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【『光る君へ』感想あらすじレビュー第42回「川辺の誓い」】
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天に二日なく、地に二王なし
道長のもとに、いつもの面々である藤原公任、源俊賢、藤原斉信、藤原行成が集まっています。
「なされたい放題だ」とぼやく斉信に続き、俊賢が、立后に中宮の内裏参入をぶつけ、帝と左大臣、どちらにつくか選ばせてはどうかと提案します。
公任は公卿の考えることがはっきりと見えると評しますが、行成は「そうまでして皆の心を試さなくてもよろしいのでは?」と戸惑っています。
しかし道長は俊賢に、公卿への根回しを依頼するのでした。
されど帝もしたたかです。同じ日でも時間帯をずらすことにしたのです。
内裏参入は夜。立后は昼。どちらも参加できる。通任もこれには賛同するのでした。
しかし、時刻をずらしたにも関わらず、道長に遠慮して、公卿の多くは立后の儀式に参加しなかったのです。
うろたえる帝。右大臣も内大臣も来ないとなれば、上卿(しょうけい)を務めるものすらおりません。
するとそこへ大納言の実資がやってきます。
「おお、実資!」
立后の上卿を務めるよう頼み込む帝。
有職故実の知識がスキルとしては役立つものの、自分の身分でそれはありかと戸惑う実資。「これでは立后ができぬ」と帝に頼まれて、やっと承知しました。
「天に二日なく、地に二王なし」
天に太陽は二つない。地に君主は二人いない。
ここでそう語る実資は、本当に素晴らしい心がけですね。
実資にとっては帝と左大臣を天秤にかけることそのものがおかしい。主君は帝のみなのです。
清廉潔白で、教養があり、能力も高い。藤原実資は、見ればみるほど惚れ惚れとしてしまいます。なのになぜ、彼が大納言どまりなのか?
科挙のある宋ならば、間違いなくトップクラスの政治家でしょうに……悲しくなってきます。
実資のおかげでなんとか立后はできたものの、空席が目立つ宴。欠席者の分は膳を下げようか?と女房が言い出すと、資平は「そのままでよい」と返すのでした。あまりに陰湿なやり口です。
一方で、中宮の内裏参入は大盛り上がりとなりました。
宴では斉信が存分に食べるようにと促し、「あなたが言うことではない」と行成が返すと、さらに斉信が「と、道長が思っている」と付け加えます。
しかし、その道長は顔色が悪い。そう指摘されて言葉を濁していますが、さてどうなのでしょうか。
実資は、実資の道をゆく
藤原実資は自宅で、幼い娘の千古をあやしています。
この姫君は歴史上大変重要な存在意義があります。
当時の女性名は官位をもらう際につけるような「子」のつくものしか残らないもの。
それが彼女の場合、筆まめな父のおかげで親がつけた「千古」が残されました。この名付け方が『光る君へ』にも反映されており、まひろ、ききょう、あかねといった女性名が採用されているのだとか。
そんな実資のもとに、資平が帝からの言葉を伝えにきます。
千古と彼女の母である百乃を遠ざける実資。
何事か?と思えば、なんでも左大臣の好きにさせぬため、実資を相談役にしたいとのこと。
しかし実資は、立后はいきがかり上のことであり、私は私だ、どちらにもつかぬと、と取り込まれることを拒否します。
資平は惜しんでおりますが、「浮かれるな!」と実資はビシッと言い切る。
なんとも印象的な場面です。
実資が娘の千古を可愛がる姿が微笑ましいですね。
この千古を実資はそれはもう可愛がりました。実資はこの娘を「かぐや姫」にたとえるほど熱愛しておりました。そこまで愛した理由として、実資本人の愛情深さもあります。
それだけでなく、彼は妻子を失うことが多かったのです。もしも実資に成人する姫がいて、入内していたら、道長の栄光もなかったかもしれません。
千古も、長くは生きられません。驚異的な長寿であった父に先立ってしまいます。
娘を溺愛していた実資は千古に資産を残しましたが、婿のもとへ渡ってしまい、小野宮流は経済的基盤を失って、院政期に没落することとなります。
千古については繁田信一先生の『かぐや姫の結婚』に詳しく書かれております。おすすめです。
実資と千古はなんとも悲しい話となります。
そもそもが姫を成人させ、入内させることと出世が結びつきすぎたシステムがおかしいと思います。実力ではなく運が重要ではないですか。
ドラマも最終盤に突入し、摂関政治の欠陥が実によくわかるようになってきました。
そのうえで、実資はやはり、ものが違うと思います。彼はタフです。
肉体的にも健康マニアで気遣っていたのでしょうが、精神がともかく強い。
それはなぜか?
