのでしょう。
この頃から急激に体格も大きくなってゆきます。
それまでは背が高くほっそりとしていたのが、上野公園の銅像のようなガッチリ型になったのです。

雨期に到着した西郷は悪天候に閉口し、風習の異なる現地の人々を「けとう」と呼び、なかなかなじめませんでした。

ただし、現地女性の美しさには喜んでいたとか。
しばらくすると暮らしに馴染み、住民に学問を教えるようになりました。すると周囲も「島妻(アンゴ)」を持たせようと考え始めます。

現代で言うところの「現地妻」であり、薩摩に連れ帰ることはできませんが、生まれた子は薩摩で教育を受けることができます。
島妻には扶持米もあるため、なりたがる者、娘を志願させる家もありました。

かくして島妻を娶り、二子を生ませた西郷。
奄美の暮らしに慣れ始めるのですが、故郷の薩摩藩と日本の政局は絶えず大きく動いておりました。

いよいよ西郷の存在が必要不可欠だと判断した藩は、文久元年(1861年)11月、彼を奄美から呼び戻します。

 

「御前は地ゴロ(田舎者)で、事情に暗いから無理でしょう」

このころ藩の実権を握っていたのは、お由羅の子・久光でした。

西郷主役の作品では暗君扱いされがちな久光は、そもそも二人の背景に険悪な関係があるわけで、その点を考慮せねばならないでしょう。

久光の野心は、薩摩藩の武力をもって幕府に公武合体を迫ることでした。
西郷が奄美にいた安政7年(1860年)、「桜田門外の変」で井伊直弼が凶刃に斃れ、幕府の権威は揺らいでいる最中。
この状況ならば兄のように政治力を発揮できるはずだと久光は考え、出府上京準備の一環として西郷を呼び出したのです。

しかし、西郷にとっての久光は、斉彬とは異なる不出来な人物です。

実質的に権力を握っているとはいえ、藩主ですらなく、あくまで藩主の父。しかも無位無冠。
斉彬とは違って江戸暮らしの経験もなければ、政局での知名度もなく、まさに「ないない尽くし」でした。

西郷は、久光の野心に反対します。

斉彬のもとで政治工作の腕を磨いた彼からすれば、久光の意見なんて素人臭く相手にするのもばかばかしいものでした。
島に潜伏していた三年のブランクを埋めるため、自らの力量を見せ付けたかった場面でもありましょう。
そこで久光の野心に対し、こんな暴言を吐いてしまいます。

「御前(久光)は地ゴロ(田舎者)で、事情に暗いから無理でしょう」

せっかく奄美から呼び出したのに、恩義も知らないような態度。久光がそう西郷に激怒したとしても無理のないところでしょう。
二人の不幸な関係の再開です。

島津久光/wikipediaより引用

西郷に辛辣な言葉を浴びせられても上京を諦めきれない久光は、予定より遅れながら京都に入り、これを見た攘夷志士たちは「今こそ挙兵の好機!」と沸き立ちます。
彼らは京都・大坂に集結。周囲は、にわかに騒然となりました。

西郷はこのとき下関待機組でした。
が、こうした情勢を見て急ぎ上京を試みました。
一方、この命令違反に激怒した久光は、西郷の捕縛命令を出し、薩摩へ送り返します。

ちなみに京都の寺田屋に終結した攘夷派らが、説得側と乱闘になった「寺田屋事件」もこの時勃発しておりました。
もしも西郷が京都にいたら未来はどうなっていたか。
そんなことを考える余裕すらなく薩摩へ送り返された西郷は再び流刑となり、徳之島から沖永良部島に流されたのでした。

 

生麦事件が勃発し、京都も混迷を極める

文久2年(1862年)、西郷らを処罰した久光は、政局での発言力を順調に増していました。
そんな折、衝撃的な事件が発生します。
薩摩藩の行列が武蔵国生麦村を通過中、乗馬したイギリス人4人が横切ったのです。

