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戦艦三笠/Wikipediaより引用

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日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

日露戦争を分かりやすく! 陸海軍の各戦い勝敗マトメ(日本海海戦・奉天会戦など)

更新日:

歴史の授業で、テーマが昭和の戦争になると、よく言われる疑問がこれ。
『なぜ旧日本軍は中国戦線を拡大させ、さらにはアメリカに真珠湾攻撃を敢行したのだろう』

相手は日本の国土の何倍もある大国。
それを2国同時に戦うなど強硬策にもほどがある。
一体なぜ?

もちろん理由は色々ありましょうが、軍が強気になった一つの遠因が「明治時代におけるミラクル勝利の連チャン」ではないでしょうか。

・1894年日清戦争
・1904年日露戦争

明治維新の近代化からわずか30~40年にして、日本は中国(清)とロシア相手に、立て続けに勝利しました。

そのうち日清戦争は、清の指揮官が不可解なトンズラを繰り返したのも勝因だったと昨日の記事で記しましたが、では、もう一つの日露戦争はいかなる展開となったのか。

本稿では日露戦争の流れをスッキリ整理してみましょう。

日清戦争のややこしい流れをスッキリ解説! 清の指揮官ポンコツ過ぎ!?

 

不凍港が欲しいロシアが日本へ三国干渉

アジア方面での不凍港獲得のため、どうしても朝鮮半島と遼東半島が欲しいロシア。
同国は日清戦争後に日本が清と結んだ下関条約に対し、三国干渉(ロシア・ドイツ・フランス)でケチをつけ、遼東半島を返還させました。返す刀で、今度は清を脅しにかかります。

「ウチが日本にハナシつけてやったおかげで遼東半島は戻ってきたんだから、“お礼”を弾んでくれるべきだよね^^」

こうして清から鉄道敷設権をもぎ取ったロシア。
念願の“不凍港”獲得を果たすため、物資・兵員輸送が必要だったロシアは鉄道建設に力を入れており、特に中国方面での敷設は軍事的な意味が非常に強いものでした。

ただし、当時はロシアだけでなく、他の欧米諸国もアジア分割を進めていた時代。
特に中国では
・ドイツ→膠州湾
・ロシア→旅順・大連
・イギリス→九龍半島と威海衛
・フランス→広州湾
と、こんな感じで毟り取っておりました。

アメリカはハワイやフィリピンに手を出していて、中国切り取りには出遅れ。
それでも、負け惜しみと言わんばかりに【門戸開放・機会均等】を呼びかけて分け前に預かろうとしていたのが、なんだかなぁと……。

 

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義和団の乱を八カ国連合軍が鎮圧する

もちろん清も、ここまで圧迫されれば、さすがに危機感を強めます。
ただ、方向性がやっぱりマズイ。

当時、清では一般人が「扶清滅洋(ふしんめつよう)」というスローガンを掲げ「義和団」という組織を立ち上げておりました。
扶清滅洋とは「ヨーロッパなんぞくそくらえ! 清こそ最高の国なのだから、我々も政府を助けなければ!」という意味です。

これが清政府の考えと合致したため、義和団は半ば政府公認の団体になってしまったのでした。

彼らは北京にあった各国の公使館を襲い【義和団の乱】をおっぱじめます。
さらには清も、義和団と一緒になって諸国にケンカを売ってしまいました。むむむー。

当然、ヨーロッパ諸国は黙っていません。
日本にも誘いかけて連合軍を組み、事態を収束させました。

このとき連合軍の兵士を一人ずつ横に並ばせた写真が有名ですね。

義和団の乱における八カ国連合軍/Wikipediaより引用

イギリス兵とアメリカ兵が一番大きく、日本兵が一番小さいのが目にとれます。
意外にも、ロシア兵は右(小さいほう)から三番目でした。
もちろん個人差はありますけれども、この後の戦争の経過を考えると興味深い一枚ですね。

この乱で、清には対外戦争どころか、内乱すら収められないことが確定&露呈。
諸国は清に【北京議定書】をつきつけ、巨額の賠償金と軍の駐留、公使館のあるエリアの治外法権などを認めさせるのでした。

また、ロシアは中国北東部(後に「満州」と呼ばれる地域)を占領し、事実上割譲させます。
日露戦争が日本とロシアの戦争なのに、戦場が全て朝鮮半島と中国なのは、当時その辺がロシアや日本の実効支配地域だったからです。

 

