手鎖の写真

手鎖(てぐさり)/wikipediaより引用

べらぼう感想あらすじ べらぼう

京伝が喰らった「手鎖五十日」実際何をしたらこの刑罰か?江戸時代の事例を確認

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
手鎖の基本と事例
をクリックお願いします。

 


事例1 夫の遺体を黙って埋葬

文化9年(1812年)、摂津国の西之宮東町にて。

“もん”という女性の夫・平六が溺死したが、正式に届けを出すと葬式の出費もかさむし面倒だ……ということで、彼女は自分で地面に穴を掘り、夫の遺骸を土中に埋葬した。

後にこれがバレ、「手鎖三十日」とされた。

 


事例2 密通で駆け落ち失敗

文化元年(1804年)、駿河国の藤枝宿にて。

源蔵という男が“とよ”という女と暮らしていた。

二人は結婚をしておらず密通の関係となり、とよが子供を宿して駆け落ちするも、

連れ戻されて失敗。

後日、あらためて駆け落ちを試みるが、あえなく再び捕まり、源蔵は「手鎖(日数は不明)」で、とよには「急度叱(きっとしかり・奉行や代官などからきつく叱られること)」の罰が下された。

 


事例3 博打に使ってしまったが

文化4年(1807年)、飛騨高山の三之町村にて。

お寺修復のため無尽の取り立てを頼まれた権右衛門が、集めたカネで勝手に陰富(かげとみ・違法なクジ)に興じてしまう。

しかし、それで増えたカネを懐に入れるのではなく、そのまま寄付したので、通常は「手鎖三十日」になるところを免じられた。

 

事例4 女たらしの作兵衛は

享和3年(1803年)、日光の都賀郡今市宿にて。

女たらしの作兵衛は、楡木宿(にれきしゅく)の下女・きよを自分の女としていたが、なかなかの美人だったので売春させて稼ぐことにした。

きよは、宿の客にひっぱりだこで荒稼ぎ。

しかし程なくして発覚し、作兵衛は罰金の上「手鎖百日」とされた。

なお、この作兵衛は宇都宮でも飯盛女・なかを使って同じ行為を繰り返し、発覚後、財産没収の上に江戸構いで日光御領から追放とされている。

 


事例5 夫と赤ん坊が病気で不憫な妻が

三田功運寺門前(みたこううんじもんぜん・現在の港区三田四丁目)にて。

平吉の妻・つるは、夫が病気で収入がなく、赤ん坊も疱瘡を患い、薬代やら看病などで非常に苦しい経済状況だった。

内職だけではどうしても暮らしていけない。

そこで知人に相談し、身体を売ることにしたが、そのカネもほとんど薬代に消えてしまう。

ついには売春行為も発覚し、「手鎖五十日」が科せられた。夫の平吉も罰金と「手鎖三十日」となった。

 

事例6 渡船場で溺死させ

寛政10年(1798年)、越後国頸城郡(くびきぐん)にて。

激しい風雨の中、渡し守(わたしもり・船頭さん)もいないのに、無断で渡船場から船を漕ぎ出した農民の祐助(と他2名)は、同乗していた弾左衛門を溺死させてしまう。

そして「手鎖五十日」に処せられた。

あわせて読みたい関連記事

山東京伝『堪忍袋緒〆善玉』
史実では2人の妻がいた山東京伝(北尾政演)吉原の遊女 菊園と玉の井とは?

続きを見る

山東京伝を描いた浮世絵
『べらぼう』古川雄大が演じる山東京伝は粋でモテモテの江戸っ子文人だった

続きを見る

『心学早染草』
善玉・悪玉の由来である山東京伝『心学早染草』は今読んでもニヤニヤしてまう

続きを見る


参考文献

TOPページへ


 

リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

BUSHOO!JAPAN

編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

-べらぼう感想あらすじ, べらぼう
-