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西郷の倒幕で民は腹いっぱい食えるようになった?明治維新のマイナス面あれこれ

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2018年大河ドラマ『西郷どん』では、主役の西郷隆盛が何度もこう宣言しております。

「倒幕し、民がメシを腹一杯食べられるようにする」

素晴らしい発想ですが、実際にどうなったか?
というと、残念ながら史実とは真逆に近いです。

戊辰戦争負け組となった佐幕藩関係者は、北海道の荒野をさまようような開拓事業に追いやられた例もありました。

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それだけでなく、露骨に切られたのが幕臣。
つまり幕府に直接出仕していた旗本や御家人たちです。

彼らは「彰義隊」として戦いで傷つき斃れた者だけでなく、生き残ってもさらなる悲劇が待ち受けていました。

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幕臣の没落は、江戸から東京に変わった首都の荒廃でもあります。

『西郷どん』では大いなる理想が掲げられておりますが、実際は綺麗事ばかりじゃなかった明治維新後の悲劇や荒廃について。

おそらく大河では触れられない、苦しき史実にも少し目を向けてみたいと思います。

 

大奥崩壊! 篤姫すら苦しんだ、不都合な史実

「大奥」と聞いて、皆さんはどんなイメージをお持ちになられます?

 

この男女逆転版のように、
「一人のモノに多数の美形異性が仕えるハーレム!」
って印象ですかね。

それは、間違っていません。鈴のしゃなりしゃなりと鳴る廊下を歩く上様は、史実です。
が、それだけじゃないのです。

大奥の上級女官は、男性官僚も一目置くほど政治力が強く、下級女中は力仕事をこなしていました。

資産家の商人など、町人階級の者たちは、女子の教育機関としてこうした女中に我が娘を送り込みます。というのも、そこでは化粧からマナーまで一流の者になるための修行が行われ、大奥女中出身というだけで女性は注目を集めたからです。

こうした女子教育機関でもあった大奥が、明治維新によって終焉を告げられました。

同時に、経済的にもインパクトがありました。

大奥に仕える女官は、結構な給与を得ていました。
その使い道といえば、豪華な衣装。外出時のお饅頭といった菓子類です。

江戸時代の上流商人は、大奥からの愛顧によって財を成していたのです。

一部の商人は明治政府に入り込むのに成功したものの、幕府と共に潰えた商家がいくつもありました。
しかもそこには、明治政府の経済政策がお粗末過ぎてダメージを喰らった事例もあったのです(詳細は後述)。

 

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実家の島津家に対し容赦ない怒り

江戸時代が続いたなら、キャリアウーマンとして嫁ぎ先を見つけられたはずの女官たちも、大奥崩壊を機に実家へ戻りました。

彼女らは大奥で身につけた所作や考え方が、キャリアの証どころか気取った風習と白眼視され、嫁ぎ先も見つけられません。
そのため実家と縁を切り、茶道やマナーの師範となる元大奥女官が、明治初期にはよく見られたものです。

大奥トップであった篤姫(天璋院)こそ、この処分に激怒した筆頭でもあります。

篤姫/wikipediaより引用

宸翰(しんかん・天皇直筆)の額すら攻撃した新政府軍。
特に実家島津家に対し、篤姫は容赦ない怒りを書き残しています。

彼女は島津家と敵対する彰義隊や、奥羽越列藩同盟に期待を寄せたほどで、歯がみしながら大奥を去り、次代の宗主・徳川家達の育成に余生を懸けました。

幼少の頃の徳川家達/wikipediaより引用

徳川家の女として骨を埋める――そんな篤姫の遺徳を徳川家は評価し、第二次世界大戦まで彼女の好物である「あんかけ豆腐」、「さがら茶の御膳」、「白インゲンの甘煮」を祥月命日に食べたそうです。

『西郷どん』がこのままの調子で進みますと、篤姫が西郷に笑顔で感謝し、喜んで大奥を引き渡すかもしれません。
が、それはあまりにご都合主義であり、歴史への冒涜とすら思えてしまいます。

フィクションだからといってそこまで歪曲しないことを祈っておりますが……。

 

女子教育の理想と現実

大奥という女子教育機関が消滅した後、明治政府が新たな女子教育に尽くしたのであればまだ良かったのでしょう。

しかし現実はさにあらず。

明治4年(1871年)、欧米の女子教育に感心した黒田清隆の提案により、日本初の女子留学生が渡米しました。

新政府の米国留学女学生 左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)/wikipediaより引用

このメンツが、かなり偏りがあるのです。

というのも、津田梅子は幕臣の娘であり、山川捨松は佐幕藩の出。
要は戊辰戦争・負け組の者たちばかりでなのです。

もしも明治政府がホンキで女子教育を重視していたならば、留学のメンバーが皇族や公家娘、薩長土肥のお姫様が、少なくとも半数は入るのが普通だと思いませんか?

