息子の藤原顕信を出家させてしまった母の源明子が、道長に向かって「返せ! 返せ!」と掴みかかり、そのまま倒れてしまいます。
そんな父母の姿をみて、頼宗は困惑しているのでした。
顕信の出家に動揺する道長の家族たち
顕信の異母姉である彰子は、弟たちから知らせを聞き、驚いています。
なんとも残酷なのが、源倫子を母に持つ藤原教通が「蔵人頭になれなかったくらいでやりすぎだ」と苦笑を浮かべていることでしょう。
母の血筋で差をつけられ、「ここを逃せばもう芽が出ない」と焦る異母弟の気持ちを、彼は理解できていないのかもしれません。
そんな弟に対し、兄の藤原頼通は「父も傷ついている」と気遣っています。
まひろは、二人のやりとりをじっと聞いているばかりです。
死んだように眠る妹の明子を兄の源俊賢が見舞いにやってきました。
虚な目を上に向け、涙が一筋こぼれる明子。魂が抜けてしまったように思えます。
俊賢はそっと妹のそばに歩み寄り、静かに腰を下ろします。
演じる本田大輔さんの所作の美しさや風雅ぶりは、まさしく平安貴族そのものに見えます。この兄と妹は雅で美しく、白檀の香りがふと鼻先を漂っていきそうなほど。
俊賢は顕信のことを残念がりつつ「内裏の力争いから逃れて心穏やかになったかもしれない」と励まします。まさに権力の中枢にいる俊賢自身も相当ストレスが溜まっていそうですね。
「比叡山は寒いでしょう。身ひとつで行ったゆえ、こ、凍えてはおらぬであろうか。兄上……」
明子がか細い声でやっとそう言い、我が子に暖かい衣をたくさん届けるように頼み込むのでした。
俊賢から聞いたのか。道長が暖かい衣をたくさん用意し、百舌彦に託します。
これは感動的な場面でしょうか?
しかし、堕落の象徴でもあると思えます。
振り返ってみれば、一条天皇は、敢えて身寒い衣をにつけ、民の心を感じたいと彰子に語っていました。彼女がそんな様子を見たら、ため息をつきそうな話です。
そもそもなぜ、僧侶は墨染の衣を見に纏うのか?
粗衣で耐え忍び、修行に励むためです。それがヌクヌクしては何のための出家なのか。
不健全な平安貴族
平安仏教とは、結局のところ“上流貴族の楽隠居ルート”扱いになってゆきます。
『源氏物語』でも登場人物たちは、男女問わず何か辛いことがあるとすぐ「出家したい」と言いだします。長年の願いとして出家があげられることもあります。
そんな逃避先が本気で辛いものであったら、困るわけです。
あたたかい服を着て、豪華な仏具仏像に囲まれて、高いお香を焚いて暮らす姿はちょっとしたセレブライフですね。
しかし、それでよいのでしょうか?
