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イラスト・富永商太

徳川家 週刊武春

本多忠勝の生涯を知る5つの最強エピソード【年表付】兜や城下町の秘話も熱い武人

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──生涯戦うこと57度
されど、かすり傷一つ無し──

天下三名槍の一つ「蜻蛉切」を手にした本多忠勝。
この武人の向かうところに敵はなく、戦国ファンの間では最強武将No.1として知られている。

そもそも「名は体を表す」とはよく言ったものだ。

「ただ勝つのみ」という願いを込めて付けられた「忠勝(ただかつ)」という名は三河武士のシンボルでもあり、徳川家康の天下平定には欠かすことのできない忠義の武将でもあった。

本稿では、彼の生涯を通しながら、5つのエピソードに注目し、その強さを俯瞰してみたい。

西蔵前城跡の「本多忠勝誕生地」碑

 

初陣は桶狭間

「徳川四天王」にして「徳川三傑」の一人。

本多平八郎忠勝の父は、松平家臣・本多平八郎忠高である。
母は小夜(植村氏義の娘)で、忠勝は二人の長男(幼名は「鍋之助」)だった。

生誕は天文17年(1548年)2月8日。場所は西蔵前城。
愛知県岡崎市は西蔵前町峠の火打山にあった城で生まれている。

主君・徳川家康は、忠勝より5歳年上で、同じく「徳川四天王」の榊原康政は同年だ。

2歳の時、父・本多忠高が戦死したため、叔父である欠城主(かけじょうしゅ)・本多忠真を頼り、洞城(ほらじょう・岡崎市洞町)に母と住んだと伝わる。

初陣は永禄3年(1560年)の「大高城兵糧入れ」(名古屋市緑区大高町)である。
今川義元が織田信長に討たれた「桶狭間の戦い」の前哨戦となった作戦の一つで、松平元康(後の徳川家康)を支えて危険な任務を完遂。

翌年に「登屋ヶ根城攻め」で初首を獲ると、トレードマークの一つでもある「鹿角脇立兜」を制作。
三河の一向一揆では、同じくトレードマークにちなんで「蜻蛉切の平八郎」としてその名を馳せた。

 

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「三河の飛将」から「日本の張飛」へ

それからは文字通り八面六臂の大活躍だ。

軍事訓練で馬に乗る姿を見た領民には「三河の飛将」と崇められ、姉川の戦いでは怒涛の単騎駆けで「日本の張飛」と畏れられた。

詳細はエピソード編に譲るが「一言坂の戦い」をはじめ、その後の「長篠の戦い」や「高天神城の戦い(首級22)」など、最強に恥じぬ活躍で戦国の世を生き抜いていく。

結果、慶長5年(1600年)の「関ケ原の戦い」(岐阜県不破郡関ケ原町)までに生涯57回も戦い、

──武功、優れて多しと言へども、未だかつて傷を被る事無し。(『寛政重修諸家譜』)

として傷は1つも無かったとは驚くばかりだ。

一方、同じ四天王の一人にして最も若い井伊直政と比べるとその所領は小さく、天正18年(1590年)の徳川家康関東移封に伴った際は、上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)に10万石。

慶長6年(1601年)には、伊勢国桑名(三重県桑名市)10万石に移封されている。
桑名では「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業を断行し、「桑名藩創設の名君」として仰がれるほどだった。

徳川家康のイトコにして戦国一の暴れん坊・水野勝成も、福山藩主になった後は名君としての誉が高いが、忠勝も含めて、単なる馬力だけでは真に強い武将とはなれなかった証左かもしれない。

しかし……。
慶長8年(1603年)から眼病にかかり、慶長15年(1610年)、同病が原因で桑名城で病没。享年63。
法名は「西岸寺殿前中書長誉良信大居士」で、墓所は浄土寺(三重県桑名市)である。

子孫は、姫路藩主(兵庫県)、浜田藩主(島根県)などを経て、明和6年(1769年)岡崎藩主となり、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地・岡崎を治めた。

岡崎城

以降、本多忠勝のファイブエピソードへ!

 

エピソード1「装備」

本多忠勝の容姿については、一昨年(2016年)のNHK大河ドラマ『真田丸』の藤岡弘、さんや、昨年(2017年)のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の高嶋政宏さんのイメージが強いであろう。

一言で表せば「無骨」。
特徴的な鹿角の兜のみならず、肩から下げられた「金箔押の大数珠」は、いかにも堅強な武人というイメージだが、実際はどんな装備だったのか?