これが現実です。
彼女らは、養育費にも窮するような、佐幕派負け組の女子ばかり。
当時の人は、米国留学と聞いて「世捨て人にするようなものだ」と女子の親たちを批判的に見ていました。

ただし、それは仕方のない話かもしれません。
当時の日本は、まっとうな家の娘は十代半ばから嫁ぐもの。それが留学先のアメリカで学習期間にあてられては、日本での将来が先行き不安と思われても仕方のない話です。

実際、帰国した女子学生は、日本で塩対応を受けます。

「負け組の、適齢期遅れ、日本語も不自由な西洋かぶれ女ども」
そう言われてしまった女子留学生は、負け犬でしかありませんでした。

メンバーの一人・山川捨松は、アメリカ人の親友アリス・ベーコンに、
「私は適齢期過ぎたって母が嘆く始末!」
と自虐めいた手紙を送ったほどです。

当時の捨松は、まだ20代前半です。
卒業時、アメリカの新聞は捨松の優秀さを絶賛し、
「彼女は日本の宝です」
と書いたほど。その教養と美貌は、アメリカでは絶賛されたのです。

しかし、日本の価値観では、負け犬でしかありませんでした。

結局、明治政府は、留学をさせるだけさせて、帰国後のフォローは全くしなかったのです。

大学当時の捨松/wikipediaより引用

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ただし、捨てる神あれば拾う神あり。
薩摩出身で妻を失っていた大山巌は、パーティ会場でシェイクスピア劇『ヴェニスの商人』のヒロイン・ポーシャを演じた捨松にぞっこん惚れ、すぐに求婚します。

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が、会津藩である捨松の兄たちは「薩摩と結婚なぞあっではならね!」と激怒です。

当の捨松はというと……これが乗り気でした。

というのも彼女は帰国後、女子教育を推進しながら塩対応されることにウンザリしていたのです。
西郷隆盛や西郷従道のイトコである大山の夫人になれば、社会的な発言力は大幅アップするはず。

そんな彼女の狙いは、半分当たりで、半分はずれといったところでした。

 

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私が留学したのはダンスをするため?

大山夫人となった彼女の使命は、鹿鳴館で華麗なステップを踏むことでした。

ドレス姿の大山捨松/wikipediaより引用

『私が留学した意味は何かしら、ダンスをすることばかり?』
そう嘆いてもおかしくない捨松は、旧友によって救われます。

留学仲間の津田梅子が、女子教育への道を捨てずに邁進。
彼女への援助を惜しみなく続けました。

そしてついに明治33年(1900年)、梅子は「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を開くのです。

左から、梅子、ベーコン、瓜生繁子(旧姓永井)、捨松/wikipediaより引用

梅子は、たった一人で女子教育を目指したわけではありません。
あの伊藤博文も、彼女の援助をしています。

ただし、彼女らの理想の実現までは、時間と手間がかかりました。

当時の政府はじめ世間は、大奥型と言いましょうか。
女子として、結婚相手としての教養や知性ばかりを求めていたのです。

欧米型の知識欲を促す女子教育は、梅子や捨松といった留学仲間が意志を結集しなければ難しいものでした。

どうしても、政府はじめ上層部が目指す教育と、女性自身が目指す教育の間に、隙間風が吹いていたのです。
ここもあまり語られることのない新政府の欠陥ではないでしょうか。

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帝都が野良ウサギまみれに

『西郷どん』で、島津久光による参勤交代中止が英断として取り上げられました。

出費の嵩む大名行列は、確かに藩の財政を大きく損ねるものです。
が、これをただの英断と見なすのは、いささか疑問が残ります。

参勤交代の中止は、江戸、そして後の東京における環境悪化を招いてしまいました。
それというのも、放置された大名屋敷が荒れ果てたからです。跡地を田畑とする動きもあったとはいえ、大名屋敷跡地が向いているわけもなく……。

大名屋敷の整備をしていた庭師等も、失業しました。
江戸っ子からすれば、薩長が余計なことをした――となっても仕方ない話です。

もしも跡地利用が上手で、うまい後釜ビジネスを武士向けに勧めていられていれば、批判はされなかったのでしょう。
しかしこれが、散々な結果に終わるのです。

幕府を失った幕臣たちの進路は、当時、3ルートありました。

1. 明治政府に出仕する
2. 農業や商業に転向する(殖産興業・士族授産)
3. 無禄で、幕臣として静岡藩に移転

さて、どれが人気だと思いますか?

「1」 は、上司がほぼ薩長閥だわ、裏切り者っぽいから「やってられねえ」。
「2」 は、勧められる産業がショボすぎて失敗に終わる。

そこで最も選ばれたのが「3」なのです。要は、消去法で選ばれたわけですね。

ただし、この「3」には大きな落とし穴が待っていました。
なんせ無禄ですから悲惨そのもので、一家餓死、あるいはたまに腹一杯食べて突然死する者もいたと言いますから、不憫でなりません。