民衆救済をそっちのけに己の心の安寧、一族の繁栄、来世の幸福を追い求められても、何か違うのではないかと疑念を抱かれても仕方ありません。
これでは本来の道から外れている――そう考えた僧侶たちが新天地・鎌倉へ向かい、鎌倉仏教を発展させることになります。その甲斐あり、仏教は鎌倉時代に庶民にまで広まってゆくのです。
一方で、鎌倉時代といえば、武士の世です。
その到来の芽となる武者が『光る君へ』でも存在感を強めていますね。そう、双寿丸です。
彼から見れば、比叡山でボンボンが寒がるなんて話は「大袈裟すぎじゃねえの?」と呆れられることでしょう。
『源氏物語』を読み返すと、登場人物が突っ伏したり、寄りかかったり、もたれかかる場面がやたらと多い。
衣装が重いというのもあるけれど、ともかく普段の生活に問題があって、根本的に虚弱なんでしょう。運動量も栄養素も不足しています。
この虚弱ぶりは、『源氏物語』だけでなく今回の展開をも貫く要素でもあります。
そりゃこれだけ弱かったら、イキイキ健康的な武者にとって代わられることもやむなしと思えてきます。貴族は、筋トレなんてしませんからね。
帝は愛する妻を守ろうとする
帝は道長の子である妍子を中宮にすると宣言しました。
道長は「ありがたき幸せ」と承っています。
これに伴い、彰子は皇太后となります。中宮大夫は道綱。権大夫は教通とするとのこと。
道長一族が任命されるのですが、話はこれだけでは終わりません。
一ヶ月後、帝はこう宣言します。娍子を皇后にするのだと。
道長が強引に進めた「一帝二后」という前例を悪用されました。
大納言の息女が皇后になった例はないと道長が反論しても、帝は一枚上手。もしもこれが許されないのであれば、妍子のもとに渡らぬと宣言します。
そうなれば子もできない。それでよいのかと問われてしまう。いわば未来の皇子を盾に取った策でした。
道長は帝の術中にかかりますが、先帝とちがって策を練ってくるとなれば、それもそうなるでしょう。
道長は運はよいけれど、策士としてはそこまで上等でもないように思えてきます。
帝だって、愛する妻を守ろうと努力を重ねています。帝にとって娍子は紫の上、妍子は女三宮のようなものでしょう。
天に二日なく、地に二王なし
道長のもとに、いつもの面々である藤原公任、源俊賢、藤原斉信、藤原行成が集まっています。
「なされたい放題だ」とぼやく斉信に続き、俊賢が、立后に中宮の内裏参入をぶつけ、帝と左大臣、どちらにつくか選ばせてはどうかと提案します。
公任は公卿の考えることがはっきりと見えると評しますが、行成は「そうまでして皆の心を試さなくてもよろしいのでは?」と戸惑っています。
しかし道長は俊賢に、公卿への根回しを依頼するのでした。
されど帝もしたたかです。同じ日でも時間帯をずらすことにしたのです。
内裏参入は夜。立后は昼。どちらも参加できる。通任もこれには賛同するのでした。
しかし、時刻をずらしたにも関わらず、道長に遠慮して、公卿の多くは立后の儀式に参加しなかったのです。
うろたえる帝。右大臣も内大臣も来ないとなれば、上卿(しょうけい)を務めるものすらおりません。
するとそこへ大納言の実資がやってきます。
「おお、実資!」
立后の上卿を務めるよう頼み込む帝。
有職故実の知識がスキルとしては役立つものの、自分の身分でそれはありかと戸惑う実資。「これでは立后ができぬ」と帝に頼まれて、やっと承知しました。
「天に二日なく、地に二王なし」
天に太陽は二つない。地に君主は二人いない。
ここでそう語る実資は、本当に素晴らしい心がけですね。
実資にとっては帝と左大臣を天秤にかけることそのものがおかしい。主君は帝のみなのです。
清廉潔白で、教養があり、能力も高い。藤原実資は、見ればみるほど惚れ惚れとしてしまいます。なのになぜ、彼が大納言どまりなのか?
科挙のある宋ならば、間違いなくトップクラスの政治家でしょうに……悲しくなってきます。
実資のおかげでなんとか立后はできたものの、空席が目立つ宴。欠席者の分は膳を下げようか?と女房が言い出すと、資平は「そのままでよい」と返すのでした。あまりに陰湿なやり口です。
一方で、中宮の内裏参入は大盛り上がりとなりました。