まずは「鹿角脇立兜」から見てみよう。

三河武士のやかた家康館にある本多忠勝の顔出し看板(館内は撮影禁止ですが、この顔出し看板と体験コーナーは撮影可能です)

 

◆兜「鹿角脇立兜」

和紙を貼り合わせ、黒漆が塗られた角が最大の特徴。

なぜ、鹿なのか?
次のようなエピソードが残されている。

初陣となった永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」。
その翌年秋、本多忠勝は、松平元康に命じられ、矢作川を越えて刈谷方面へ偵察に行くこととなった。

帰り道、渡河点が分からなくて困っていると、1匹の大きな牡鹿が現れ、川を渡り渡河点を教えて消える。
忠勝は、その鹿を八幡神の使いと信じ、伊賀八幡宮の神主・柴田因幡に「鹿の角をあしらった脇立の兜制作」を依頼した。

あるいはこんな話もある。

本多忠勝が、八幡神から鹿の角の兜を賜る夢を見たので、伊賀八幡宮へ行ってみた。
すると、神主・柴田因幡が護符を貼り重ねて作っている。

「何事か?」と事情を聞いてみれば、
「夢で、鹿の角を作るようにと八幡神に告げられたので、作っている」
と答えたので、それを貰い受けて兜に付けたという伝説も。

 

◆鎧「黒糸威胴丸具足」

忠勝が好んだのは、動きやすさを重視した身軽な「当世具足」だった。
重装備なのに傷だらけだった徳川四天王・井伊直政とよく対比される。

見た目イカつい金箔押の大数珠を肩から下げていたのは、倒した敵を弔うためと伝わる。

 

◆愛刀「稲剪(いなきり)の大刀」

雲州道水作とも、伯耆広慶作とも。
刃渡り三尺(約1m)で、稲を背負った者を、稲もろとも大袈裟で切り倒した事から「稲剪の大刀」と呼ばれる。
十代の頃は、肩から吊っていたと伝わる。

 

◆愛槍「蜻蛉切(とんぼきり)」

藤原正真作で「天下三名槍」の一つ。
柄の長さは1丈3尺(約4m)で、一説には柄の長さが2丈の物と2本あったとか。

 

◆愛馬 黒馬「三国黒」

「三国黒毛」ともいい、徳川秀忠から贈られた。
しかし「関ヶ原の戦い」における島津義弘軍の銃撃により死亡し、本多忠勝は落馬した。
このときも怪我は、していない。

 

◆馬具 鞍は「海無鞍」と呼ばれる形式の「牛人形鞍」

「関ヶ原の戦い」の時に「三国黒」につけていた鞍。
「三国黒」の忘れ形見として、家臣・原田弥之助が持ち帰ったと伝わる。
鐙は「一本杉鐙」。

 

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エピソード2「初首」

13歳の初陣は、さすがの忠勝も大活躍とはいかない。
敵(織田方)の武将・山崎多十郎に討ちとられそうになり、叔父であり育ての親でもある本多忠真(ただざね)に救ってもらっている。

ただし、14歳時の「登屋ヶ根城攻め」(愛知県豊川市長沢町)では、
原文「のち、かならず、物の用に立つべきものなり。」(『寛政重修諸家譜』)
意訳「将来、必ず、徳川家康公のお役に立てる大物になるでしょう」
と叔父・本多忠真に言わしめた逸話が残っている。

登屋ヶ根城(愛知県豊川市長沢町)

このときは、育て親の叔父・本多忠真が、なんとかして本多忠勝に敵兵の首をとらせようとして奮迅。

敵兵を倒し、
「この敵兵の首をとれ」
と言うと、本多忠勝は、
「我、あに人の力を借りて功を立てむや」
「他人の力を借りてまで戦功を立てたくはない」
と断り、自ら敵陣に駆け込んで、敵兵の首をあげた。

本多忠真は感涙し、
「のち、かならず、物の用に立つべきものなり」
と徳川家康に言上する。

この「登屋ヶ根城攻め」後、本多忠勝は「鹿角脇立兜」の制作を依頼。
さらには愛刀「稲剪りの大刀」、愛槍「蜻蛉切」を次々と手に入れ、16歳の時には「三河一向一揆」(注)鎮圧戦において、一向宗から浄土宗に改宗する。徳川家康側につき、多くの武功を挙げたのだ。