歴史の授業でもお馴染み、生麦事件

事件当時の生麦/Wikipediaより引用

英国人の非礼に激怒した薩摩藩士はこの一行を殺傷し、事態は急激に悪化します。
文久3年(1863年)、犯人の処刑および賠償金支払いを求めたイギリス艦隊が薩摩に襲来し、薩英戦争が勃発したのです。
この戦いで双方は手痛い損害を出し、薩摩側も攘夷の無謀さを痛感させられました。

和平交渉がまとまると、イギリス側も態度を軟化させ、薩摩側に接近します。
薩摩藩も態度をあらため、こののち薩摩藩遣英使節団として五代友厚らを派遣。
攘夷とは異なる新たなる道を模索することになるのでした。

久光不在となった京都では、政局も新たな変動の時を迎えていました。

穏健派を抑え込んだ長州藩が、過激な攘夷を唱えるようになったのです。
彼ら長州藩尊攘激派は京都に志士を送り込み、公家を抱き込むと朝廷を操るようになりました。
そして暗殺と天誅が横行。
京都守護職・会津藩と、その配下の新選組が治安維持のために武力で抑え込むという、血の嵐が吹き荒れていたのです。

不在の薩摩に代わり、攘夷派公家を買収して台頭した長州藩。
この時期はまさにイケイケで、下関砲台からアメリカ船を砲撃する等して、攘夷へのやる気をアピールします。

もちろん諸藩は黙っているわけにはいきません。
久光、徳川慶喜らの有力諸侯が続々と上洛し、土佐藩も朝廷工作を画策しました。

同時に、荒れた治安を回復させるため、京都守護職として松平容保率いる会津藩士が上洛します。

容保は政治的な謀略を駆使するタイプではありませんでした。その誠実さがかえって孝明天皇に気に入られ、寵愛を受けるようになり、諸藩の嫉妬や反発を集めてしまいます。
幕末の政局というのはドロドロした「妬み嫉み」もあり、英雄がスカっと豪快にコトを運べたワケではないのですね。

松平容保/wikipediaより引用

 

長州藩を追い出し、政局を握ったのは「一会桑政権」だった

長州藩の台頭で政治力に翳りが生じ、焦り始めた久光は会津藩と手を組み、邪魔な長州藩を排除しようとします。

文久3年(1863年)8月18日。
孝明天皇の許可を得て御所の警備についた会津・薩摩藩の兵士たちは、長州藩と懇意の公家・三条実美らの参内を差し止めます。
そしてその後の朝議では、長州藩の京都からの退去が決定されました。

やっとの思いで長州を追い払い、久光としては発言力回復を期待したところでしょう。
しかし、この計画が脆くも崩れてしまいます。
一橋家慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の三名が主導する「一会桑政権」が、政局を握ることになったのです。長州藩を追い払ったと思ったら、今度は彼らに政治力を制限されてしまうのです。

慶喜らの政治力に敗北した久光としては、何としても失地回復をしたいところ。
そうなると頼りになるのが西郷です。
元治元年(1864年)、沖永良部島の西郷のもとに赦免が届いたのでした。

再び上洛を決意した西郷。
避けては通れぬ久光の対面を、周囲は固唾を呑んで見守ります……。
が、西郷はかつての西郷ではなく、尊大な態度をすっかり改めておりました。
調整役として、小松清廉(小松帯刀)が二人の間に入ったのも、改善の要因だったのでしょう。

小松清廉(小松帯刀)/wikipediaより引用

一方、追放以来、怒りのおさまらない長州藩尊攘激派は、捲土重来を期しておりました。
薩摩藩と会津藩から京都を追われたと怒り心頭の彼らは「薩賊会奸」と履物に書き付け、憤怒をこめて踏みつけて歩いたとされています。

そしてついに長州藩士らが復権を狙い京都御所に進撃。
元治元年(1864年)、「禁門の変」が起こります。

戦いの詳細は省略しますが、当初は静観していた薩摩藩が援軍に駆けつけると、長州藩は敗走します。
西郷もこの戦いに参加していました。

 

朝敵と見なされた長州を救うため薩長同盟を締結

「禁門の変」のあと、長州に対しては、征討の勅命が下されました。
参謀に命じられた西郷は「いざ長州を叩き潰すべし!」と意気込んでいましたが、そこで幕臣の勝海舟と出会います。