宴では斉信が存分に食べるようにと促し、「あなたが言うことではない」と行成が返すと、さらに斉信が「と、道長が思っている」と付け加えます。
しかし、その道長は顔色が悪い。そう指摘されて言葉を濁していますが、さてどうなのでしょうか。
実資は、実資の道をゆく
藤原実資は自宅で、幼い娘の千古をあやしています。
この姫君は歴史上大変重要な存在意義があります。
当時の女性名は官位をもらう際につけるような「子」のつくものしか残らないもの。
それが彼女の場合、筆まめな父のおかげで親がつけた「千古」が残されました。この名付け方が『光る君へ』にも反映されており、まひろ、ききょう、あかねといった女性名が採用されているのだとか。
そんな実資のもとに、資平が帝からの言葉を伝えにきます。
千古と彼女の母である百乃を遠ざける実資。
何事か?と思えば、なんでも左大臣の好きにさせぬため、実資を相談役にしたいとのこと。
しかし実資は、立后はいきがかり上のことであり、私は私だ、どちらにもつかぬと、と取り込まれることを拒否します。
資平は惜しんでおりますが、「浮かれるな!」と実資はビシッと言い切る。
なんとも印象的な場面です。
実資が娘の千古を可愛がる姿が微笑ましいですね。
この千古を実資はそれはもう可愛がりました。実資はこの娘を「かぐや姫」にたとえるほど熱愛しておりました。そこまで愛した理由として、実資本人の愛情深さもあります。
それだけでなく、彼は妻子を失うことが多かったのです。もしも実資に成人する姫がいて、入内していたら、道長の栄光もなかったかもしれません。
千古も、長くは生きられません。驚異的な長寿であった父に先立ってしまいます。
娘を溺愛していた実資は千古に資産を残しましたが、婿のもとへ渡ってしまい、小野宮流は経済的基盤を失って、院政期に没落することとなります。
千古については繁田信一先生の『かぐや姫の結婚』に詳しく書かれております。おすすめです。

繁田信一『かぐや姫の結婚』(→amazon)
実資と千古はなんとも悲しい話となります。
そもそもが姫を成人させ、入内させることと出世が結びつきすぎたシステムがおかしいと思います。実力ではなく運が重要ではないですか。
ドラマも最終盤に突入し、摂関政治の欠陥が実によくわかるようになってきました。
そのうえで、実資はやはり、ものが違うと思います。彼はタフです。
肉体的にも健康マニアで気遣っていたのでしょうが、精神がともかく強い。
それはなぜか?
生来の性格もあるのでしょうが、ゆるぎない正義感だと思います。
「私は私」と言い切り、どちらにもつかない。彼の中で至高の存在は、己自身の正義と学識です。だからぶれない、揺るがない。
そのせいで損はします。息子の資平が惜しんだように、権力者に取り入ることは出世のチャンスでもあります。
しかし、それは彼の正義に反するから気安く応じない。常に自分自身の判断基準があると揺らがないなら、精神を強く保てる。
道綱のように、そもそも芯がないか。実資のように、揺るぎない芯があるか。どちらかが精神を消耗させないコツなのか?と考えてしまいます。
実資は実に立派です。実資の姿を一年を通して見られることがこんなにも素晴らしいとは思いませんでした。
やはり大河ドラマはさまざまな時代を扱うべきだと思えます。新たな出会いや発見があることは本当にすばらしく歴史を学ぶ意義を感じます。
そんな実資を演じるロバート秋山さんは何と言えばよいのか。このドラマを毎回見ていると言う方が、
「あの実資を演じるロバート秋山がさ!」
と、絶句してその後を続けれなくなって悶絶していました。私も同感です。もう、彼を褒めるには語彙力が追いつきません。
帝に翻弄される道長
道長は帝と向き合い「立后も終えたからには藤壺に渡るべきだ」と釘を指します。
しかし帝はしれっと応える。
「渡っているけれども、中宮は宴をしていて若い男に囲まれて、朕のような年寄りが入り込む隙がない」
「中宮が宴をなさるのは、お上がお渡りにならない、寂しいからでしょう」
「そのようには見えぬが、これからはそのように思ってみよう」
道長の言葉は苦しい、答えになっていない。もしも妍子が寂しさを感じているのなら、渡ってきた帝に愛着を示すのでは?