かくして「蜻蛉切の平八郎」と呼ばれるようになった。

※三河一向一揆:西三河(三河国西部地方)全域で永禄6年(1563年)9月から翌・永禄7年(1564年)2月までの約半年間行われた一向宗(浄土真宗)の門徒による一揆。

 

エピソード3「一言坂の戦い」

生涯無傷の本多忠勝。
最強武将と称えられる所以の要因であるが、それは全戦全勝を意味するものではない。

当然ながら敗戦も経験しており、同時にその名を轟かせたのが「一言坂の戦い」である。

林大功画「本多平八郎忠勝一言坂奮戦図」

忠勝25歳の時だった。

遠江に大軍を率いて侵攻してきた武田信玄
その偵察に出向いた忠勝は武田軍に見つかってしまい、図らずも「三方ヶ原の戦い」の前哨戦となってしまう。

危険な殿(しんがり)を務めた忠勝は、上の絵にもあるように、見付(静岡県磐田市見付)に火を放ち、武田軍の追撃を遅らせた。
そして一言観音を祀る「一言坂(ひとことざか)」で追いつかれて、戦いとなる。

この時のすさまじい戦いぶりをして、徳川家康は「平八郎(本多忠勝)が八幡神に見えた」と絶賛。

敵である武田軍の武将・小杉左近(武田信玄の近習)も、
──家康に過ぎたる者が二つ有り 唐の頭に本多平八
と書いた札を立てて褒め称えた。

続く「三方ヶ原の戦い」で徳川史上、最大となる敗戦を喫し、父と慕っていた叔父の本多忠真も討死。
退却の際、自ら殿を申し出ての悲劇であった。

忠真は、我が子として育てた忠勝の活躍ぶりを見て、
「自分の役目は終わった。ここが死に場所」
と思ったかものしれない。(※実子は出家している)

以下は、本多忠真の忠義を称えるために建てられた「表忠彰義之碑」である。
現地案内板からその内容をお伝えしよう。

「表忠彰義之碑」(犀が崖)

「この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年に建立されました。
本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠勝の叔父にあたる武将です。

本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿を買って出ました。
道の左右に旗指物を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬り込み、39歳をもってこの地で討ち死にしたと伝えられています。

忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し浜松城に無事退却しましたが、父の最後を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあと出家の道を歩むことになりました。
この碑には本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦で功績を残したことが記されています。

また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代家達公によって書かれています。」(現地案内板)

徳川に多くの忠臣を輩出した本多家であるが、この活躍がもっと世に広まることを願いたい。

 

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エピソード4「小牧・長久手の戦い」

時計の針を少し進めて、忠勝37歳。
この年、徳川家康(本陣:小牧山城)は、柴田勝家をも倒し気勢をいっそう増す羽柴秀吉(後の豊臣秀吉/本陣:楽田城)と、覇権の座を巡る合戦へと突入していった。