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閔妃「あれ? 清もうダメじゃね? 次はロシア頼ってみる?」

ここまで来ると、朝鮮でも危機感が強まります。
満州は北京にも朝鮮にも近いですし、両者を分断するような位置にあるので、さすがに効いたようです。

閔妃は
「あれ? 清もうダメじゃね? 次はロシア頼ってみる? この前、日本をビビらせてたし!」
と判断し、親ロシア政権に切り替えるのでした。

親日政権を作りかけていた大院君は再三追い出されてしまいましたが、間もなく閔妃自身が何者かによって暗殺されてしまいます。
残された閔妃の夫・高宗もようやく「自分で強い国にならなければ!」と腹を決め、大韓帝国を名乗るようになりました。

日本としても、これ以上、ロシアに進出されては実にキツイ。
いつ自国が攻め込まれるかわからない危険性が飛躍します。

そこで対露については、和戦両方のパターンを考えて対策が考えられました。

「和」のほうは【日露協商論】といいます。
これは「満州はロシア、朝鮮では日本が美味しいところを取って、お互い損がないようにしよう」というものです。
主に伊藤博文などが関わっていたのですが、問題を先延ばしにするのとほぼ変わりません。
そのため立ち消えになりました。

一方、桂太郎らは
「ここは覚悟を決めてロシアと一戦し、実力で追い払うべきだ!」
と戦を辞さない覚悟で準備を始めます。

桂たちも「歩の悪すぎる戦いになるだろう」ということは重々承知であり、そのため少しでも有利にすべくアッチコッチへ根回しをしました。

 

事前にイギリスやアメリカと……

では、根回しとは何だったのか?

具体的には、
・ときのアメリカ大統領であるセオドア・ルーズベルトとハーバード大の同期だった金子堅太郎を渡米させ、日本に有利なタイミングで和平交渉を仲介してくれるよう依頼
・日銀副総裁の高橋是清を渡英・渡米させ、英米から(当時の貨幣価値で)8億円の外債を取り付けた
などです。

そして何といっても【日英同盟】です。

当時のイギリスは大英帝国の名に恥じない、世界一の領土を持つ国でした。
もちろん中国大陸にも多く権益を持っていましたし、クリミア戦争などでロシアと戦ったこともあります。

しかし、中国方面での権益を守るための戦いに、本国からわざわざ大軍を送るのは、さすがのイギリスでも非現実的。
それなら、近場でそこそこ対処してくれる国がいればアジア方面で多少ラクができるわけです。

幸い、イギリスも幕末の頃から何人も日本へ公使を送っており、日本の文化や社会についての理解はある程度持っていました。
日清戦争で国際法を意識した行動を見せたことや、義和団の乱を鎮圧したとき、日本がまとまった兵数と戦いぶりを見せたことも、好感を持てる理由になったようです。

日英同盟が、この時代の白人&有色人種の同盟で珍しく対等なのは、こういった複数の要因があったからと思われます。
まあ、すぐに同盟が成立したわけではなかったんですけれども、それはどんな国際交渉でも同じですしね。

この他にも日露戦争開戦までのエピソードは、いろんな人が泣いたり激高してたり脳天気だったりして、面白いものが山ほどあります……。
全部取り上げるとすごく長くなるので、残念ながら割愛させていただきます。

 

世界も驚いた日英同盟 ロシアも焦った?

『なぜ大英帝国が極東の小国と?』

日英同盟は、ロシアだけでなく当時のヨーロッパ諸国に衝撃をもたらしました。

そのためロシアも一時譲歩する姿勢(という名のフリ)を見せています。
具体的には
「今すぐ満州から完全に撤退するのは難しいから、半年おきに三回に分けて撤兵する」
と言ってきたのです、表向きは……。

しかし、実際にロシアがやったのは一回目の撤兵だけ。
開戦までの時間稼ぎ&イギリスの出方を窺っていたのでしょう。

それでもなお、日本が圧倒的に不利な戦いになることは確実でした。
なにせ人口も国土も軍事費も装備も、全ての点において十倍以上の相手と戦わなければならないのです。

実質的な宣戦布告である「国交断絶状」を送ったのは日本からでしたが、当時の外務大臣・小村寿太郎が実にイイ性格(※“性格が好い”ではなくしたたか)と度胸を併せ持っていたことが大きかったと思われます。

では、日露戦争では実際にどんな戦いがあったか?