どうにも道長は声が弱々しく、目もうつろで、体調が悪いと伝わってきます。精力が溢れている帝に負けるのも無理はないところです。
さらに帝は、比叡山で石を投げられたことを持ち出します。
なんでも顕信の受戒を見に行こうと馬に乗ったまま入ろうとして、怒らせてしまったそうです。
帝は、石が飛んできただけで祟りがあるらしいと、扇で口元を隠しつつ、そう言います。笑ってしまっているのでしょうか。
口は悪いけれど、帝の扇の使い方が実に美しい。悪戯っぽい目、一条天皇の柳の葉のような眉とは違う、太く濃い眉。食えない魅力があふれています。
一条天皇が白梅だとすれば、同じ白い花でも百合のような濃い香と迫力があります。木村達成さんにぴったりですね。
結局、帝は中宮のもとに渡りません。
中宮は若い男と戯れ、酒を飲んでいます。
ここはジェンダー観点からしても極めて挑発的といえる場面です。
「男の権力者は女を侍らせるのに、女はどうしてそれができないの?」
少数とはいえ、こう挑発的に突きつける人物は時折歴史の中に顔を見せます。
中国の武則天。ロシアのエカテリーナ2世がそうした少数の例でしょう。
実行に移してしまうと、とてつもない悪女と烙印を押されてしまいます。
けれども悪いのは彼女たちだけなの? そう問いかけることで見えてくるものもあります。
酒と色に溺れる中宮は、何かこちらに挑むようなものがある。演じる倉沢杏菜さんには、常にこちらをからかうような笑みが唇に浮かんでいて目が離せません。
『源氏の物語』も、もはや役に立たない
筆をとり、なめらかに紙の上を滑らせるように書き付けているまひろ。
そこへ道長がやってきます。
邪魔をしたと詫びる道長に、まひろは皇太后様に御用があるのかと返します。なんでも呼ばれたのだとか。
中宮妍子の宴三昧が話題にのぼり、悪評が皇太后の耳にも入ったようです。
帝が藤壺にお渡りにならないとこぼす道長。
先帝には『源氏物語』があったのに、妍子と帝の間には何もないと言い出します。
「『源氏の物語』も、もはや役には立たぬのだ」
言ってしまいましたね、この男は……。
まひろが、目を動かす顔がなんともおそろしい。
『鎌倉殿の13人』の世界観ならば血の雨が降りかねないと思いますが、幸いにもこの世界観はそこまで殺伐としておりません。
ちょっといたずらっぽい顔になって、まひろはスッキリしたように思えます。諸葛孔明の「お気づきになりましたか」と策について語り出す時の顔も思い出します。
確かに本作の執筆動機はそこです。まひろにだってそんなことはわかっていた。
ただ、道長が熱心な読者となって、物語に別の意味を見出すことを信じたかったのかもしれません。
物語は人の心を映すが、人は物語のようにはいかない
道長はもともと聡明でもない。
先例が当たったらまた持ち出す。まひろならこういうとき「守株待兎」という故事成語を思い出しているかみしれません。童謡の『待ちぼうけ』の元となった『韓非子』由来の故事成語です。
ある日農夫が畑仕事をしていると、兎が飛び出して株にぶつかりました。
そうか、株にぶつかる兎を待てば仕事をすることはないな!
そう農夫は待ち続けるものの、そんな偶然は二度となかったという話です。
一条天皇という兎は、とてつもなく教養豊かでした。
『枕草子』に夢中になったという要素もあって、あの作戦が効いたのです。しかし今の帝は違う。引き寄せようと思うなら、何か別の対策が必要でしょう。
そこで道長はまひろに助けを求めますが、まひろはどうしようもできないと言います。
物語を書けるほど聡明なのだから思いつかぬか?
そう道長は食い下がりますが、根本的に、相談相手を間違えていませんか?
彰子の時、藤壺を飾り付けていた仲間は妻の倫子でした。倫子は土御門の財産も所有しています。
そんな倫子が手を尽くしてもうまくいかないから、まひろを引っ張ってきたわけです。別の場面で倫子に相談済みなのかもしれませんけれども。
「物語は人の心を映しますが、人は物語のようにはいきませぬ」
まひろはそう返すばかり。道長もこう認めます。
「つまらぬことを言った」
ここの場面はよいカメラを使っていて、背景がまるで絵のように綺麗にぼやけています。
繊細なピアノの音楽が重なり、素晴らしい役者の顔と演技をさらに引き立てています。錦上添花とはまさにこのことですね。
そしてこの「守株待兎」は、光源氏にも通じる教訓といえます。
憧れの藤壺の宮の血縁にあたる若い女君を、光源氏は二度妻に迎えます。
一人目が紫の上。二人目が女三宮です。
紫の上は理想そのものに育て上げられたのに、女三宮はそうなりません。
幼稚で気が利かないと呆れ果てる光源氏。しかし、これは二人の資質のせいでしょうか?