後に「小牧・長久手の戦い」と呼ばれる天下分け目の一戦である。

秘密部隊を組ませ、岡崎を狙う(三河中入り)秀吉。
作戦に気づき、長久手で襲いかからせた家康。

最初の大きな衝突「長久手の戦い」は、徳川四天王・井伊直政隊による「井伊の赤備え」が華々しいデビュー戦を飾る。
忠勝はこのとき、小牧山城で留守居役をしていた。

挽回を目論む羽柴秀吉は、次に小牧山城への攻撃を構想したところで
「徳川家康は小牧山城ではなく長久手にいて、秘密部隊の作戦は破れた」
と聞く。

しかし好機なり――。
秀吉は、2万の軍勢を率いて長久手へ軍勢を差し向けた。むろん家康本隊を叩くためである。

それを阻んだのが、手勢わずか500人の本多忠勝・決死隊だ。

羽柴秀吉の大軍と、龍泉寺川を挟んで対峙した本多忠勝。
寡兵とは思えぬ大胆な行動に出る。

悠然と馬に水を飲ませのだ。

即座に襲いかかればたとえ本多忠勝でも――とはならないのが天の邪鬼な秀吉のサガ。

忠勝の剛胆さに触れ、家臣に召し抱えたくなり、
「まことに無双の勇士なり」
と、配下の者たちに「戦うな」と命じた。

【原文】『寛政重修諸家譜』

太閤これをのぞみ、
「鹿角の兜を着し、馬に水かふものは何者なり」
ととふ。左右答へて、

「徳川家の将・本多忠勝なり」
とつぐ。太閤、其の大胆なるを感じ、
「まことに無双の勇士なり」
とて、麾下に令し、たゝかふことなからしむ。

イラスト/富永商太

その夜、羽柴秀吉は、龍泉寺に宿泊。
一報を掴んだ忠勝は、徳川家康に向かって進言した。

「羽柴秀吉の軍隊は、人数は多いが、まとまりに欠くので、今なら秀吉を討てる!」

しかし家康は「羽柴秀吉を侮ってはいけない」と忠告、夜の闇に紛れて密かに小牧山城へ戻ることにした。

翌朝、秀吉が家康に襲いかかるべく小幡城へ出向くと、もぬけの殻。
すでにその姿はなく「徳川家康とは、誠に恐ろしい人物だ」と言って、楽田城へ戻って守備を固めた。

「英雄、英雄を知る」と言う。天下人の両者は、互いにその力量を畏れていたのであろう。
結局、両者は決定的な武力衝突には至らず、この後、政治的駆け引きで織田信雄を丸め込んだ秀吉が天下の趨勢を握っていくことになる。

なお、豊臣秀吉は、本多忠勝を家臣にしようと思い、数々の豪勢なものを贈った。

・相州貞宗の腰刀
・藤原定家直筆「小倉山荘色紙」(小倉百人一首
・「義経四天王」佐藤忠信の兜
・従五位下
・中務大輔

要は調略を試みたのだが、実は、あの織田信長も「花実兼備の勇士」と讃え、忠勝を欲したことがある。
家康はこのとき「余人に代え難い」と断ったという。

 

イラスト・富永商太

秀吉の場合は、直接、本多忠勝に申し込み、
「秀吉の恩は恩。譜代の恩はさらに忘却し難し」
と断られていた。

味方は勿論、敵からも称えられ、三英傑に愛された本多忠勝──。
現代においても随一の人気武将となる理由が見えてこよう。

 

エピソード5「関ケ原の戦い」

徳川に欠かせぬ四天王の一人・忠勝。
若き日より家康の側を離れず、同家と共に歩んできた最強の武人も【関ヶ原の戦い】のときには齢53歳となっていた。

本多家の本隊2500人を率いるのは嫡男の本多忠政。
父・忠勝は軍監として、別働隊500人を率いて徳川本陣に参じていた。

徳川本陣の背後の山に、毛利軍が登る様子を見て、味方が
「山の上から襲ってくるのではないか」
と不安に思っていたところ、本多忠勝は次のように諭した。

「もうすぐ戦が始まる。山上に陣取っていたら、戦うために麓に降りてくるはずである。その今、山に登るということは、戦う気がないからだ」

軍監に選ばれるだけあって頭脳も観察眼も優れている――と周囲の味方は安心したのだが、いざ戦いが始まると、やはり恐ろしいほどの武勇を発揮する。

【原文】『寛政重修諸家譜』
毛利秀元が大軍、南宮山に登りて陣を張る。味方の士、これをうたがふものあり。忠勝、おもへらく、
「この敵、戦を欲せず。衆、かならず、心を労するなかれ」
と。人、其の故を問ふ。忠勝、こたへて、
「合戦已に近きにあり。かの敵、たゝかひを欲せば、たとひ山上にありとも、ふもとに下るべきを、いま高きにのぼるを見れば、これ、かならず、たたかひを欲せざるものなり」
といふ。衆人、忠勝が軍機を知ることを感ず。

わずか500人の手勢を率いた本多忠勝は、実に90余もの首級をあげたのだ。

ただし、この戦いでは愛馬・三国黒を亡くし、自身も落馬という思わぬ不手際も見せている。
これには敵も味方も、他ならぬ忠勝自身も驚いたようで、絵や文で記録に残した。

「本多平八郎忠勝公」像(岡崎公園)

関ケ原の戦いの翌年、徳川家康は、本多忠勝の所領を5万石増やして、10万石から15万石にしようかと打診。
忠勝はこれを辞し、次男・忠朝を分家にして大多喜5万石を与えると、自らは伊勢国桑名10万石の藩主に就任した。