西郷は勝から思想的に大きな影響を受けました。

「もう幕府には、政権を担う力なんざねぇ。ここで長州を叩き潰してもいいことは何一つねえんだ。そんなことやるよか、諸侯が力を合わせて外国に立ち向かうべきだろ」

そう言われた西郷は、考えを180度改めます。すっかり勝に惚れ込んでおりました。

長州征討は、いくつかの条件のもとに和睦となりました。
その中身は「三家老・四参謀の切腹」と「藩主と世子直筆謝罪状の提出」、さらには「山口城の破却」と、八月十八日の政変で追われた三条実美ら「五卿の引き渡し」でした。
処分が寛大過ぎないか?
そんな疑問の声があがる中、征長軍は解散します。

しかし混乱に追い込まれた長州藩では、その後、奇兵隊で知られる高杉晋作らが穏健な「俗論派」を倒し、主導権を握ります。

過激な彼らが主流となれば再び火を噴きかねない。
こうした動きを見た幕府は、再び長州征討を企画。一度は矛を収めた薩摩藩は、幕府の決定に不服を覚えました。

この頃、西郷とは旧知の仲でもある土佐藩士の坂本龍馬らが薩摩と長州の提携に乗り出すのです。
そうです。幕末では最大の出来事の一つである「薩長同盟」。
薩摩藩は、本格的な倒幕へと舵を切るのでした。

イラスト・富永商太

しかし、この倒幕路線とは、あくまで西郷らの目指す方向です。
久光はむしろ警戒感を持っておりました。
武力行使を辞さない西郷と、強硬路線に反発する久光。やはりこの二人の対決が、禍根を残します。

というより、薩長同盟の目的も、倒幕そのものではありません。
朝敵と認定された長州藩の立場を救うことが第一であり、そのためには孝明天皇および朝廷から深い信任を得ることが必要でした。
同時に、政治の実権を握る「一会桑政権」(慶喜・容保・定敬)の打倒も視野に入っており、「慶喜打倒イコール倒幕」を当初から目指していたわけではないのです。

 

武力に依る倒幕しかない!

長州と手を結んだ薩摩は、かつて敵だったイギリスとも急接近。
イギリスでは薩摩藩の留学生を受け入れ、薩摩側も入港したイギリス艦を歓待しておりました。
英国艦隊をぶっ潰してやろう……という実力行使で手痛い失敗を受けた薩摩藩では、政策を180度転換し、彼らの援助を受けていたのです

一方の幕府はフランス寄りです。
欧州での英仏対立の構造が、日本を舞台にしても展開されていたのですね。

裏で長州と同盟を結んでいる薩摩は、幕府の長州征討に対し、一向に重い腰を上げません。
と、そうこうするうちに将軍家茂、一会桑政権の後ろ盾であった孝明天皇が立て続けに亡くなります。

これで幕府側が窮地に……と思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではありません。
家茂のあとに将軍となった慶喜の政治手腕は鋭く、薩摩が提案した長州処分の「寛典案」を取り下げる等、薩摩の面目を潰すこともしばしばありました。

また、薩摩藩は幕末の動乱の中で武力行使をし過ぎました。
財政は軍事費で逼迫。その責任を問う目は、西郷にも向けられます。
そんな状況下で、このまま慶喜を頂点とした幕府、政体が存在したらば、西郷は失脚を免れません。

西郷は決断を下します。
「ならば倒幕だ! 慶喜を将軍職から引きずり下ろし、朝廷で開かれる諸侯会議での政治を目指す!」

グレート・リセット路線へ舵を切り、政治主導権を握る――。
それが西郷の出した結論であり、タイミングのよいことに、久光が病のため京都から薩摩へ帰国。
ブレーキ役が不在となったことで、西郷の独走的な行動に歯止めが利かなくなりました。

彼ら薩摩藩は、武力による倒幕を目指して突き進むのです。

 

方針の違う土佐と薩土盟約 なぜ?