確かにそう思えます。紫の上の幼いころは、歳の割に大人びていると何度も書かれます。女三宮はいくつになっても幼さが強調されています。
しかし、果たしてそうなのか。
紫の上を迎えたころは光源氏自身が若く、根気強く、幼い女君を教え導くだけの余裕も体力もありました。
一方で初老すぎてから女三宮を迎えると「もう今時の若者にはついていけませんなぁ」と投げ出してしまい、ともかく相手を見下し、小言ばかり吐いてしまう。紫の上と比較して、ため息ばかりついている。
そんな相手に心を開けるわけもなく、女三宮は光源氏が疎ましくなるばかりなのです。悪循環です。
自身の老いに無自覚で、思い上がって、若い女を求めた邪心が破滅の原因ではありませんか。
鈍感で思い上がっているところは、光源氏も道長も共通しています。
「雲隠」
道長を見送ったまひろは、何か書きつけてゆきます。
もの思ふと
過ぐる月日も
知らぬ間に
年もわが世も
今日や尽きぬる
物思いばかりして月日が過ぎたことも知らぬ間に、この年も、我が生涯も、今日で尽きるのか。
光源氏最後の歌です。
それにしても、まひろはどこまでおそろしいのか。
「物語は人の心を映す」と言いますが、それで書いたのがあの『源氏物語』ですか。
紫式部は男性への嫌悪感を赤裸々に描いています。
全身に冷や水のように汗をびっしりとかき、男君から逃げまどい、内心嫌で呆れて仕方ないと、何度も散々書きつけているところに『源氏物語』の深淵があります。
一方で男君はだいたいが鈍感。
自分が思いの丈を遂げられないことばかりをメソメソと嘆き、自己憐憫に次ぐ自己憐憫を重ね、本当にどうしようもありません。
中でも光源氏が紫の上に、「あなたは私のおかげで苦労もせず、楽な人生を送ってきましたねえ」と語るところは実におそろしい。
光源氏が初めて強引に肌を重ねたとき、紫の上は相手に強い嫌悪感を覚え、震え、怯えていたものでした。そのあとも紫の上は、光源氏の言動に心を傷つけられてきたものです。
身近にいて最愛の存在だと思っている相手の苦難をまるで気にも留めない、光源氏はいったいなんなのでしょう。
結局このあと、紫の上は光源氏の言動ゆえに心を病んで命を落とすことになります。
そうやって最愛の相手が死のうが、男君の考えることは往々にして自己憐憫ばかり。
これを踏まえて「物語は人の心を映す」と語るまひろは、ほんとうにおそろしい人だと思います。
吉高由里子さんの顔もすごい。ただ穏やかにしているようで、深淵をのぞきこむようなおそろしさを感じてしまう。
それでいて、次の瞬間には「そんなことないですよ」とあどけなく笑い飛ばしそうな雰囲気もあります。
おそろしい世界が繰り広げられてきました。
道長は「雲隠」とだけ書かれた紙を目にします。
それは『源氏物語』の、本文がない巻のこと。かくして光源氏の死が示唆され、物語は終わりを告げます。
道長はこの紙を目にした途端、頭痛に襲われるのでした。
双寿丸は元気いっぱいだが、道長は病に倒れる
まひろは帰宅します。
きぬといとが出迎え、賢子は乙丸は出かけていました。
なんでも双寿丸が毎日顔を出しているようです。賢子はまだ子どもだとまひろは気にしませんが、裳着を済ませている!といとは気を揉んでいる。
それはそれでよいと笑うまひろ。
これも不思議といえばそうで、『源氏物語』の世界観では、双寿丸は野蛮な存在です。
けれども同時に、貴公子たちがいかに頼りなく偽善的であるかも描かれています。貴公子に愛し愛されても幸せにならないと突き放しているともいえる。
そんな物語を手がけた作者としては、新たな可能性を武者に見出しているのかもしれません。
双寿丸と賢子が帰宅。どうやら双寿丸は腕に怪我をしているようですが、本人は大した事ない様子。おろおろする賢子に対し、傷口を水で洗うようまひろが指示します。
ここでの双寿丸は、顕信と対比的に見えます。