桑名藩主となった忠勝は、すぐさま桑名城を修築、「慶長の町割り」と呼ばれる都市計画事業を断行する。
おかげでこの地は、東海道宿場・桑名の整備も進められた。

地元では「名君」と仰がれている。

剛胆な最強武将から一転。
その姿に崇敬の念を抱かぬ者はおらぬであろうが、同時に一抹の寂寥も漂ってくる。

57歳になった慶長8年(1603年)頃から忠勝は眼病を患い、江戸幕府の中枢から遠ざかって、慶長14年(1609年)6月に嫡男・忠政へ家督を譲って隠居。
翌・慶長15年(1610年)10月18日、桑名城で亡くなった。

 

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おまけエピソード

無傷の忠勝――と幾度も申し上げて来たが、実はこれは間違い。

正確には一つだけ傷がある。

戦傷(いくさきず)ではなく、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていた時、眼病故か、老齢故か、手元が狂って左手にかすり傷を負ってしまったのだ。

「本多忠勝も、傷を負ったら終わりだな」
と呟いた数日後に、忠勝は息を引き取った。

辞世「死にともな 嗚呼(ああ)死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」

「死にともな」は、「死にたくない」という意味である。
遺言の一説に「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ。」とあるので、この辞世は、「こんな場所で老いさらばえて死にたくない。戦場で(主君と共に)死にたい」という意味だと捉えられがちである。

が、個人的な意見を言わせていただくと、次のような心持ちだったのではなかろうか?

「主君・徳川家康は、まだ生きている。主君より先に死ぬのは不忠の極みである。まだまだ生き抜き【徳川家康が死んだ】と聞いて、殉死したい」

忠にして剛の武将。
忠勝は、「ただかつ」だけではない深みのある武将であった。

 

本多忠勝ゆかりの地ガイド

・西蔵前城址(愛知県岡崎市西蔵前町峠):生誕地

・欠城址(岡崎市欠町の東公園):叔父・本多忠真の居城

・洞城址(岡崎市洞町):母と暮らした城

・大高城址(名古屋市緑区大高町):初陣

・登屋ヶ根城(愛知県豊川市長沢町):初首

・本多忠勝屋敷推定地(浜松市中区田町。遠江分器稲荷神社の西隣):標柱のみ

・万喜城址(千葉県いすみ市万木):居城①

・大多喜城址(千葉県夷隅郡大多喜町):居城②

・桑名城址(九華公園。銅像。三重県桑名市吉之丸):居城③

・浄土寺(三重県桑名市清水町):菩提寺

・忠勝公園と金澤山良玄寺(千葉県夷隅郡大多喜町):分骨

 

忠勝と家康に縁の龍城神社

岡崎城天守、龍城神社とその御朱印

忠勝系本多家宗家11代忠粛は、明和6年(1769年)11月18日に三河岡崎藩初代藩主となって岡崎城に入る。
以降、本多忠勝の子孫である12代忠典、13代忠顕、14代忠考、15代忠民が岡崎藩主を務め、16代忠直の時に明治維新を迎えた。

明和6年、本多忠粛が岡崎藩主になると、東照宮(ご祭神:東照大権現=徳川家康)を三の丸に遷座し、本丸に映世神社(ご祭神:映世大明神=本多忠勝)を創建。
明治9年(1876年)、東照宮を合祀して龍城(たつき)神社となる。

龍城神社授与品「必勝絵馬」と『本多平八郎忠勝傳』

龍城神社のご祭神である本多忠勝は、「57回戦って傷一つなし」という実績から、「勝負の神」「必勝の神」とされている。
参戦した「三方ヶ原の戦い」のように負け戦はあり、「不敗の軍神」というより、「無傷の軍神」。

運悪く交通事故に遭っても、本多忠勝のお守りを持っていれば、奇跡的に無傷……?

 