こうした薩摩の強硬路線に歯止めをかけようとしていたのは土佐藩でした。
ソフトランディング路線での政権交替を目指す土佐藩の後藤象二郎は、大政奉還・王政復古・議会政治を条件とした政権交代案を提唱。薩摩藩と土佐藩の間に薩土盟約が締結されます。

武力征圧をしたい薩摩と、あくまで穏当な方法で政権交代を目指す土佐では方向性が違います。
それでもなぜ、薩摩は土佐と手を結んだか。

西郷は、慶喜がそうあっさり将軍職を返上するとは思っていませんでした。
「もし慶喜が将軍職返上を拒んだら、それをきっかけに戦争を起こす」
それが真の狙いだったのです。

武力討伐を目指す薩摩藩と長州藩は、慶長3年(1867年)10月、倒幕の密勅を取り付けました。
一方で土佐藩は大政奉還を求める建白書を提出します。
傑物と言われ、かつて島津斉彬も将軍に就けようとした徳川慶喜は、この土佐発のソフトランディング案に乗り、あっさりと大政奉還を認め将軍の辞表を出します。

徳川慶喜/wikipediaより引用

慶喜としては、たとえ将軍の座を明け渡したところで、政権を担える諸侯などおるまい、という計算もありました。
この見通しは正しかったと言えます。
「あっさりと将軍の座を捨てるなんて、たいしたもんだなあ。悔い改めて返上したからには、もう罪はないだろう。新政権にも是非迎えるべきだ」

慶喜の決断は世間から好評を得て、久光はじめ薩摩藩内にすらこんな風に歓迎する者が多かったのです。

どうにも狡猾に描かれがちな慶喜ですが、人間的には洗練されて魅力に溢れていた人物です。
国内からも、また日本に滞在する外国勢力からも「慶喜に厳しい処分を下してはならない」という声があがっていました。

しかし、それは断固として武力討伐を目指す西郷にとっては受け入れられないことです。
将軍の座にしがみついた慶喜を、力づくで引き離して戦争を起こすもくろみは頓挫。
徳川の広大な領地と財産も、諦めるにはあまりに魅力がありました。

 

大政奉還後の西郷は、逆に背水の陣となってしまう

もはや、なりふり構わず突き進むしかありません。
西郷は、長州に倒幕への決意を語ります。

薩摩藩内にも武力行使反対派がいました。
久光が反対派の筆頭なのですから、家臣に過ぎない西郷、大久保らが反対意見を押し通すのは異常なことです。

まさに背水の陣。

薩摩・長州ら倒幕勢力は12月、調停工作を行い「倒幕の密勅」を出させました。
さらには王政復古のクーデターを起こし、慶喜政治参画の野望を挫いて、会津藩主・松平容保と桑名藩主・松平定敬の帰国を決定します。

王政復古によって制定された三職(総裁・議定・参与)が集った三職会議、いわゆる「小御所会議」にて、土佐の山内容堂は慶喜の招致を求めますが、薩摩側は断固として反対。慶喜に辞官納地を要求します。
会議は紛糾し、ついには山内容堂の主張が通り、慶喜が議定に就任して領地も返上しないことが決まりかけました。

焦ったのが西郷です。

前述の通り、薩摩でも藩内一致で倒幕を目指してはおりません。
あくまで少数派、西郷の周辺だけ。
長州藩を除く諸藩は、その強引なやり方に反発し、冷たい目線を向けていました。

このまま倒幕派がくじけたら、西郷の失脚は間違いありません。
もはや西郷の選択の余地は、ない。
そこで彼は武力の道を選びました。

西郷の密命を帯びた井牟田尚平・益満休之助ら薩摩藩浪士隊が、将軍不在で治安が悪化していた江戸および関東一円で暴れ回ったのです。

 

薩摩の悪行「薩摩御用盗」に江戸の町は恐怖の中へ

彼らの行動は現在の言葉で言うならばテロです。
強盗、放火、殺人、暴行。
しかも要人暗殺ではなく、警備の手薄な一般市民というソフトターゲットを狙った無差別殺傷でした。
現在の過激派組織は、世論の動揺や挑発のため、コンサートや駅で市民を巻き込む事件を起こします。幕末の京都で横行したターゲット狙いの暗殺より、こうしたテロに近いと言えます。