いわゆる「203高地」や「日本海海戦」など著名な戦いが多々あり、いずれも綱渡りの連続なので、説明に少々行数を割かせていただきます。
一つずつ見ていきましょう。

 

仁川沖海戦から第一次日韓協約へ

まずは陸軍・海軍双方にとって作戦を進めやすい拠点の選定からです。

海軍が希望したのは釜山で、陸軍が大孤山。
それでは片方にとって行軍の負担が大きくなるため、ほぼ中間地点の仁川が選ばれました。

既にここにもロシア軍がいたため、まずは仁川の確保に動きます。

たまたまこのときの仁川にはロシア船が二隻しかおらず、日本海軍は比較的すんなりと勝利を収めることができました。
これが【仁川沖海戦】です。

仁川沖海戦で炎上するロシア艦/Wikipediaより引用

そして後顧の憂いをなくすため、日本は大韓帝国と第一次日韓協約を結び、「今後は日本人顧問の許可なしに他国との連絡・同盟をしないこと」を確約させました。
事実上の保護国化ですが、そもそも大韓帝国が自力で国土を守れる力があれば、日本も朝鮮方面での懸念を持たなくて済んだわけですし……難しいものです。

海軍が緒戦で勝利を収め、プレッシャーのかかる陸軍。
まずは第一軍と第二軍の二つに分かれて、それぞれ別方面を担当します。

第一軍は仁川から上陸し、満州方面を目指しました。
そのためには鴨緑江を渡らなければなりません。現在は中国と北朝鮮の国境になっている川です。

兵数と物量で圧倒的に有利なロシア軍相手に、正面から戦ったのではボロ負けするのが目に見えていたので、濃霧に紛れてロシア軍の側面に回りこみ、混乱させて勝利を収めました。

これが【鴨緑江の戦い】です。

鴨緑江の仮設橋を渡る第一軍/Wikipediaより引用

 

露の機関銃で6,200名もの戦死者を出してしまう

日露戦争の緒戦は、海も陸も日本にとって幸先の良い結果となりました。

特に鴨緑江の戦いにおける勝利は欧米に高く評価され、当時外債交渉中の高橋是清にとっても追い風となります。
要は戦争の資金調達であり、第三国からするとこういった外債はギャンブルに近いようなものであり、だからこそ緒戦の結果は重要でした。

そして陸軍の第二軍は、遼東半島の先端・旅順にいるロシア軍が満州方面へ向かうのを防ぐため、遼東半島南部の塩大澳から上陸しました。
しかし、その途中にある南山の要塞から機関銃で集中攻撃され、実に6,200名もの戦死者を出してしまいます。

この死者の中に、後述する旅順攻撃で有名な乃木希典の長男・勝典もいました。

報告を受けた国内では「ケタ数を間違えてるんだよな? なぁ、そうだと言ってくれ」状態だったとか。そりゃそうですね。
地元の中国人から多少の情報も入っていたらしいのですが、なにせ日本軍が機関銃を配備した軍と戦うのは初めてだったので、その威力に実感が持てなかったのでしょう。

機関銃自体は、戊辰戦争の局地戦である北越戦争で河井継之助が使っていたので、日本にも全く知られていなかったはずはないのですが……。
その頃のガトリング砲というタイプの機関銃はあまり大きな戦果を挙げられなかったため、ナメてかかったのでしょうか。

実は北越戦争には山県有朋や黒田清隆が参加していたのですけれども、維新の頃に比べて「機関銃が進化してヤバイものになった」とは思っていなかったのかもしれません。
本当に、情報不足と慢心は最大の敵ですね。

ただ、ロシア軍も最初から弾薬を使いすぎて弾切れになり、日本軍の粘り勝ちになっています。

 

東郷平八郎の豪運・神業が炸裂!

第二軍は後続の第四軍(大孤山から上陸・進軍予定)・及び鴨緑江で勝利を収めた第一軍と合流して、満州へ進むことになります。
しかし、旅順をそのまま放置しておくわけにもいかないので、新たに第三軍が組織されました。
乃木が大将を務めた軍です。

一方、ロシアは楽勝できると踏んでいた日本相手に敗北が続いてイライラ。
最前線に急行できる旅順艦隊に「さっさと出港してウラジオストクへ向かえ!」と命令します。

旅順艦隊に出てこられると、日本にとっては非常にやっかいです。
そのため、海軍は急遽これを迎え撃とうとしました。
が、参謀・秋山真之が考案・実行した「丁字戦法」が形にこだわりすぎて大失敗し、一時、旅順艦隊を逃してしまいます。

