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絵・富永商太

武田・上杉家 週刊武春

武田信玄53年の生涯をスッキリ解説【家系図付き】戦国ロマン溢れる甲斐の虎、そのリアル

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甲陽軍鑑に記された遺言とは?

死の間際、信玄が遺したとされる「三年間隠すこと」はよく知られていると思います。

しかし、そんなことは実際可能だったのでしょうか?

以前から本人も、自らの死は意識していたのでしょう。
信玄は、事前に800枚もの紙を用意し、すべてに花押を記し、諸大名からの書状に対応するように命じたとされます。

花押は原則、本人のサイン。
そこだけ本物を入れておき、各大名に対する返書の文章は右筆などが記したのでしょう。

ご丁寧に「今は病気である」というような内容で記すよう遺言で伝えられたとのことです。

さらに遺言の中には、
勝頼は、あくまで陣代(当主代行)であり、息子の信勝が家督を継承するまで武田の旗も使わせない」
というものもありますが、現実的には当主と認められていたと考える方が自然です。

武田勝頼/wikipediaより引用

織田信長が「勝頼は強い」と認めていたように(強すぎて退けずに長篠で突っ込んだという見方はさておき)、決して無能な人ではありません。

それよりも遺言で面白いのは、死後に上杉謙信との和睦を勧めていたことでしょう。

さすがに織田信長と徳川家康との対峙は避けられぬ――という考えだったようで、信長に対しては攻め込むのではなく防御を固めるように指示しています。

さて、こうした数々の気遣いがありながら、実際のところ信玄の死はすぐさま諸国へ広まっていたようです。
武田家としては、あくまで「病気」というスタンスを貫いておりましたが。

仮に信玄不在だとしても、この頃にはまだ山県昌景や馬場信春、高坂弾正昌信など歴戦のつわ者たちが残っています。
簡単にどうこうできるワケでもなく、事実、勝頼のもとで、武田家の領土は拡大していくのでした。

 

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その後、武田騎馬隊はどうなったのか?

さて、その武田家を支えた武田軍。

精強な騎馬隊がよく知られております。
野原を縦横無尽に駆け巡り、敵をなぎ倒していく姿を思い浮かべることでしょう。

少し前まで、この騎馬隊に対する否定的な考え、つまり「馬に乗って戦うことはなかった」とする説が提唱され話題になっておりましたが、現在では「やはり戦っていた」という見方が有力視されてます。

将校クラスだけでなく、身分の低い者も馬に乗って合戦に参加し、その隊が組まれていることが史料から読み取れるのです。

ただし「武田信玄陣立書」には、
【鉄砲、弓、騎馬、槍】
といった順番で部隊の構成が記されており、騎馬だけが際立って凄まじい、と確定したものはありません。

実際は、他国の大名と同じような構成であったということでしょう。

基本的に合戦は、鉄砲と弓で遠距離攻撃を仕掛け合いながら、徐々に距離を近づけて槍隊の出番となり、戦況が動き始めたところで騎馬隊がトドメにかかる――そんな流れだと考えられております。

ただ、やっぱり武田家の騎馬隊が凄いらしい、という記述はありまして。
長篠の戦い】で武田勝頼と対峙することになった織田信長が、騎馬隊を警戒している、そんな一節が『信長公記』にも記されているのです。

実は、鉄砲隊の隊列を崩すには、騎馬で突入させて撹乱させるのが定石。
そんな状況もあって、大量の鉄砲を用意させた織田信長が、武田の騎馬隊をかなり警戒していたのかもしれません。

長篠の戦いでは、騎馬隊を次々に突入させて無駄死にさせた、ということで勝頼の能力を否定する見方が一般的かもしれませんが、本当はやるべきことをやっていた可能性が高いのです。

むしろ長篠の戦いは、兵力を少なく見せ、山を砦のように固めていた、織田信長の作戦勝ち。
勝頼の名馬も信長に奪われております。

 

正妻・三条夫人は悪妻だった?

