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【『べらぼう』感想あらすじレビュー第25回三人の女】
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ていは系図と置き手紙を残して消えた
自分にできることを確かめるように、丁寧に系図作りを進めてゆくてい。
こうして見ていくと、平安時代の『光る君へ』とは筆跡がかなり違ってきていることがわかります。
現代の書道は江戸期以降のこうした書き方を元にしております。
『光る君へ』は「かな書道」です。
こういう楷書も当時の女性の場合、実は習得者が多くありません。吉原の瀬川や誰袖の書状と比較するとよくわかると思います。ていは筆跡も唐様(からよう・中国風)のようですね。
歌麿も挿絵を熱心に描いています。その絵を見て、蔦重は「どこを見てもめでてえ」と満足そうだ。
「お前のおかげだよ。お前がいなけりゃこんなのできなかった」
「なんでもかんでも言うこと聞く奴は、俺しかいねえからな」
「出てくか?」
「……俺、いないと困りそうだからいてやるよ」
「頼むぜ兄弟〜!」
そう抱き寄せる蔦重。この歌麿の満足げな顔のこと。そこへつよがやってきて、おていちゃんがいないと慌てながら、置き手紙を差し出してきました。
この手紙もジェンダーでいうと男、かな混じりの文体ですが、いわゆる「候文」です。
漢文の書き下し調であり、ガチガチにお堅いってことですな。現代ならばていは、常にフォントが明朝体、絵文字なしってところか。
手紙の中身は約束した系図を仕上げたということ、そのうえで蔦屋の繁盛を願うものでした。
できあがった系図を目にする蔦重と歌麿。歌麿はどこか悲痛な表情をしています。
蔦重も異変を察知し立ち上がり、外へ向かってゆくのでした。
ていは寺への道を歩いていました。
やっとのことで追いつく蔦重。
蔦重は部屋のことが不服だと察して、客用の部屋に移ると言います。母には、いびきがうるさいからという言い訳まで用意していました。
蔦重は生まれか、育ちか、相手のことを想像して解決策まで考えておくことが身に沁みついているようです。
しかし、ていはこうきました。
「江戸一の利者の妻は、私ではつとまらぬと存じます。私は石頭のつまらぬ女です。母上様のような客あしらいもできず、歌さんや集まる方たちのような才があるわけでもなく、できるのは帳簿をつけることくらい。今をときめく作者や絵師や狂歌師、更にはご立派なお武家様まで集まる蔦屋にございます。そこの女将はもっと華やかで才長けた……例えば、吉原一の花魁を張れるような、そういうお方が相応しいと存じます。どうぞお許しくださいませ」
そう静かに頭を下げ、毅然とした態度で山門へ足を向けます。
おていさんこそ、江戸一の利者が選んだ女房だ
「そりゃ随分な言いぐさですね。あんたは江戸一の利者だ。けどてめえの女房の目利きだけはしくじった。おていさんはそう言ってんですよね」
「私は、あくまで己で己を顧み……」
「俺ゃおていさんのことつまんねえと思ったことねえですぜ。説教めいた話は面白えし、あっ、唐朱公のように生きろって、この人まともな顔してめちゃくちゃ面白えって思いましたぜ。縁の下の力持ちなとこも好きでさね。皆のいねえところで掃除してたり、皆のために系図作ろうとか。背筋がピンとしてるとこも。けどんなのは細けえことで……“出会っちまった”って思ったんでさ。俺と同じ考えで、同じつらさを味わってきた人がいたって。この人なら、この先山があっても、谷があっても、一緒に歩いてくれんじゃねえか。いや。一緒に歩きてえって。おていさんは、俺が俺のためだけに目利きした、俺のたった一人の女房でさ」
そう笑みを浮かべつつ、蔦重が語りかけているのに、ていは唖然とした顔のまま。思ったことが顔に出にくいのでしょう。
どう反応してよいかわからぬていに、そっと蔦重は手を差し出します。
これが正解ですね。
ていは一気に距離を縮められると考えるまでもなくビクッとしてしまいそうなので、そっとアプローチするのが良さそう。なんだかんだで最高の相性じゃねえか。
その夜、蔦重とていは一つの布団で共に眠るのでした。
隣の部屋では、歌麿が一人、苦い笑みをかすかに浮かべてこう言います。
「よかったな、蔦重……よかった」
目には光るものが見え、何かが終わったような悲しみがたたえられています。
歌麿の絵がクローズアップされると、男の顔に女の乳房がついているような、どこか不思議な絵に見えます。右下には「歌麿画」とありました。
生まれ変わるなら女になりたい
翌朝、蔦重もその絵を目にしています。
しかし、「歌麿門人千代女画」に変わっている。
「いかにも売れてる感じでめでたくねえ? 俺に弟子がいるってよ」
蔦重は納得しつつも、なぜ女名なのかと問いかけます。
「生まれ変わるなら女がいいからサ」
そう軽く言う歌麿は一体何を思うのか。
「喜多川千代女」は謎の存在です。ドラマのガイドにも掲載されております。
歌麿の女弟子なのか? それとも別名義なのか? 諸説ありますが、本作はこんな哀切な別名義説を採用しました。
いくらなんでもこんな悲しい使い方をしなくてもいいじゃねえか……こんなのありなのかよ。
そう悲しくなったところで、さらに辛いことを書いておきやしょう。嫌な人はすっ飛ばしてくだせえ。
喜多川歌麿の妻・きよとして藤間爽子さんが発表されました。
歌も女房もらうのか、よかったな! と、思われるでしょうか。
実は歌麿の妻は諸説あってハッキリしません。比較的確かなものとされているのが、曲亭馬琴の記述です。
あれだけの売れっ子絵師でありながら、失意の中、一人でひっそりと亡くなった。妻もなければ子もなく、その慰霊をする者もいない有様だ――そんな最期を記録しているのです。
一時妻帯したにせよ、死ぬ時は一人であったということです。
墓すらなく、ずっと後世になってから偶然発見されたのですから、なんとも寂しい最期です。蔦重よりも孤独な境遇です。
弟子にしても、いないわけではない。しかし、大勢集めて一大流派を築き上げたというわけではありません。
歌麿は孤独な絵師に思えてきます。
そうした史実の要素を全て蔦重への思いへと繋げてゆくのが、このドラマになるのでしょう。
あーしはもう、平常心で歌麿の作品を見られなくなりそうで戦慄しておりやす。どうしてくれんだよ!
現時点で辛いのに、この先蔦重はこう言い出すわけですよ。
「歌、悪ぃ、全く新しい役者絵は東洲斎写楽でいくって決めてんだ」
そんなもんおめえ、歌麿応援団と化した視聴者が、蔦重を簀巻きにして隅田川に叩き込みたくなるだろうがよ。
今後、東洲斎写楽への評価も変わってきそうです。
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