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【光る君へ名場面を振り返る】
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・刀伊の入寇
【刀伊の入寇】を強引にでもドラマの中に入れたかった理由はわかる。そんな場面です。
武器甲冑の変遷については実に興味深いものがありました。
恩賞対応まで含めて、摂関政治の問題が凝縮されたような意義のある描き方。
さらには周明の遺骸が、海岸に無惨に放置されたところにも、このドラマの冷酷な誠意を感じました。
周明があんな目に遭うなんて信じたくない。そう願う視聴者は生存ルートを妄想したほど。
しかし、都の貴族は民の命を虫ケラのようにしか思っていない。
対比の残酷さが際立っています。
・倫子の問い
最終回へ向かう場面で、投げかけられたまひろと道長への問いかけ。
倫子としては最大限の恩恵を施したつもりだったのかもしれません。
かつての道長もそうでした。
しかし、それに感謝されるどころか、まひろから次から次へと衝撃的な事実を突きつけられ、困惑していく倫子の様があまりに哀れに思えました。
これだとまひろと道長が悪役に思えてくるのに、そうはならないところで着地する。
なんというバランス感覚のドラマなのかと驚いたものです。
・まひろの旅立ち、武士の台頭
没年すら不明である紫式部。その結末をどう描くのか。
乙丸と二人で旅立つまひろは、死へ向かい歩いてゆくようにすら思えました。
作中では人生最期の選択肢として、出家が示唆されています。
為時も、道長も、公任もそうしました。乙丸だって小さな仏像を彫っています。『源氏物語』からも、紫式部自身が出家を人生の終着地点ととらえていた価値観が見えてきます。
しかし、このドラマはそうなりません。
壊れた鳥籠を映し、まひろがまるで鳥のように羽ばたき、呪縛から出ていくのです。
鳥籠で生きてきた小鳥は、出た途端、猛禽類に出くわすこともある。その危険性を理解していると思える重要な要素がここで示されるのです。
まひろは旅に出た先で、騎馬武者たちの姿を見ます。そこにはかつてまひろの元で食事を平らげていた双寿丸もいました。
まひろと双寿丸の対比は、これから訪れる「武者の世」を示している。
歴史の変貌を描きたいという、そんな野心が詰まった刺激的なラストでした。
『光る君へ』はフェミニズム大河ドラマなのだろうか?
2024年前半期・朝の連続テレビ小説『虎に翼』は、フェミニズムを中心に据えた意欲作として話題をさらいました。
では、大河ドラマはどうか?
これは意見が分かれているようです。
『源氏物語』をテーマと言いつつ、女性文学を軽視しているなどなど。
この手の「こんなものはフェミニズムじゃないんだ」鑑定論争は、私としてはごめん被りたい。時間と労力の無駄です。
フェミニズムはじめ、権利闘争の基準は時代によって変わります。
津田梅子からすれば、平塚らいてうら後進のフェミニズム運動は邪道でわがままに思えたとも言います。
歴史は何度でも繰り返します。
「昔は女性参政権で満足していたのに、今のフェミニストはわがまますぎる!」
「こんなものは私が思うフェミニズムじゃない!」
こういう意見はいちいち反論すると本当に無駄でしかありません。権利の要求は、万人が万人の解釈を持つものともされがちですので、そこで消耗してもいられません。
とはいえ、フェミニズム批評とはすでに確立されておりますし、そこを基準とすればある程度の判定ができます。
一例として、2010年代に世界的なヒットを果たした『ゲーム・オブ・スローンズ』に注目しますと。
フェミニストは『ゲーム・オブ・スローンズ』を見ても良いのだろうか?