すると戦艦・三笠の艦長だった東郷平八郎がメインマストの倒壊覚悟で全速力の追撃。
奇跡的に追いつくと、その状態で放った砲撃が旅順艦隊の旗艦・司令室に二発も大当たりし、指揮能力が一瞬にして消滅するのです。

東郷が推薦されたとき、運の良さを買われたという話がありますが、三笠や船員の豪運と技術もスゴイですよね。艦長が豪運だと周囲にも伝播するのですかね。

戦艦三笠/Wikipediaより引用

突然司令が届かなくなった旅順艦隊は戦闘不能に陥り、四方八方へ逃げていきました。
しかし、この時点ではまだ日本軍の知るところではなかったため、この後もしばらく旅順艦隊を警戒することになります。生霊みたいです。

ロシアには旅順艦隊の失敗が伝わったため、バルチック艦隊に「超長距離航路になってでも日本へ行け!」と厳命が下りました。
日本としては旅順艦隊(もういないけど)とバルチック艦隊の挟み撃ちになっては勝ち目がないので、一日でも早く旅順封鎖を徹底しなければなりません。

そこで海軍のほうから、陸軍に「旅順攻略を早めてくれ」と要請が飛びます。

 

旅順の攻略がポイント

日露戦争ではこの「旅順」という地名が何回も出てくるので紛らわしいところですね。
見分けるには2つに分け、それぞれのキーワードを把握しておくのが良さそうです。

作戦 キーワード 時期
旅順閉塞作戦 失敗・海軍 2月~5月(日露戦争前半)
旅順攻囲戦 成功・203高地・陸軍 8月~1月(日露戦争後半)

陸軍としては、「旅順は攻略対象というより足止めする場所」と認識していたので、海軍からの要請に対し、一時困惑したようです。
これまでにも海軍が1904年2月~5月にかけて旅順閉塞作戦を行っており、全て失敗していたというのも理由だったでしょう。

ちなみに、3月の第二次作戦は軍神・広瀬武夫少佐とその部下・杉野孫七のエピソードで有名でです。詳しくは以下の記事を。

日露戦争の旅順港閉塞作戦で広瀬武夫が戦死【その日、歴史が動いた】

元々、旅順は清のものだった頃から軍港として使われていた場所で、ロシア軍が来てからはさらに防備を固めていました。
南山で要塞+近代兵器の恐ろしさを知ったはずの日本軍なのですが、あろうことかここでも正面攻撃を繰り返します。

司馬遼太郎『坂の上の雲』で乃木たち第三軍がボロクソにいわれているのはこの辺が原因です。
しかし当時は、要塞の攻略法など確立していない時代なので、他にやり方が思いつかなかったのは仕方がない面もあります。

厳しい見方をするとしたら、古い時代の攻城戦なり、南山での教訓は活かしてしかるべきかもしれません。
当時の価値観に沿わせるとすれば「戦国時代の攻城戦ですら城側が有利なのに、西洋の最新技術を投じて作られた要塞を正面突破できるわけがない」と考えても良かった気はしますね。
大将である乃木も、参謀だった伊地知幸介も真面目過ぎたのでしょう。

といっても、何の工夫もしていなかったわけではありません。
幕末に日本沿岸防衛のために作られた東京湾要塞などから、旧式の大砲を旅順まで送って使ったり、周りの山に坑道を掘って攻め込む方法を試したり、いろいろやっています。

どれも最終的な成功にはなりませんでしたが、当時の陸軍に視野と記憶力が全くなかったら、こういうことはできないはずです。

旅順要塞の攻略/Wikipediaより引用

 

ロシア海軍のバルチック艦隊がやっちまったな!

本来は旅順攻略によって旅順艦隊を封じてほしかった海軍も、陸軍の被害の大きさと膠着状態に危機感を強めていきました。
そこで「要塞の背後にある203高地をぶん捕り、そこから射撃・砲撃によって旅順艦隊を無力化しては?」という提案が出てきます。

これは「旅順艦隊の殲滅」を第一にしていた海軍からすれば、良い作戦に見えたでしょう。
しかし、陸軍からすると「背後を取るにしてももっといい場所があるし、旅順艦隊を行動不能にできたとしても、やっぱり要塞本体を攻略しないとどうしようもないよね」というところ。
「海軍は、まだ来ていないバルチック艦隊にビビりすぎ」とも思えたようです。

なんでかというと、これより少し前に例のロシア海軍最大の大ポカ・ドッガーバンク事件が起きており、被害者であるイギリスがマジギレしていたからです。

バルチック艦隊がヘタこいた~! 日露戦争の趨勢に影響を与えたドッガーバンク事件とは?