比叡山が寒いことが一大事だとうろたえる彼の周囲に対し、双寿丸の野生美にあふれた逞しさときたら。
彼を嫌っていたいとですら、「ここの飯がうまいから来るのだ」と言われ、ちょっとぼーっとしてしまいます。
さらにいえば、おいしくご飯を食べるところも対照的です。
立后のあと、欠席者ばかりの宴は虚しいものでした。
貴族がああして食事を無駄にする陰湿な生き方をする一方で、武者はモリモリと食べて元気に生きている。
双寿丸が新たな時代を感じさせる一方で、道長は病に倒れ、倫子が道長の看病を熱心にしているのです。
道長は帝に辞表を提出します。
なかなか立派な筆跡かつ漢文で書かれていますが、こうしたものは本人ではなくそれなりに学識がある学者が書くそうです。
諸葛亮の「三顧の礼」を念頭に置いたのか。こういう人事関連のものは三度繰り返す監修があるとか。つまり辞表も三回突き返すと。帝はそうしたくないようですが。
皇太后が倫子のもとにやってきます。
倫子が辞表を二度提出したと語ると、心やさしい皇太后は道長に反発したことを反省しています。
彰子の祖母である穆子が「皇太后は信じた道を行くように」と返すと、倫子もこれに優しく微笑むのでした。
一方で、家にいるまひろのもとには、皇太后から早く戻ってくるようにと催促する手紙が届けられるのでした。
内裏に飛び交う怪文書
道長の病をきっかけに、内裏には怪文書が出回ります。なんでも道長の病を喜ぶものがいるとか。
大納言:藤原道綱(道長の異母兄。道長がいなくなれば上の位へ出世できる)
大納言:藤原実資(道長に屈しない硬骨の人)
中納言:藤原隆家(道長の政敵である中関白家出身)
参議:藤原懐平(三条天皇に近い)
参議:藤原通任(同上)
「俺?」
そう慌てふためいているのが道綱です。周囲から疑いの目を向けられ、「道長は可愛い弟なんだ!」と素朴な弁明をしています。
実資は憤るも、即断即決で放置。
隆家の前では、ききょうが「こういうものが出回るのは皆の心が荒んでいるからでございましょう」と言い切っていました。そのうえで、嫌な世になった、先帝のころはこんなことはないと言います。
ききょうが信奉する定子も嫌がらせを受けていたし、彼女自身も悪口にいづらくなって里に戻っていたことがありましたが、思い出は美化されるものなのでしょう。
潔白をわざわざ言いに行くのも気が引けると隆家が口を開くと、ききょうは放っておけばよいと強気です。
「左大臣様のお命、長くは持ちますまい」
そう願望のようなことを口にしますが、当時の寿命や、藤原道隆のことを考えれば、そう思いたくなるのも理解できます。
ちなみに道隆も道長も、死因は飲水病(糖尿病)と共通しております。
結局、道綱だけが釈明にやってきて、倫子に止められていました。
怪しい文のことを聞かされた倫子は、むしろ断固として道綱を返し、平癒を祈るようにと告げます。
そんな噂を道長に聞かせたくないのでしょう。百舌彦が道綱を掴み、強引に追い出しています。
『源氏物語』完結
まひろはまだ家にいて、皇太后のもとに戻っていません。
掃き掃除をしていると、賢子がもう執筆しないのかと聞いてきました。
まひろは晴れやかに『源氏物語』完結を宣言します。
「物心ついたときからずっと書いていた母上が書かないとなると、母上でないみたい」
「このまま出家しようかしら」
明るくそう言うまひろ。
この底抜けの明るい出家宣言からして、道長との縁も途切れたようにも思えなくもありません。
ソウルメイトが病で倒れていて出家するというのは、あまりに冷たいものですから。この時点で病を知らないというのはむろんありますが、虫の知らせはなかったのでしょうか。
そして夜、まひろは琵琶を奏でているのでした。
宇治の川辺で二人は
そのころ道長は宇治で療養中でした。
しかし、百舌彦が差し出す薬湯すら口にしようとしません。みるからにやつれていて、精気がありません。