【本多忠勝略年表】※年齢は数え年

天文17年(1548年)1歳 西蔵前城(愛知県岡崎市)で誕生
天文18年(1549年)2歳 父・本多忠高、戦死
天文19年(1550年)3歳
天文20年(1551年)4歳
天文21年(1552年)5歳 植村氏明(母の兄)、戦死
天文22年(1553年)6歳 長槍の稽古開始
天文23年(1554年)7歳
弘治元年(1555年)8歳 『孫子』学習開始(講師:妙源寺の慶泉和尚)。乙女と知り合う。
弘治2年(1556年)9歳 『孫子』学習終了
弘治3年(1557年)10歳 竹千代の7人目の側小姓として駿府へ
永禄元年(1558年) 11歳
永禄2年(1559年) 12歳 立春に元服。平八郎忠勝に改名。
永禄3年(1560年) 13歳 初陣(「桶狭間の戦い」直前の大高城への兵糧入れ)
永禄4年(1561年) 14歳 初首(「登屋ヶ根城攻め」)。「鹿角脇立兜」制作。
永禄5年(1562年) 15歳 「稲剪りの大刀」入手
永禄6年(1563年) 16歳 三河一向一揆。「蜻蛉切の平八郎」と名を馳せる。
永禄7年(1564年) 17歳 「吉田城攻め」で蜂屋半之丞と一番槍争い。「本多が三度返しの槍」。
永禄8年(1565年) 18歳
永禄9年(1566年) 19歳 36000石の旗本に昇格。側室・乙女と同棲開始。
永禄10年(1567年) 20歳 軍事訓練で颯爽と馬を駆る本多忠勝を見た領民に「三河の飛将」と呼ばれる。
永禄11年(1568年) 21歳 徳川家康の遠州侵攻に伴い、各地で武勲をあげる。
永禄12年(1569年) 22歳 10月、正室・於久(阿知和玄鉄の娘)と結婚
元亀元年(1570年) 23歳 姉川の戦い。「姉川の単騎駆け」で「日本の張飛」と賞される。
元亀2年(1571年) 24歳
元亀3年(1572年) 25歳 「一言坂の戦い」(「家康にすぎたるもの」と賞される。)、「三方ヶ原の戦い」。
天正元年(1573年) 26歳
天正2年(1574年) 27歳
天正3年(1575年) 28歳 長男・忠政誕生。「長篠の戦い」(軍奉行。小栗を使って武田軍に突撃させる)
天正4年(1576年) 29歳
天正5年(1577年) 30歳
天正6年(1578年) 31歳
天正7年(1579年) 32歳
天正8年(1580年) 33歳
天正9年(1581年) 34歳 「高天神城攻め」(首級22)
天正10年(1582年) 35歳 「神君伊賀越え」。次男・忠朝誕生。
天正11年(1583年) 36歳
天正12年(1584年) 37歳 「小牧・長久手の戦い」
天正13年(1585年) 38歳
天正14年(1586年) 39歳 秀吉より貞宗の腰刀と藤原定家直筆「小倉山荘色紙」を拝領。
天正15年(1587年) 40歳
天正16年(1588年) 41歳 従五位下中務大輔叙任
天正17年(1589年) 42歳
天正18年(1590年) 43歳 「小田原城攻め」。関東移封(上総国大多喜10万石)。
天正19年(1591年) 44歳
天正20年(1592年) 45歳 12/8文禄に改元
文禄2年(1593年) 46歳
文禄3年(1594年) 47歳
文禄4年(1595年) 48歳
慶長元年(1596年) 49歳 初孫・忠刻誕生
慶長2年(1597年) 50歳 領内検地
慶長3年(1598年) 51歳
慶長4年(1599年) 52歳
慶長5年(1600年) 53歳 「関ケ原の戦い」(軍監)
慶長6年(1601年) 54歳 伊勢国・桑名10万石へ移封。「慶長の町割り」開始。
慶長7年(1602年) 55歳
慶長8年(1603年) 56歳 眼病を患う。徳川家康の征夷大将軍叙任に供奉。
慶長9年(1604年) 57歳 隠居を申し出るが、却下される。
慶長10年(1605年) 58歳
慶長11年(1606年) 59歳
慶長12年(1607年) 60歳
慶長13年(1608年) 61歳
慶長14年(1609年) 62歳 長男・本多忠政に家督を相続して隠居
慶長15年(1610年) 63歳 桑名城で没。法名「西岸院殿長誉良信大居士」。




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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。本サイトで「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 




注目 西郷が沖永良部島で
出会った川口雪篷とは


1位 甲斐源氏の重責とは?
武田信玄53年の生涯


2位 ついに登場!
坂本龍馬の生涯マトメ


3位 漫画『アンゴルモア』で
盛り上がる元寇のすべて!


4位 この人こそが幕末王!?
天才・吉田松陰


5位 意外と知らない
源義経の生涯ストーリー


6位 史上最強の出世人だが
最期は切ない豊臣秀吉


7位 ゴツイケメンな幕臣
山岡鉄舟の信念


8位 藤原道長
出世の見込みなかった62年の生涯


9位 大政奉還から戊辰戦争
までのドタバタを分かりやすく!


10位 軍師の枠を超えていた!?
黒田官兵衛、真の実力


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