当時七つの海を支配していたイギリスにかかれば、周辺国を脅し……もとい協力させてバルチック艦隊の補給線を断つなんて、そう時間のかかることではありません。ロシアの南下政策はどこの国にとっても嬉しくないことなのですから。

こうしてバルチック艦隊は石炭不足や士気低下に悩まされるようになります。

細かいことは知らなかったにせよ、日本はドッガーバンク事件に対してすぐ弔辞を送っていますし、同盟国のブチ切れっぷりを合わせて考えれば、この事件の重大さや、バルチック艦隊のコンディションの悪さが想定できてもいいはずです。
海軍は、よほど黄海海戦でのギリギリっぷりがトラウマになっていたんですね。

また、同時に日本国内では「乃木に旅順攻略なんてできない、更迭しろ!」という意見が強まっていました。
しかし、乃木の更迭は明治天皇の大反対で取りやめになっています。なぜなら、乃木の日頃の言動からして、ここで更迭したら自決を選ぶだろうことがわかっていたからです。

維新の頃からさまざまな政治の思惑に利用されてきた明治天皇にとって、乃木のような真に忠実・かつ実直な軍人を死に追いやることなどできなかったのでしょう。
日頃の明治天皇は私的な意見にこだわることはほとんどありませんでしたが、乃木の更迭反対だけは徹底しています。

 

203高地は戦略的価値がなかった!?

そこで、乃木のメンツを保ちつつ戦局打開を図るため、児玉源太郎が派遣されました。

旅順陥落がその数日後のため、
「児玉が来てからあっという間に旅順が陥落した」
「児玉のおかげで旅順は攻略できた。乃木と伊地知は完全な無能だった」
とする意見が根強いですよね。しかし、児玉が来た頃には既に作戦が決まっていたという説もあります。

なんだかんだで203高地攻略は行われ、第三軍がもぎ取りました。

ちなみに現代では、同地は戦略的価値がほとんどなかったとみなされています。
ここで乃木の次男・保典もまた戦死しているのが実にやるせないところ。

乃木から見れば「海軍の要求に応えて203高地を取ったのに、戦況には大してメリットがなく、長男も次男も死んだ上、自分は無能呼ばわりされた」のですから、心痛にも程がありますね。
それでも帰国後は明治天皇にお詫びして自決を申し出て止められ、明治天皇崩御の際は殉死しており、本当に「忠臣」以外の形容が見当たりません。

旅順で第三軍の死者が多数に上ったこと等を含めて、彼の評価は分かれるところかもしれませんが、厚い人望が作戦を成功に導いたことは否定できないハズです。

乃木希典/Wikipediaより引用

 

37万vs25万 史上稀に見るレベルの大会戦「奉天会戦」

こうして、旅順攻略は多くの犠牲の上に終わりました。
遼東半島周辺の脅威がなくなったおかげで、陸軍は奉天のロシア陸軍本隊、海軍はバルチック艦隊に全力を注ぐことができるようになります。

順番としては【奉天会戦】が先です。

少しずつ有利な状況を作ってきた日本軍でしたが、この時点でも奉天のロシア陸軍は37万もおりました。
対する日本陸軍は、第一~第四軍まで合わせても25万ほど。

確実な記録に残っている中では、史上稀に見るレベルの大会戦です。

ちなみに「会戦」とは、大規模な陸上戦のことをいいます。
「会戦」がつく有名なものだとナポレオン戦争中の「三帝会戦(アウステルリッツの戦い)」がありますが、これでも7万vs8万5000ほど。

「会戦」とはついていないものまで含めても、奉天会戦の規模を上回るのは第二次世界大戦のレニングラード包囲戦(72万vs93万)やスターリングラード攻防戦(104万vs170万)くらいではないでしょうか。
大規模なイメージのあるノルマンディー上陸作戦も、12万vs11万ですし。(漏れがあったらスイマセン)

ともかく、奉天会戦もまた、列強に入りかけの日本にとっては空前絶後の戦いでした。

そしてここで日清戦争のときと似たような事が起きます。
ロシア軍の司令官であるクロパトキンが、なぜか我先にと撤退してしまったのです。言い訳は「戦略的撤退」でした。

奉天会戦で後退するロシア軍/Wikipediaより引用

 

対馬海峡にヤマを張り、日本海海戦!

