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その日、歴史が動いた 江戸時代 細川家

細川綱利 切腹までの赤穂浪士を厚遇した熊本藩主の過酷な幼少期

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歴史が好きな人と、そうでない人の間には埋められない価値観の溝があるような気がします。
一般的に「お姫様」といえばぜいたくし放題なイメージの方が多いかと思うのですが、歴史好きからすると「政略結婚させられてかわいそう」なことも多々ありますよね。

たぶん「お殿様」というのも似たような感じになるのではないでしょうか。某芸人さんの白塗り殿のイメージもあるかと思いますけれども。
本日はそんな感じ……かもしれないお話です。

寛永二十年(1643年)1月8日は、熊本藩の三代藩主・細川綱利(つなとし)が誕生した日です。

 

2歳で父ちゃんが死に改易寸前のハードモード幕開け

つい先日、毛利家を例に挙げて「江戸時代の大名も大変だ」というお話をしましたが、この人もなかなかに苦労をしています。

なんせ綱利が2歳のときに父・光尚が若くして亡くなり、改易されかけているのです。ハードモードってレベルじゃねー!

しかし、光尚が生前に「我が息子は幼少ですので、領地を返上しても構いません」と語っていたことから、幕府内でもどうするべきか意見が割れました。
50万石を超える大藩を取り潰したとして、その後に誰を据えるか。しかも、熊本藩はかつて加藤家が取り潰されて細川家が入っていますから、そう頻繁に藩主を変えてしまうと領民がなつきません。

そういった諸々の理由に加え、細川家の普段の行いが良かったこと、細川家の家臣たちが「何卒改易だけはご勘弁ください(でないと私ら野垂れ死ぬので(´;ω;`)」(※イメージです)と嘆願して回ったことが考慮され、「そのまま細川家でおk」(超訳)ということになりました。
もちろん、実質的な藩政はしばらく家臣や親戚が行っています。

 

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奥さんは御三家・水戸藩から初代頼房の娘をもらう

10歳のとき四代将軍・家綱から偏諱を受けて「綱利」と名乗り始めます。が、名実ともに藩政を担い始めたのはもっと後のことでしょうね。
19歳のときに弟・利重に5000石ほど領地を分けていますので、おそらくこのあたりから自分の意見を反映できるようになってきたのではないでしょうか。

御三家の一つ・水戸家から正室をもらったのは二十歳のことでした。お相手は初代・頼房の娘ですから、結構なVIP待遇というか何というか。
後に綱利は7~8人ほど子供に恵まれたのですけれども、男子が成人する前に亡くなってしまい、跡継ぎとして甥っ子を養子にすることになります。
……養子を決めたのは60代に入ってからなんですけどね。ギリギリすぎるような気がしますが、側室もしくは妾相手に頑張ってたのかもしれません。

23歳のときには、支藩として肥後新田藩という藩を作り、利重にこれを任せます。
肥後新田藩は定府大名(参勤交代せず江戸に定住する大名)とし、以後、利重は対幕府の外交官役を果たしていくことになります。
この辺の外交センスはさすが名門・細川家というスマートさですね。

参勤交代をスッキリ解説! 豊臣秀吉の時代に原型が始まり、江戸時代に制度化された

 

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水前寺成趣園を作ったのも綱利だった

いつ頃のことかはっきりしないのですが、熊本藩初代・忠利のお気に入りだった場所に、現在の水前寺成趣園を作ったのも綱利です。
後々かなり質素な庭園に作り変えられていますが、現在の姿からも趣味の良さが感じられますね。
gdgd説明するより公式サイトの画像を見ていただいたほうが早いと思うので、リンク貼っておきますね。

園内には代々の細川家当主が祀られている出水(いみず)神社があるそうなのですが、公式サイトには写真がないのが残念なところです。グーグルマップ先生では載ってるんですけどねえ。
神前結婚式が挙げられるそうなので、細川家ファンの方はこちらでお願いするのもいいかもしれません。

その他、明治時代に熊本洋学校(全て英語で授業を行うというスパルタ教育にも程がある学校)の講師ジェーンズのお屋敷が残っていたり、歴史好きにはそそられるスポットです。

 

赤穂浪士の討ち入りが起きたとき、すでに59歳だったが……

以前取り上げた赤穂浪士お預かり(過去記事:忠臣蔵の赤穂浪士47名 切腹までの1ヶ月間に最も礼を尽くしたのは細川家だった 【その日、歴史が動いた】)の件は、綱利が59歳の時のことでした。

当時の基準ではとっくに老人です。それにもかかわらず、夜中まで浪士たちの到着を待っていたあたりに、綱利の律儀さや敬意がうかがえますね。
食事などもご馳走レベルのものを出していたらしく、浪士たちには「恐れ多いのでこんなに厚遇しないでくだされ」(※イメージです)と言われたそうで。

むろん細川家がいくら大大名でも、幕府の決定には抗いきれず、浪士たちは全員切腹が決まります。
綱利は、最後の最後まで浪士への配慮を止めませんでした。

介錯人にはそれなりの身分がある者を当てるだけでなく、切腹が済んだ後、浪士たちが埋葬された泉岳寺へ多額の寄付をしています。
そんな感じで公的デビューの初っ端から波乱万丈だった綱利が亡くなったのは、72歳のときのこと。
養子の宣紀(のぶのり)に藩主の座を譲ったのが70歳ですから、まさにベストタイミングというか、計画性ありすぎて逆にコワイ。

ちなみに、綱利は熊本藩主になってからの細川家ではかなり長生きなほうです。
上記の通り、父で二代藩主の光尚は30代のうちに亡くなっていますし、七代の宗孝は同じく30代のうちに人違いで殺されるという最悪の椿事に見舞われています。

その後がドケc……もとい「銀台公」として有名な重賢です。

何故か細川家って、30代・50代・70~80代みたいな感じで、享年がだいたい分かれるんですよね。不思議なものです。

かつて、綱利のひいじーちゃんである忠興は、ときの将軍・秀忠に「どのような人を家臣に迎えるべきか」と聞かれたことがあります。忠興はこの難しい質問に、「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう」と答えました。
「荒波に揉まれて良い味になる明石の浦の牡蠣の殻のように、人間も苦労に鍛えられて良い人になるから、そういった人をお迎えなさい」という意味です。

図らずも、自らの子孫がそのような人生をたどったことを、忠興はあの世からどう見ていたでしょうね。

長月 七紀・記

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参考:細川綱利/Wikipedia

 

 





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