生来の性格もあるのでしょうが、ゆるぎない正義感だと思います。
「私は私」と言い切り、どちらにもつかない。彼の中で至高の存在は、己自身の正義と学識です。だからぶれない、揺るがない。
そのせいで損はします。息子の資平が惜しんだように、権力者に取り入ることは出世のチャンスでもあります。
しかし、それは彼の正義に反するから気安く応じない。常に自分自身の判断基準があると揺らがないなら、精神を強く保てる。
道綱のように、そもそも芯がないか。実資のように、揺るぎない芯があるか。どちらかが精神を消耗させないコツなのか?と考えてしまいます。
実資は実に立派です。実資の姿を一年を通して見られることがこんなにも素晴らしいとは思いませんでした。
やはり大河ドラマはさまざまな時代を扱うべきだと思えます。新たな出会いや発見があることは本当にすばらしく歴史を学ぶ意義を感じます。
そんな実資を演じるロバート秋山さんは何と言えばよいのか。このドラマを毎回見ていると言う方が、
「あの実資を演じるロバート秋山がさ!」
と、絶句してその後を続けれなくなって悶絶していました。私も同感です。もう、彼を褒めるには語彙力が追いつきません。
帝に翻弄される道長
道長は帝と向き合い「立后も終えたからには藤壺に渡るべきだ」と釘を指します。
しかし帝はしれっと応える。
「渡っているけれども、中宮は宴をしていて若い男に囲まれて、朕のような年寄りが入り込む隙がない」
「中宮が宴をなさるのは、お上がお渡りにならない、寂しいからでしょう」
「そのようには見えぬが、これからはそのように思ってみよう」
道長の言葉は苦しい、答えになっていない。もしも妍子が寂しさを感じているのなら、渡ってきた帝に愛着を示すのでは?
どうにも道長は声が弱々しく、目もうつろで、体調が悪いと伝わってきます。精力が溢れている帝に負けるのも無理はないところです。
さらに帝は、比叡山で石を投げられたことを持ち出します。
なんでも顕信の受戒を見に行こうと馬に乗ったまま入ろうとして、怒らせてしまったそうです。
帝は、石が飛んできただけで祟りがあるらしいと、扇で口元を隠しつつ、そう言います。笑ってしまっているのでしょうか。
口は悪いけれど、帝の扇の使い方が実に美しい。悪戯っぽい目、一条天皇の柳の葉のような眉とは違う、太く濃い眉。食えない魅力があふれています。
一条天皇が白梅だとすれば、同じ白い花でも百合のような濃い香と迫力があります。木村達成さんにぴったりですね。
結局、帝は中宮のもとに渡りません。
中宮は若い男と戯れ、酒を飲んでいます。
ここはジェンダー観点からしても極めて挑発的といえる場面です。
「男の権力者は女を侍らせるのに、女はどうしてそれができないの?」
少数とはいえ、こう挑発的に突きつける人物は時折歴史の中に顔を見せます。
中国の武則天。ロシアのエカテリーナ2世がそうした少数の例でしょう。
実行に移してしまうと、とてつもない悪女と烙印を押されてしまいます。
けれども悪いのは彼女たちだけなの? そう問いかけることで見えてくるものもあります。
酒と色に溺れる中宮は、何かこちらに挑むようなものがある。演じる倉沢杏菜さんには、常にこちらをからかうような笑みが唇に浮かんでいて目が離せません。
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