浪士隊の勢いは留まることを知らず、ついには天璋院がいる江戸城二の丸までも含めて、江戸城は三度も放火されるに至ります。

江戸の人々は彼らを「薩摩御用盗」と呼び、その悪行に震え上がりました。

警護担当の庄内藩・新徴組は当然ながら激怒。
薩摩藩邸で下手人の引き渡しを求めるうちに、藩邸は焼き討ちにしてしまいます(薩摩藩邸の焼討事件)。

確かに江戸城そのものは無血開城されたかもしれませんが、実際には多くの血が流れていたのです。

この知らせが大坂にいる幕府軍に届くと、風向きが変わりました。
幕府に藩邸を焼き討ちされた薩摩藩は怒り、武力行使もやむを得ないと考えを変更、西郷の望んでいた武力衝突の避けられない事態となるのです。

年明けて慶長4年(1868)1月、鳥羽伏見で新政府軍と幕府軍が激突!
数の上では幕府軍が勝るため、敗北することもありえると西郷は覚悟を固めていました。

しかし装備面で差がつき、勝利した新政府軍は「錦の御旗」を掲げて進軍。
この旗は即席と言っていいほど割と適当に作られたもので、正統性はどの程度あったか疑問はあります。
が、ともかく慶喜としては朝敵にだけはなりたくありません。

かくして慶喜らは、江戸を目指し上方から撤退。自ら謹慎し、恭順の意を示します。
静寛院宮(和宮)や天璋院も、慶喜の助命を嘆願しながら、西郷としては何としてでも切腹させたいと考えていました。

今後もし、再び徳川が力を得たならば、能力の高い慶喜は必ず巻き返しをはかるに違いない――そうなったら危険だと考えていたのです。

そこに現れたのが勝海舟でした。

 

江戸城の無血開城から突然の路線変更

勝に面会を求められた西郷は、これを受け入れました。

この時点で勝は、慶喜助命のための会談に全力で臨む一方、決裂した場合に備え、戦争の準備も整えていたのです。
が、その心配は杞憂に終わりました。

「江戸城無血開城」の実現です。

江戸城

歴史において燦然と輝く偉業のように思えるこの決断は、実は新政府から不満も出ておりました。

まず西郷は、幕臣が軍艦や兵器を持って逃げ出すことを看過してしまいます。
新政府からすれば、西郷が勝相手に譲歩したように思えたのです。
また、西郷の気持ちひとつで慶喜の命すら決まるような強引なワンマンぶり、ころころと変わる決断は、周囲の人々に不信を招くことになりました。

そしてなぜだか西郷は、この無血開城を機に、徳川宗家の寛大な処分を望むようになります。
あれほど強硬路線を目指していたはずが突然の180度転換です。現代の我々にとっても理解に苦しむ展開でしょう。

西郷は、江戸での彰義隊との上野戦争を指揮し、その後、出羽・米沢庄内へと転戦。
庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたこともあり、激しい抵抗を示していました。そして力尽き、9月に降伏すると藩主以下厳しい処分を覚悟します。

彰義隊との上野戦争の様子/国立国会図書館蔵

が、西郷の意を受けた黒田清隆は寛大な処分を下したのです。
減封は16万石から4万石の12万石。改易された会津藩とは対照的でした。

あれほど血を流すことを望んでいた西郷は、すっかり変貌していたのです。
庄内藩士はこのことから西郷の徳を慕い、明治22年(1889年)には西郷の言動をまとめた『西郷南洲遺勲』を出版するほど。

しかし、この西郷の変貌は新政府にとっては受け入れがたいものでした。
戦いを終えた西郷を待っていたのは、新政府首脳部からの冷たい目線。
久光や彼の強引さに苦々しい思いを抱いていた薩摩藩士からの敵意でした。

フィクション作品における彼の絶大なるカリスマイメージからは想像しにくいかもしれませんが、さほどに理解しがたい行動だったのでありましょう。

 