実はこれは、薩長はじめとする明治政府にとっても辛い話でして。

薩長は地方藩であり、全国区の統治は未経験です。

明治の藩閥といえば、陸軍の長州と海軍の薩摩が有名ですね。
これは「武」という武士の特技を生かしたものだからこそ問題はありませんでした。

しかし、そうでない産業は、正直どうしたらよいかわからないのです。

例えば、外国との外国語によるやりとりは、幕臣のほうがはるかに得意でした。
津田梅子の父・仙や、福沢諭吉が特技としていたわけです。

津田仙/wikipediaより引用

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もちろん藩閥なんてこだわっている余裕もなく、出仕させられた者もおりました。
が、福沢のように「やってられねえ」と拒む者もおります。

正直申しますと、明治政府は他にもっとやり方があったのでは?
そんな風に突っ込みたくなるのです。

ついでに「2」の産業についても少し見ておきましょう。

津田梅子の父である津田仙は、数少ない産業成功者でした。
明治政府の指導がよかったというよりも、外国人農業専門家のアドバイスにより適切な西洋野菜の栽培が進み、大成功を収めたのです。

当時の日本は外国人を迎え入れておりました。つまり、西洋流の食事を作らねばなりません。
しかし、西洋野菜や肉、乳製品は少なく、なんとかして生産しなければならないのに、誰にも肝心の知識がありませんでした。

そこで明治政府は、大名屋敷の跡地等で桑や茶の生産を指導したものの、ことごとく失敗。
明治初頭の東京は人口が減り、土地は荒れ果て、華やかな帝都からほど遠い様相となっていたのです。

こんな話があります。
明治政府は、当時の士族にウサギ飼育を奨励しました。
食用の肉として育てようとしたのです。

しかし、です。
ヌケサクとしか言いようがないのですが、肝心の処理方法を指導しそこねたため、東京は一時期、野良ウサギまみれになってしまったとか――。

こうした迷走を知ると、津田仙をどうして政府で招かなかったのか、とツッコミを入れたくなるのです。

 

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江戸ブームも、西郷どん贔屓も、なぜ起きた?

教科書や授業、そして大河ドラマでは、輝かしいものとされる明治維新。

しかし、江戸っ子中心に、明治当時の帝都では、
「江戸のほうがよかったぜ」
「薩長め、いい加減にしろ」
という怨嗟の声が上がっておりました。

明治政府にとって頭痛の種である不平士族の反乱が起きると、当時の江戸っ子はハッスルしたほどです。

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しかも露骨に、反乱側に肩入れしました。

「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまが今にまたお帰りになるに決まってらァな」
「そうよ、そうよ」

と、当時は、女性同士でも盛り場でこんなふうに語っていたとか。

権現様(家康)とその子孫は戻らないものの、西郷隆盛が一泡吹かせてくれているということで、当時の江戸っ子は手に汗を握って西郷を応援したそうです。
ただ、これは西郷人気というより、薩長政府が不人気だという顕れかもしれませんね。

会津藩のような佐幕派負け組から陸軍や警視庁に入った側も、
「今度は薩摩が賊軍だべ!」
と、大喜びだったそうで。

こうした反乱のあと、江戸っ子の関心は自由民権運動へ移ります。
ともかく薩長どもに一泡吹かせたい、それは江戸っ子の夢でした。

明治時代から、江戸時代を懐かしむ声はありました。
それは江戸時代が好きでたまらないというよりも、薩長の築いた「ばかくせえ明治よりも、権現様の江戸がよかったぜ」という、江戸っ子の赤裸々な本気と言えます。

こうした失敗と迷走の数々を見ますと、『西郷どん』の掲げる
「倒幕し、民がメシを腹一杯食べられるようにする」
という台詞の虚しさがハッキリしてきませんか?

 

江戸流クールビズもドコかへ消えた

明治政府は、江戸の智恵を滅ぼした悪しき部分もあります。

それは服飾文化、江戸流クールビズです。

相撲の歴史』の記事にありますように、江戸時代まで褌一丁の男性は当たり前に闊歩しておりました。
高温多湿の江戸では、その服装が一番効率的だったからです。

お洒落な男性は、褌ラインの陰毛処理がマナーとして定着していたほど。
以下は、1863年-1877年頃の飛脚写真で、なんとも涼しそうですよね。

1863年-1877年頃の飛脚写真/wikipediaより引用

西欧視察を推し進め、そして重視した明治政府によってこうした文化は廃れました。
追いつき追い越せ――という観点からは仕方のない決断だったのかもしれません。

ただ……、やっぱり考えてしまいます。

西欧と日本では、緯度や気候が異なります。
むしろ飛脚レベルのクールビズこそ、日本向けではないでしょうか。

せめてポロシャツに短パンで通勤通学できたら、涼しくて最高だと思いません?

江戸流儀の良さを捨てずに西欧化を進めることがなぜできなかったのか。
明治維新の良さを褒めることは大河に任せ、江戸っ子を見直すのもまた一興だと考えてしまいます。

※ドラマ『西郷どん』の流れからして、直近で不安なイベントが薩長同盟です。
これもまたとんでもない方向で描かれてしまうのではないか……と。

よろしければ以下の記事をご参照ください。

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文:小檜山青

【参考文献】
大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』安藤優一郎
国史大辞典
幕末史 (新潮文庫)』半藤一利

 



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