明治維新後の江戸と大奥

弘化年間(1844~1848年)の江戸/wikipediaより引用

幕末・維新

江戸の街や大奥は明治維新でどうなった?大河で描かれない不都合な歴史

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明治維新後の江戸の街や大奥
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江戸ブームや西郷どん贔屓はなぜ起きた

教科書や授業、そして大河ドラマでは、輝かしいものとされる明治維新。

しかし、江戸っ子中心に、明治当時の帝都では、

「江戸のほうがよかったぜ」

「薩長め、いい加減にしろ」

という怨嗟の声が上がっておりました。

明治政府にとって頭痛の種である不平士族の反乱が起きると、当時の江戸っ子はハッスルしたほどです。

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しかも露骨に、反乱側に肩入れしました。

「こんなばかくせえ世の中がいつまでもつづいてたまるもんけえ、どうせ徳川さまが今にまたお帰りになるに決まってらァな」

「そうよ、そうよ」

当時は、女性同士でも盛り場でこんなふうに語っていたとか。

西南戦争では、西郷隆盛が新政府に一泡吹かせてくれているということで、当時の江戸っ子は手に汗を握って西郷を応援したと言います。

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これは西郷人気というより、薩長政府が不人気だという顕れかもしれません。

会津藩のように佐幕派負け組から陸軍や警視庁に入った側も「今度は薩摩が賊軍だべ!」と大喜びだったようで、こうした反乱のあと、江戸っ子の関心は自由民権運動へ移ります。

ともかく薩長どもに一泡吹かせたい――それは江戸っ子の夢でした。

明治時代から、過去を懐かしむ声はありました。

江戸時代が好きでたまらないというよりも、薩長の築いた「ばかくせえ明治よりも、権現様の江戸がよかったぜ」という、江戸っ子の赤裸々な本気と言えます。

 

江戸流クールビズもドコかへ消えた

明治政府は、江戸の智恵を滅ぼした悪しき部分もあります。

それは服飾文化、江戸流クールビズです。

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上記『相撲の歴史』の記事にありますように、江戸時代まで褌一丁の男性は当たり前に闊歩しておりました。

高温多湿の江戸では、その服装が一番効率的だったからです。

お洒落な男性は、褌ラインの陰毛処理がマナーとして定着していたほど。

以下は、1863年-1877年頃の飛脚写真で、なんとも涼しそうですよね。

1863年-1877年頃の飛脚写真/wikipediaより引用

西欧視察を推し進め、そして重視した明治政府によってこうした文化は廃れました。

追いつき追い越せ――という観点からは仕方のない決断だったのかもしれません。

ただ……やっぱり考えてしまいます。

西欧と日本では、緯度や気候が異なります。

むしろ飛脚レベルのクールビズこそ、日本向けではないでしょうか。

せめてポロシャツに短パンで通勤通学できたら、涼しくて最高だと思いません?

江戸流儀の良さを捨てずに西欧化を進めることがなぜできなかったのか。

明治維新の良さを褒めることは大河に任せ、江戸っ子を見直すのもまた一興だと考えてしまいます。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
安藤優一郎『大奥の女たちの明治維新 幕臣、豪商、大名――敗者のその後 (朝日新書)』(→amazon
半藤一利『幕末史 (新潮文庫)』(→amazon
『国史大辞典』

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