激怒する島津久光のなだめ役を任せられ

望み通り幕府を倒し、戊辰戦争を起こし、勝利した西郷。
もはや斉彬の遺志は果たしたと、鹿児島に戻ると温泉で療養します。

役目を終えたという思いもありましたが、徳川側に厳しい態度を取る新政府についていけない部分もあったのです。

西郷は隠居するつもりではありました。
が、それは許されないことでした。
当時の薩摩藩は戊辰戦争から凱旋した兵たちが発言権を増しており、久光は苦々しい思いで彼らの台頭を見ていました。彼の不満を抑えるためにも、誰かが必要だったのです。

鶴丸城(鹿児島城)

藩主・忠義や周囲の懇願を受け入れ、西郷は薩摩藩参政、明治3年(1870年)には鹿児島藩大参事に就任。
反感を買いながらも、それまでの圧倒的な彼の人望や政治力は発揮され、藩内の政治不安を抑えます。

ただし、久光の鬱憤はとどまることを知らず、その矛先は西郷に向かいます。
幕府にかわって日本を支配できる――そんな風に時代錯誤な思い込みをした久光が悪いと語られがちな場面ですが、そもそもは、久光の意向と関係なく推し進められた新政府の方針について、説明不十分だったのが原因ではないでしょうか。

薩摩藩はじめ新政府は、当初、攘夷を訴えておりながら、維新が成功したとなるや180度方向転換して西洋流を取り入れたわけです。
このままでは日本流が廃れて西洋に染まってしまう。
そんな危機を覚えたのは、何も久光一人のことではないでしょう。

さらに西郷の倒幕活動は、久光から反対されていたにも関わらず、慶喜の腹を切らせるべくクーデターを行い、テロを煽動したワケです。
独断専行と批判されても仕方のない一面があり、「家臣にないがしろにされた」と久光が怒りを抱くのも自然なことかもしれません。

そして、久光の不満は何ら解消されないまま、新政府は「版籍奉還・廃藩置県」へと邁進。
旧藩主の座は消えてなくなり、元藩士の大山綱良が権大参事(のちに県令)となるのでした。

久光は、もちろん激怒です。怒りのあまり、大規模な花火を打ち上げたと伝わるほど。
そして自らが県令の座に就くべく運動を開始するのですが、結局これも叶わずじまい。

一方の西郷は明治4年(1871年)、近衛都督・参議兼陸軍元帥に就き、軍部の頂点に立ちます。

久光の憎悪は強まるばかりでした。

 

征韓論争 「使節として朝鮮に渡り交渉をしたい」

江戸幕府から政権を奪った新政府は、朝鮮半島に目を向けるようになりました。

当時の李氏朝鮮は、対馬藩を経由して貿易を行う間柄。新政府ではこれを廃止し、新たに日本政府と交易するように求めたのです。

このとき日本が持参した文書に、朝鮮にとっては宗主国である清しか用いないはずの「皇」や「勅」という言葉が含まれており、朝鮮は反発しました。
しかし、この文字への反発は表向きのこと。
鎖国体制だった同国は、かつての日本のように開国に対する激しい抵抗感があったのです。

強硬な朝鮮の態度に対し、日本政府は徐々に不満を募らせます。
もはや武力行使もやむなしか?
そんな論調も高まる中、西郷が手を上げます。

「使節として朝鮮に渡り、平和的に交渉をしたい」

西郷にはネゴシエーターとしての才覚があります。長州征討の際にも敵の懐に飛び込み、解決に導きました。
敵の懐に飛び込んでどうにかするのは西郷が最も得意とするところ。
「俺さえ行けば何とかなる」
そういう考えがあったのかもしれません。

あるいは、不平士族の目をガス抜きのために外国へと向けたかったのか。
新政府への鬱憤を晴らしたかったのか。
体調不良で自暴自棄だったのか。
決定的な理由はわかりません。

しかし、大久保利通や岩倉具視はそうは考えませんでした。
諸外国を実際の自らの目で見て、日本はまだまだ近代国家としては脆弱過ぎると考えた彼らは、外に打って出るより内政強化の道こそが正しいと考えたのです。
今後、もしも朝鮮と武力衝突などが起きれば、諸国から一斉に敵意を向けられるリスクも感じていたでしょう。