そんな主人の姿を見かねたのでしょう。百舌彦がまひろの家にやってきました。
宇治から都まで遠いのに、よくぞやってきました。百舌彦が道長の様子を伝えます。
そして、まひろが宇治へ向かうと、枯れた花のような風情で、道長が柱にもたれていました。これぞまさに『源氏物語』の不健康な世界観そのものに見えます。
まひろが近づき「道長様」と声をかけると、ゆっくりと目を開き、相手を認める道長。
虚な目に光が点ります。
「宇治はよい所でございますね」
「川風が心地よい」
「川辺を二人で歩きとうございます」
そう語りあう二人です。
道長の病は心因性なのでしょう。病で出歩くのはむしろ体に悪いと思えますが、恋を思い出せば回復に向かうようです。
川縁を歩く二人。ここでやっと、道長は弱音を吐きます。
「早めに終わってしまった方が楽だというお前の言葉がわかった」
「今は死ねぬと仰せでしたのに」
「誰のことも信じられぬ。己のことも」
「もうよろしいのです。私との約束はお忘れくださいませ」
「お前との約束を忘れれば、俺の命は終わる。それで帝も皆も、喜べばそれでもよいが……」
「ならば私も一緒に参ります」
「戯れを申すな」
「私ももう終えてもよいと思っておりました。物語も終わりましたし。皇太后様も御強く、たくましくなりました。この世に私の役目はもうありません。この川で二人流されてみません?」
「お前は……俺より先に死んではならん。死ぬな」
「ならば……道長様も生きてくださいませ。道長様が生きておられれば、私も生きられます」
泣き出す道長に対し、まひろは静かに怖い顔をしている、般若面を連想しました。怒りを秘めているように思えます。
この場面は実におそろしい。
やはりここは、『源氏物語』の光源氏と紫の上を意識していると思えました。
実は光源氏と紫の上は、ここでの会話のようなやりとりを重ねています。
疲れ果てて何度も出家を願う紫の上に対し、引き留め続ける光源氏。
出家すれば妻として扱えない。そんなことは嫌だし、世間にどう思われることか。そう自分のエゴ剥き出しで止め続けるのです。
「俺より先に死んではならん」は、それを踏まえると自分勝手に思えます。この時代の出家も実質的に死を選ぶようなことです。
つまり道長はまひろに甘えきっている。
道長もまひろも、光源氏と紫の上も、若い頃に出会いました。
互いに二人の世界にいれば、若々しい気分でいられるようにも思える。
しかし男君はそんな世界から逸脱し、女君を嘆かせている。女君はそのことが辛いのに、男君は常に自己憐憫ばかりに浸っている。
隣にいる一番大事な相手のことを果たして思いやっているのかどうか?
まひろの顔に浮かぶ怒りはおそろしい。
このドラマは『源氏物語』の場面再現はないものの、読んでいるかどうか、見る側を試してきます。
騙し絵のように浮かぶ何かがおそろしい。私はこの場面を一度目に見た時は感動しました。
しかし見返すと、なんともおそろしくてならなかったのです。
光る君はもういないが、物語は続く――。
そのあと、まひろは紙に「匂宮」を書き出します。
光る君がお隠れになった後、あの光り輝くお姿を受け継ぎなさることのできる方は、たくさんのご子孫の中にもいらっしゃらないのでした。
そう書き付けるまひろの唇には、かすかな笑みが浮かんでいるように思えます。
MVP:紫式部となったまひろ
作中ではまだ「藤式部」と呼ばれていますが、私の中では今回で「紫式部」として完成したと思えました。
最晩年の紫の上は、光源氏の無神経ぶりに心をすり減らしています。
自分のおかげであなたは苦労などしていないと決めつけられるわ。
何度出家したいと願っても止められるわ。
彼女の人生がおかしくなってゆくのは、女三宮の降嫁が契機です。
そのせいか、彼女は悪役やラスボス扱いすらされることがあります。
どこかぼんやりしていて幼く、気が利かないと再三言及される女三宮。
けれども、本当の悪は光源氏その人ではないか?