クロパトキンの離脱によってロシア軍は足並み乱れ、さらに日本軍にとっては追い風となる南風が吹いたことで、奉天会戦は日本の勝利に終わりました。

ただ、ロシア本国では敗北を認めたがりません。
まだ切り札のバルチック艦隊が航行中でしたし、本国には兵がたくさんいたからです。

日本から見ても、まだバルチック艦隊がどこから来るのかわかっておらず、作戦を練らなければなりませんでした。

候補としては、北から順に宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡の三ヶ所。

バルチック艦隊の最終目的地はウラジオストクなので、宗谷か津軽のほうが良さそうにも見えます。
しかし、東郷平八郎は対馬にヤマを張り、新型丁字戦法の演習を繰り返して待ち構えることにしました。

日本側の予想よりもバルチック艦隊の到着が遅く、やきもきもしていたところバルチック艦隊が現れました。
場所は、予想通り、対馬海峡。

ついに【日本海海戦】の始まりです。

この戦いが始まったときの電報「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」はあまりにも有名ですが、実は当初は濃霧でした。
バルチック艦隊は霧の中をすり抜けていこうとしたようです。

が、時間が経つにつれて「晴朗」そのものの空模様となり、日本軍から見て絶好の条件が揃います。

このタイミングで掲げられたZ旗の意味「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」は、そのまま乗員の耳に届いたことでしょう。

 

東郷ターンで解消し、ポーツマス条約へ

バルチック艦隊を迎えた海軍は「東郷ターン」を繰り出します。

この戦術は、少しでもタイミングがズレるとフルボッコにされるような戦術ですから、バルチック艦隊の指揮官であるロジェストヴェンスキーは「勝った!」と思っていたそうです。

結果は真逆でした。
新型丁字戦法を用いた東郷平八郎の思い切りの良さと、部下たちの息の合った操船技術により、日本側が勝利を得たのです。

東郷平八郎(戦艦三笠の艦上にて)/wikipediaより引用

日露戦争前、“明治天皇の妻である昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬が立ち、「私が日本海軍をお守りします」とお告げした”なんてエピソードがあります。
が、日本海海戦での博打っぷりからすると、島津義弘あたりのほうが似合う気がしますね。東郷も薩摩出身ですし。

まぁ、この話は龍馬と同じ高知出身の政治家がでっち上げたともいわれていますし、ツッコむだけ野暮ですね、サーセン。

世界史に残る大勝を収めた日本は、この絶好の機会を逃さず、アメリカに連絡を取って和平の仲介を依頼しました。
これ以上長引いてまた戦闘が起これば、次は確実に日本が負ける――そんな読みであり、外交としてはこれ以上ない一手だったかもしれません。

交渉は、仲介国アメリカのポーツマスで行われました。
そのため日露戦争の講和条約は【ポーツマス条約】となっています。

 

南樺太が割譲されど賠償金はゼロだったので……

ポーツマス条約における最大の争点は、賠償金と樺太割譲でした。

外債を含む巨額の戦費を投じていた日本としては、どちらも譲れないところ。
一方のロシアから見れば、まだまだもう一戦、二戦程度はできるので、これらを渋ります。

しかし、日頃から見下していた黄色人種に負けたことは、紛れもない事実です。

ロシア国内では、貧しい暮らしを強いられていた上に、働き手の男性を奪われた一般市民によって血の日曜日事件などの反政府運動が起きていたため、あまりにゴネるのも得策ではないと判断。
双方の妥協により「南樺太を日本へ割譲」「その代わり賠償金はなし」といった内容で条約が結ばれました。

日本国民からすると「賠償金なし」はあまりにもユルイように思えました。
戦争によって働き手を取られているのですから、勝って十分な報奨がないと、当然ながら不満が溜まります。

結果、日比谷焼打事件などが起きてしまいます
また、外債返済のため政治も混乱していきます。

一方、戦ったばかりのロシアとはこの後しばらく協調路線が取られ、他の欧米諸国によるアジア進出を防ぐ方向で動くことになります。

ここに日英同盟が絡み、後年の第一次世界大戦において、日本は三国協商(英仏露)及び連合国側で関わっていくことになるわけです。

長月 七紀・記

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参考:国史大辞典「日英同盟」「日露戦争」「ポーツマス条約」 義和団の乱/Wikipedia

 





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