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【『光る君へ』感想あらすじレビュー第31回「月の下で」】
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帝も、人であればこそ
道長は帝について語ります。
帝は美しいおのこであった。定子に夢中であった。
定子が入内したとき、帝はまだ幼く、よき遊び相手になった。帝はそれは定子のことを大事にした。亡き女院も喜んだものだった。
帝の愛はあまりに強かった。
道長も、それはどうしたらよいかわからぬほどであった。
そういうと、まひろはこう言います。
「帝もまた、人でおわすということですね」
まひろはそうまとめます。
かつて父も、道長も、思っていることとやっていることが一致していなかった。
まひろはそれが許せなかったものの、それが人だと亡き藤原宣孝に言われたそうです。
帝のご乱心も人であればこそ。道長の知らぬところで帝もお苦しみであっただろうとまとめています。
まひろは理詰めで人の心や情けをあえて見ないようなこともしてしまう。
見えないわけでなく、見ればきっちり観察できるけれど、時々すっ飛ばすと。
「それを表に出さないのも人ゆえか」
そう納得している道長。
「女も人ですのよ」
「ふっ、そのようなことはわかっておる」
ここでそうかわすまひろと道長。どうでしょうね。道長は倫子と明子の心情には鈍感ですから。
「人とはなんなのでございましょうか」
まひろはますます、哲学的な悩みに突っ込んできました。めんどくさい。
道長が、帝を語るつもりが我が家の恥を晒したと反省しています。
呆れただろうと問われ、まひろはこう返します。
「帝も道長様も、みなお苦しみなのですね」
悪くはないようで、なんだか仏僧の問答じみた返事に思えるのですが……。まひろはやはり、相当の変人なのでしょう。
月を見ながら思うこと
いつの間にか日が沈み、二人は月を見ています。
これまでの話が役に立てばよいと道長。
まひろは月を見て、「なぜ人は月を見上げるのか?」と言い出します。
「なぜであろうな」
そういう人類普遍的な話はさておき『源氏物語』の誕生と月には関わりがあります。
石山寺伝説というものがあります。
石山寺に参詣した紫式部が、湖に映る月を見ながら『源氏物語』の構想を練ったというもので、この伝説から『源氏物語』の注釈書には『湖月抄』があります。
このドラマでは石山寺が確かに重要な役割を果たしています。
一度目は藤原寧子(道綱母)との出会い。
二度目はまひろと道長の逢瀬。ここで娘の賢子を授かった設定です。
『源氏物語』の構想を寝るのはその石山寺ではなく藤原為時邸でしたが、月の設定は残してありますね。
まひろはさらに続けます。
かぐや姫は月に帰ったけれど、もしかしたら月にも人がいて、こちらを見ているやもしれぬ。それゆえこちらも見上げたくなるのかもしれない。
「相変わらずお前はおかしなことを申す」
「おかしきことこそめでたけれ、でございます。直秀はそう言っておりました」
「直秀も月におるやもしれぬな。誰かが……誰かが今俺が見ている月を一緒に見ていると願いながら、俺は月を見上げてきた。皆そういう思いで月を見上げているのやもしれぬな」
そう告げ、帰ってゆく道長です。
『光る君へ』直秀はなぜ検非違使に殺されたのか?遺体は無事に埋葬されたのか?
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こうして月が重要な要素となると、道長の有名な【望月の歌】もより印象が深まるのかもしれません。
もしも道長が公任のようなタイプならば、月を詠んでいるかもしれません。
しかし彼はあまり歌が得意でなかったとされております。数は残したものの、名人とは思われなかったとか。
清少納言の夫であった橘則光は和歌が大嫌いで、詠むことすら拒み、
「いいか、俺に和歌を読むなよ、読むなよ、絶対だぞ!」
とダメ押しして、そこもまた呆れられていたようですが。
まひろは執筆モードに入り、無愛想さがますます際立っています。
為時も、いとも、彼女を放置。
まひろの頭の中では、色とりどりの美しい紙が舞い落ちてきます。
このドラマの和紙は、手漉きの紙らしい質感があり、かつ日本の伝統色を再現していて、見ていて実に美しい。眼福です。
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