このドラマはそこまできちんと落とし前をつけてきたように思えます。
それはまひろと光源氏の関係が、女三宮に該当するもの抜きで壊れていくから。
道長はまひろと己の間に割り込むものに冷淡です。
倒れた明子の看病をするのは俊賢。
倒れた道長の看病をしたのは倫子であるにもかかわらず、その倫子を置いて宇治へ向かい、まひろと川辺を歩く。
それでこれですからね。
「誰のことも信じられぬ」
いや、信頼関係を壊しているのはあなた自身ではありませんか?
川辺の道長の言動は『源氏物語』の男君たちのもついやらしさを凝縮したようで圧倒されました。
女三宮に対する柏木にせよ、女二宮に対する夕霧にせよ。そして紫の上に対する光源氏にせよ。女が思い通りにならないと、こういうことを言い出します。
「あなたへの想いが叶わぬ私を哀れと思ってください」
場合によっては勝手に側に近づいて、こう言いながらにじり寄ってきます。
情緒豊かだろうが、美男で身分が高かろうが、相手の気持ちを無視していて一方的です。ストーカーそのものではないかと思えてきます。
その結果、相手が嫌がって苦しみ抜こうが、己の運命の儚さを思うだけ。どこまでも自己憐憫ばかりで、おおよそ反省というものがみられません。
そして「宇治十帖」を書き出す恐ろしさ
そこを踏まえたうえで、唇にかすかな企みの笑みをうかべ「宇治十帖」を書き出すまひろのおそろしいことよ。
「宇治十帖」は、そもそもが光源氏の後継者は子孫の中にあらわれないと言い切るところから始まります。
光源氏を道長だとすれば、彼の子孫は光を失ってゆくという不吉な予言と思えなくもないのです。
そしてそのプロットもおそろしい。
「宇治十帖」の主役をつとめる薫も、そのライバルである匂宮も、光源氏と頭中将、夕霧と柏木以上に身勝手で自己憐憫に浸りがちな性格をしています。
こんな二人に挟まれてしまった浮舟は、川に身を投げて出家を遂げるという終わりを迎えます。
それはまるで、自己憐憫が大好きな男たちに絶縁状をつきつけるような、強烈な拒否のあらわれに思えます。
しかも、浮舟の出家を知った薫がどうしようもない。他に男がいるのだろうと邪推するのです。浮舟の絶望すら読み解けません。
『光る君へ』のこの展開は、まひろが道長を生かすために「宇治十帖」を書くと見せかけて、そうとも言い切れないと思います。
まだまだ世の男にも、道長にも、ダメ出ししたい気持ちが止まらない――そう筆を走らせているように思えます。
このドラマは、『源氏物語』の女君たちが流した涙を供養するために作られたのかもしれない。そう思えてきました。それほどまでに毒が強く、痛快です。
次回予告を見るに、今回はまだ前編に思えます。
次回、道長は帝を徹底的に追い詰めてゆきます。
相思相愛の妻がいる相手に、強引に自分の娘を押し付けてくる。
『源氏物語』でそれを行ったのは朱雀帝であり、そのせいで光源氏と紫の上たちは不幸に陥ります。道長はその過ちをたどるのです。
さらに実資は、道長は民の顔が見えていないようだと諫言するようです。
確かに道長の政治は権力掌握ばかりをみていて、民のことなど考えていないように思えます。
今回、まひろは昔の約束を忘れていいと道長に言いました。彼を救うためというよりも、諦めて突き放したように思えたものです。
まひろはどうするのか?
そもそもまひろは、道長のソウルメイトなのか?
それとも腐れ縁なのか。あるいは死神なのか。
まひろが書いた「雲隠」をみた瞬間、道長は頭痛は苦しみ出しました。
自分に死をもたらしかねない相手にすがっているのだとすれば、道長はなんと哀れなのでしょうか。
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【参考】
光る君へ/公式サイト