かつて信玄のフィクション作品と言えば、正妻の三条夫人が悪者で、側室の諏訪御料人を美人で描く傾向が見られました。

義信が謀反騒動で討たれ、勝頼が跡を継いだ。
そうしたことから、諏訪姫&勝頼を持ち上げた方がストーリーを展開させやすかったのでしょう。

しかし、実際の三条夫人が悪妻であった可能性は低いと思われます。

【関連記事】三条夫人

まず、彼女は今川義元の斡旋によって輿入れが実現し、かつては敵対関係であった武田と今川の両家に緊張の緩和をもたらしました。

実際、今川の家督争い(花倉の乱)では、武田が義元を支持。
信虎の長女が義元の正室にもなり、武田氏は中央貴族や京都寺院との結びつきが強くなります。

後に信玄が信長包囲網を敷くときに、三条夫人を通じて石山本願寺と連携をはかったこともよく知られます。
三条夫人の妹が本願寺顕如に嫁いでおり、それぞれの妻を通じて義兄弟の関係になっていたんですね(ちなみに三条夫人の姉は管領・細川晴元に嫁いでいる)。

信長との争いの前には、本願寺(越中の一向宗門徒)を通じて、越後の上杉謙信を牽制する働きかけも行われております。

なにより信玄との間には、
・義信
・竜芳
・信之
・黄梅院
・見性院
と5人もの子供がおります。

三条夫人が悪妻かつ不仲であったら、さすがにここまでの関係を築くことは不可能だったのではないでしょうか。

彼女は内助の功だけでなく、外交という信玄の武器にも不可欠だったのです。

 

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側室と子どもたち

武田信玄には、正妻・三条夫人の他に側室がハッキリしたところで3名、他に数名いたのでは?と考えられてます。

3名とは以下の通りで、
・諏訪御料人(諏訪姫)
・油川夫人
・禰津夫人
・勝沼氏の娘ほか数名(詳細不明)
それぞれ簡潔に説明しておきましょう。

側室で、最も印象深いのが諏訪御料人ですね。

実父の諏訪頼重と弟・竜王丸を信玄に殺されながら、武田勝頼という跡継ぎを産みました。
自身は二十代の若さで亡くなっています。

勝頼の息子・信勝が当主候補で、勝頼は代行に過ぎなかったという指摘(上記の通り甲陽軍鑑に記された信玄の遺言)もありますが、いずれにせよここで滅びてしまったので致し方ない話でしょう。

油川夫人の出身・油川家は、もともと武田家とは同族の名門です。

信玄の祖父である武田信縄(のぶつな)。その弟・油川信恵(あぶらかわのぶよし)が祖となって甲府の南部に勢力を張っておりましたが、信虎との争いに敗れて家は滅亡しました。

家柄も良いだけでなく、子宝にも恵まれ、仁科家を継いだ五男・盛信、葛山氏の養子に入った六男・信貞、木曽義昌に嫁いだ真里姫、信長嫡男の織田信忠と婚約した松姫、上杉景勝の妻・菊姫などがいます。

禰津夫人は、信濃の高遠一族の出身です。七男・信清を産んだこと以外は知られておりませんが、この信清は武田家滅亡後、姉である菊姫のツテで上杉景勝に仕えました。

こうして見ますと、冷静沈着に政略結婚を繰り返した――なんて思うかもしれませんし、実際そうなのかもしれません。
が、だからといって愛情がなかったとも判断できないでしょう。

信玄は、黄梅院を北条氏政の嫁に送るとき、実に10,000以上の騎兵を伴わせたと言います。
この数字はさすがに盛り過ぎのため、仮にその1/10だとしても1,000を超えるのですから、娘に対して深い愛情を抱いていたことがうかがえます。調度品も相当な品揃えでした。

