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【手鎖の基本と事例】
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事例1 夫の遺体を黙って埋葬
文化9年(1812年)、摂津国の西之宮東町にて。
“もん”という女性の夫・平六が溺死したが、正式に届けを出すと葬式の出費もかさむし面倒だ……ということで、彼女は自分で地面に穴を掘り、夫の遺骸を土中に埋葬した。
後にこれがバレ、「手鎖三十日」とされた。
事例2 密通で駆け落ち失敗
文化元年(1804年)、駿河国の藤枝宿にて。
源蔵という男が“とよ”という女と暮らしていた。
二人は結婚をしておらず密通の関係となり、とよが子供を宿して駆け落ちするも、
連れ戻されて失敗。
後日、あらためて駆け落ちを試みるが、あえなく再び捕まり、源蔵は「手鎖(日数は不明)」で、とよには「急度叱(きっとしかり・奉行や代官などからきつく叱られること)」の罰が下された。
事例3 博打に使ってしまったが
文化4年(1807年)、飛騨高山の三之町村にて。
お寺修復のため無尽の取り立てを頼まれた権右衛門が、集めたカネで勝手に陰富(かげとみ・違法なクジ)に興じてしまう。
しかし、それで増えたカネを懐に入れるのではなく、そのまま寄付したので、通常は「手鎖三十日」になるところを免じられた。
事例4 女たらしの作兵衛は
享和3年(1803年)、日光の都賀郡今市宿にて。
女たらしの作兵衛は、楡木宿(にれきしゅく)の下女・きよを自分の女としていたが、なかなかの美人だったので売春させて稼ぐことにした。
きよは、宿の客にひっぱりだこで荒稼ぎ。
しかし程なくして発覚し、作兵衛は罰金の上「手鎖百日」とされた。
なお、この作兵衛は宇都宮でも飯盛女・なかを使って同じ行為を繰り返し、発覚後、財産没収の上に江戸構いで日光御領から追放とされている。
事例5 夫と赤ん坊が病気で不憫な妻が
三田功運寺門前(みたこううんじもんぜん・現在の港区三田四丁目)にて。
平吉の妻・つるは、夫が病気で収入がなく、赤ん坊も疱瘡を患い、薬代やら看病などで非常に苦しい経済状況だった。
内職だけではどうしても暮らしていけない。
そこで知人に相談し、身体を売ることにしたが、そのカネもほとんど薬代に消えてしまう。
ついには売春行為も発覚し、「手鎖五十日」が科せられた。夫の平吉も罰金と「手鎖三十日」となった。
事例6 渡船場で溺死させ
寛政10年(1798年)、越後国頸城郡(くびきぐん)にて。
激しい風雨の中、渡し守(わたしもり・船頭さん)もいないのに、無断で渡船場から船を漕ぎ出した農民の祐助(と他2名)は、同乗していた弾左衛門を溺死させてしまう。
そして「手鎖五十日」に処せられた。
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参考文献
- 大久保治男『江戸の刑罰 拷問大全(講談社+α文庫)』(講談社, 2008年5月22日, ISBN-13: 978-4062811972)
出版社: 講談社(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 平松義郎『江戸の罪と罰(平凡社ライブラリー 717)』(平凡社, 2010年12月, ISBN-13: 978-4582767179)
出版社: 平凡社(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎(PHP新書 1401)』(PHP研究所, 2024年7月17日, ISBN-13: 978-4569857404)
出版社: PHP研究所(公式商品ページ) |
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