岩倉使節団の頃の木戸孝允(左)。ほかは左から山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)

結局、そんな大久保らの意見が通り、朝鮮への使節派遣はとりやめとなります。

西郷はこの決定を不服とし、下野して郷里に戻りました。

このとき同じく下野した板垣退助らは政府批判を強め、明治7年(1874年)に民選議員の建白を行い、後の自由民権運動につながります。
江藤新平は佐賀の乱を起こします。

船出を始めたばかりの明治新政府は、早くも大波にぶつかったのです。

 

「おいの体はさしあげもそ」

大久保ら盟友が新政府で確固たる地位についている中、西郷は国元で久光との確執に苦しみ続けました。
そしてその苦しみはやがて、新政府に向けられるようになり、失望へと変わります。

権力を手にし、蓄財に励み、私腹を肥やす官僚たち。
何のために粉骨砕身し、戊辰で血を流したのか?
こんな腐敗した政府を作るためだろうか?

新政府のやり方に不満を抱いていたのは西郷だけではありません。
郷里に戻った西郷のもとには不満分子が集まり始めるのですが、これはなにも鹿児島だけの話ではありません。
武士としてのアイデンティティ危機を迎えた士族たちは各地に大勢いました。各地で不平士族の蜂起が起こっていたのです。

中でも明治9年(1876年)萩の乱は、西郷同様に下野した元長州藩士・前原一誠が起こしたものだけに、意義深いものでした。

萩の乱を描いた錦絵/wikipediaより引用

政府を離れた西郷は、地元で私学校を開設していました。
そこへ、次第に不満をつのらせた士族が集まり始めます。
西郷は彼らの過激な言動をたしなめる立場でしたが、こうした不満分子が集まっている時点で、火薬を積み上げているような危険があったのではないでしょうか。

比喩だけではなく、文字通り本物の武器弾薬も鹿児島にありました。
当時海軍で使用する弾薬を製造していたのです。

「不満分子がこうした武器弾薬を手にしたらどうなるか?」

政府は、武器弾薬の回収を行うとともに、その状況を探らせました。
任に当たったのは薩摩藩出身の大警視・川路利良。
かつては西郷の側近として鳴らした腕利き(とその配下の者たち)です。

彼ら密偵の目には、日々不満を募らせ鬱憤を語り合う西郷は、捲土重来を期しているように思えました。
そして、この密偵が思わぬ事態を起こします。
西郷の私学校の者が、川路の部下・中原尚雄を捕縛。中原が、西郷暗殺計画を吐いてしまったのです。

西郷はこのことを聞くと驚き、焦りました。
「しもた(しまった)!」
かつて江戸市中でテロを起こし、導火線に火をつけ、戊辰戦争に挑んだ西郷です。

これから何が起こるか、何に火をつけてしまったか。
理解したのでしょう。
そして彼は悟ります。

「おいの体はさしあげもそ(俺の体は差し上げよう)」

もう、こうなったら暴発は止まらない。
薩摩での士族挙兵を知った新政府は西郷を朝敵と認定し、討伐令を下しました。

 

西郷どんは、死して星になったのだ

明治10年(1877年)、2月15日。
総勢13,000を超える西郷反乱軍は、熊本に向けて進軍を開始(熊本城の戦い)。

西南戦争の始まりです。

不平士族も次から次へと合流。西郷挙兵の報は東京にも届き、新政府への不満を抱く庶民たちは西郷が勝つように祈るのでした。
判官贔屓という言葉がありますように、カリスマ西郷への憐憫の情というか期待は湧き上がるばかり。

しかし西郷軍は、新政府軍を過小評価していました。
明治政府の軍隊は、全国から集められた兵士。
つまりは徴兵制によってまかなわれており、そんなものたちなど薩摩武士たちの前では鎧袖一触(がいしゅういっしょく)であろう、とたかをくくっていたのです。

しかし、新政府軍とて、そう甘くはありません。
このころ普及し始めた電信で敵の動きを探り、戦況を把握。陸軍や警視庁に所属する旧会津藩士らは、今こそ戊辰の恨みを晴らすときと誓い、鹿児島に向かったのです。
徴兵制とはいえ、単なる寄せ集めではなかったのですね。