この問いかけは散々されてきています。女性に対する悪質な性暴力描写があるため、こんなものはフェミニストの敵だという評価は当然のことながらあります。
フェミニストの希望であったデナーリスが暴君となった挙句、非業の死を遂げたことも批判の対象です。
一方で、サンサ、アリア、ブライエニーといったキャラクターは、十分フェミニズムをふまえた描写であるとされます。
要するに、これに対して決着をつけるのは相当大変だということです。
それでもあえて『光る君へ』は紛れもなくフェミニズム大河だと定義します。
・「ベクデル・テスト」を通過する
古典的すぎるという批判はありますが、作品のフェミニズム要素を判定する基準として「ベクデル・テスト」があります。
最低でも二人の女性が登場する。
その人物に名前がついている。
その二人の会話において、男性以外の話題が登場する。
大河ドラマは長いので、まずこのテストをクリアできないことはないかと思います。
とはいえ、女同士が男のことで延々とキャイキャイしている大河もたまにあるといえばそうですが。
『光る君へ』はむろん、簡単に合格しています。
紫式部と清少納言に該当する人物が、文学談義で功績を誇る場面が最終回に登場する。
この時点で、フェミニズム的には先頭を駆け抜けてやるという気合をビリビリと感じさせます。
・スタッフの女性比が高い
今年は制作統括として、内田ゆきさんが先頭に立っていました。
脚本、音楽、衣装デザインはじめ、ここまで女性が多い大河ドラマは革新的だと思えます。
組織内の女性比率を高くすることは、ジェンダー問題解決への基礎中の基礎。それがちゃんとできています。
ここまできて、この難しい題材を説得し、作り上げる。
それだけでもよくぞやった! 私も大河ドラマを作る側に回りたい!
視聴者にそう思わせたら、その時点で勝利です。今年は勝ちました。
・脚本家が大石静さんである
大石さん本人が乗り気でなかったにも関わらず、説得したと語られています。
今になってみると、むしろ大石さん以外はありえない人選であったと思います。
実力はもちろんあります。
まひろと道長のインモラルな恋愛関係から、毒を抜いてああも甘くできるのは、大石さんでなければできないでしょう。
大河の執筆経験もあり、この難しい題材をこなせるだけの歴史への理解度、スタミナもむろん特筆すべき点です。
それだけでなく『功名が辻』を手がけた彼女だからこそ、このドラマを書いたことには大きな意義があると感じる。
『功名が辻』は、昭和から平成にかけての女性像を反映した作品といえます。
男性ベストセラー作家の原作がある。良妻賢母路線を称揚する。戦国時代を描いているようで、実は第二次大戦後の家族像や男女観を象徴する作品ともいえます。
そんな良妻賢母や専業主婦を閉じ込めるような檻を書いた脚本家に、あえてその檻を破壊する作品を描かせる。
大石さんのキャリアの大輪の花を咲かせ、世の中を変えるだけの力があると示す、実に見事な策ではないですか。
この人選の時点で見事です。完璧です。
・同意を得ていない性行為がない
今年のドラマに投げかけられる定番の酷評として、こういったものがあります。
どうあがいても『源氏物語』には遠く及ばない。素直に『源氏物語』をドラマにしろ。あるいは劇中劇で『源氏物語』を入れるべきだ、など。
これは無理です。
キャストが増えすぎることや予算もありますが、そうではない決定的な理由があります。
あの物語は、根底に同意を得ていない性行為があります。
紫の上。藤壺。女三宮。浮舟などなど。こうした女君をカットして話を説明することはまず不可能です。
性的、暴力的な描写と異なり、レイティングをクリアする作品でも、不同意性行為は問題視されます。
前述した『ゲーム・オブ・スローンズ』でも、フェミニズム観点で最も問題視された場面に、サーセイとジェイミーの不同意性行為があります。
『光る君へ』では、不倫も不義の子も出てきます。プロットの根幹としても出てきます。
それでも性行為はあくまで同意を得てのものであり、この点ははみだしておりません。
『源氏物語』を映像化すべきだという意見を読むと、本人としてはよいことを語っている前提なのかもしれないけれども、コンプライアンス面でのアップデートが必要なのではないかと、少し心配になってしまいます。余計なお世話でしょうが。
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