ただ……。
駿河侵攻で黄梅院は離縁で甲府に戻され、失意のうちに急死してしまいます。
信玄は大泉寺に所領を寄進してまで、彼女の魂を弔ったと伝わります。

【参考:信玄の妻&側室と子どもたち】
三条・義信(廃嫡した嫡男)
三条・竜芳(海野二郎)
三条・信之(夭折)
諏訪・勝頼 - 信勝(孫)
油川・盛信(仁科五郎盛信)
油川・信貞(葛山十郎信貞)
禰津・信清(安田三郎信清)
三条・黄梅院(北条氏政室)
三条・見性院(穴山信君室)
油川・真理姫(木曽義昌室)
油川・菊姫(上杉景勝室)
油川・松姫(織田信忠と婚約)

※息子の多くが他家の養子となったのは、支配力を強めるためであり、武家の間では古くから行われておりました

 

【甲斐源氏の流れ】

甲斐源氏19代を以下に記しておきました。

生年-没年も付記しておきますので、平安時代から続く武家の重厚な血脈を想像してみてください。

1代 源義光 1045-1127(甲斐源氏の始祖・甲斐守)

2代 源義清 1075-1149(常陸国“武田”郷の地から甲斐へ)

3代 源清光 1110-1168

4代 武田信義 1128-1186(甲斐武田氏の始祖)

5代 武田信光 1162-1248(源頼朝と共に挙兵)

6代 武田信政 1196-1265

7代 武田信時 1220-1289

8代 武田時綱 1245-1307

9代 武田信宗 1269-1330

10代 武田信武 1292-1359

11代 武田信成 不明-1394

12代 武田信春 不明-1413

13代 武田信満 不明-1417

14代 武田信重 1386-1450

15代 武田信守 不明-1418

16代 武田信昌 1447-1505

17代 武田信縄 1471-1507

18代 武田信虎 1494-1574

19代 武田信玄 1521-1573

20代 武田勝頼 1546-1582

※源義光の子・源義業が初代佐竹氏(信玄とはかなり遠い親戚です)

 

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キング・オブ・戦国大名

さて、こうして信玄の人生をみると、まさに戦国大名の代表という気がしませんか?
戦いと謀略にまみれている。

しかし、戦国大名の全員が戦いに明け暮れた、というワケでもありません。
特に信玄の息子世代より以降、豊臣政権から派手な戦なんてそうそうない。

例えば伊達政宗あたりなんかも、戦績は前半生の数年間のみに集中しています。

一方、信玄です。

戦いに満ちた生涯は、まさに「キング・オブ・戦国大名」。
乱世の申し子という印象を受けます。

しかも滅法強く、満を持した戦いではほぼ全勝でした(主な負けは村上、上杉、北条相手に都合4度)。
合戦だけではなく、外交や謀略にも長けていたのだから、そりゃあ戦国武将の中でも突出した人気を誇るわけです。

自らの無念の死ですら、強烈な存在感を強めている。
「ミロのヴィーナスは腕がないからこそ想像の余地があって美しい」と言われますが、信玄の人生も、同じように未完の美しさを感じます。

それは、まさに戦国ロマンそのもの――。

では教科書から削除されるのは不当か?
というと、私はそうは思いません。

ロマン補正を差し引くと、信玄の功績はあくまで有力な地方大名の一つ。
結局、教科書に掲載されていようがいまいが、歴史ロマンを求める人は自然に嗅ぎつけ、そうでない人には伝わらないというだけです。

もはや武田信玄という強烈な存在感の前では、教科書なんて些末なこと。

戦国史に興味を持てば、確実に武田信玄という大きな壁に突き当たり、感服せざるを得ない――それだけで十分ではないでしょうか。




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文:小檜山青

【参考文献】
武田信玄―芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)』笹本正治
武田信玄 (歴史文化ライブラリー)』平山優
武田信玄 (人物叢書 新装版)』奥野高広
武田信玄 謎解き散歩 (新人物文庫)』萩原三雄 (その他)

 



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