1877年3月20日、激戦の末、田原坂の防衛戦を突破した新政府軍は、熊本城へ。

激戦だった田原坂の戦いを今なお偲ばせる弾痕の家

支えきれなくなった西郷軍は撤退し、5月になると鹿児島に上陸した新政府軍を相手に、西郷軍は攻撃を仕掛けます。
鹿児島城下は戦火につつまれました。

鹿児島に入れなくなった西郷軍は、一転、宮崎を目指すものの、ここでも新政府軍に阻まれます。
さらには和田越で迎え撃とうとするも、西郷軍は敗北。
僅か六百名ほどで城山を目指したのでした。

しかし、そこへ辿りついたときには、残り三百名あまり。
9月24日早朝、新政府軍の総攻撃を受た西郷らは、潜伏していた洞窟を出ます。そしてそこから出て五百メートルほど進んだところで、腹と股に銃弾を浴びるのでした。

西郷隆盛の潜んでいた洞窟

「晋どん、もうよかろ」
同行していた別府晋介にそう告げると、西郷は切腹しました。

享年51(満49才)。
西郷の死のころ、火星が地球に近づき、赤く輝いていました。
その血のような色と西郷の非業の死を重ね、人々はこう語り合いました。

「西郷どんは、死して星になったのだ」

 

熱いのか? 冷たいのか? 人に愛されるのか? 憎まれるのか? 人を愛したのか? 憎んだのか?

死後、西郷は伝説となりました。

勝海舟が彼を評したように、「度量が大きく、人に好かれ、人徳に溢れた人物」として、人々に愛されてきたのです。
英雄でありながら賊臣として非業の最期を遂げたことも、判官贔屓としての効果をもたらしました。

しかし、西郷の生涯を振り返ってみると、こうしたイメージは願望含みのものであると思えてきます。

西郷は人の好き嫌いが激しく、また周囲には味方だけではなく敵も大勢いました。
そうした敵の筆頭は主君である島津久光です。
両者の間には、からりとして豪快なイメージのある薩摩隼人とは異なる、ドロドロとした憎しみがあります。

軍服姿の西郷隆盛/Wikipediaより引用

では伝説化される前の西郷とはどんな人であったか。

事ここに至っても、知れば知るほどわからなくなってしまうのです。
新政府樹立の英雄となってから、賊将として落ちるまで。事績だけではなく、ありとあらゆる行動、思考の振れ幅が大きいのです。

月照と共に死のうと思い詰め、西南戦争では仲間を見捨てなかった。
こうした行動は仲間思いであり、熱い心にあふれています。

その一方で、味方すら容赦なく斬り捨てる冷酷さがあります。
例えば西郷の赤報隊への仕打ちは冷酷そのものです。
西郷の命を受け年貢半減令をふれまわった赤報隊は、年貢半減が実行できないとなると「偽官軍」として処刑されました。
赤報隊だけではなく、西郷は自分と対立したものとの処断に躊躇はなかったのです。

「敬天愛人」という言葉を好んだ西郷は、その言葉通り、庄内藩に対しては寛大さを示しました。
しかし、そもそも庄内藩が薩摩藩と対立したのは、西郷の密命を帯びた浪士隊のテロによる挑発がきっかけです。
目的のためなら手段を選ばず、ソフトターゲットを狙うテロ行為はからは「敬天愛人」の言葉に戸惑いを覚えずに入られません。

熱いのか?
冷たいのか?
人に愛されるのか?
憎まれるのか?
人を愛したのか?
憎んだのか?

大西郷――。
それは巨大な迷宮なのです。

小檜山 青・記

南洲翁終焉之地碑 (西郷隆盛終えんの地)

【西郷隆盛の年表】

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【参考文献】
松尾千歳『西郷隆盛と薩摩 (人をあるく) 』(吉川弘文館)
落合弘樹『西郷隆盛と士族』(吉川弘文館)
安藤優一郎『西郷隆盛伝説の虚実』(日本経済新聞出版社)
家近良樹『西郷隆盛と幕末維新の政局』(ミネルヴァ書房)

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