延暦25年(806年)3月17日は桓武天皇の命日です。
その父は光仁天皇であり、さらに辿ってゆくと志貴皇子→天智天皇へと続きます。
順に示すとこうですね。
天智天皇(曽祖父)
│
志貴皇子(祖父)
│
光仁天皇(父)
│
桓武天皇
何と言っても天智天皇は【乙巳の変】で中臣鎌足(藤原鎌足)と共に政変を成功させた人物として有名ですね。
しかし奈良時代の後半は、天智天皇の弟である天武天皇の系統で皇統が引き継がれ、若い頃の桓武天皇は皇位を継げる立ち位置にはいませんでした。実際、官位も低めだったのです。
それがどうして天皇となり、平安京への遷都など、様々な改革を実施できたのか?
桓武天皇と平安前期を見てまいりましょう。

桓武天皇/wikipediaより引用
最初は長岡京へ遷都するも藤原種継が殺されて……
宝亀元年(770年)8月、桓武天皇の父である白壁王が皇太子になり、その年の10月に即位しました。
光仁天皇の誕生です。
その息子である桓武天皇は、四年後に皇太子となるのですが、この時点で既に36歳。
当時の平均寿命からすると後半生というか、「あと何年生きられるかな……」みたいな頃合いです。
幸い健康を保ち、天応元年(781年)に父の光仁天皇が病気になったため、44歳で皇位を継承できました。
しかし、即位早々に天武天皇の子孫である氷上川継(ひがみの かわつぐ)の謀反事件や凶作、流行病などが相次いだため、改元し長岡京への遷都を行っています。
早い話、厄払いですが、その後も留守中に寵臣で藤原種継(藤原式家)が射殺される事件が起きるなど、不幸は続きました。
さらに、皇太子で桓武天皇の弟である早良親王が、種継暗殺との関連を疑われて廃位されてしまいます。
この早良親王の一件が桓武天皇の背中にのしかかりました。
彼は疑いをはらすためハンガーストライキを実施し、それが淡路へ移送される途中で亡くなってしまい、桓武天皇もその祟りを恐れるようになるのです。
当時の価値観では、民衆が「良くないことばかり起こるのは、上に立つ者に徳がないからだ。そんな天皇に従う必要はない」と考えてしまうことも珍しくありません。
そのため桓武天皇は、再び遷都し、早良親王の祟りと民衆の不信を払拭しようとします。
現代からすると「幽霊とか信じるってwww」となりそうですが、当時はガチでそういうものが信じられていましたからね。
まぁ、平安京に移ってから京都が栄えていくわけですし、結果オーライだったかも。
民に優しい政治は一歩間違えれば軍事的に危うかった
その後も宮中で「台風で壊れた建物の下敷きになって牛が死ぬ」などの凶兆がありました。
桓武天皇は丑年生まれだったので、不吉極まりないと感じられたようです。
当時、牛を殺して祀るという民間信仰があり、それまで禁じているくらいですから、相当ナーバスになっていたのでしょう。
こうした遷都のアレコレに隠れがちですが、【健児制(こんでいせい)】の導入も後世に大きな影響を与えています。
どういうことか?
桓武天皇以前の時代は、一般庶民から兵を徴用していました。
この制度では働き手を奪うことに繋がるので、当然、庶民の負担は大きくなります。
その代わりに租(この場合は米で収める税)と雑徭(ぞうよう・公共工事に参加する義務)を半分免除するという仕組みになっていました。
桓武天皇はこれに対し「庶民から働き手を取るのをやめて、地方役人の子供に軍事的な仕事をさせよう。百姓にも少しは協力してもらうけど、武芸の得意な者を集める」こととしました。
これが健児制です。
しかし、健児は多いところでも200人ぐらいしかいなかったので、この頃の日本はマトモな軍がないにも等しい状態でした。
人口が少なかったからというのもありますが、極端な言い方をすれば
【軍事力のない政府=何かあった時に対応できない無政府状態】
にも等しかったわけです。
日本が島国だったこと、この時期に外部からの侵略を受けなかったことの恩恵が実感できますね。
もしこの段階で元寇のようなことが起きていれば、一時的に他国から制圧されていた可能性も否めないでしょう。
征夷大将軍や検非違使、関白などを定めた
他にも桓武天皇は、律令制と呼ばれる当時の法律の穴埋め職として【令外官(りょうげのかん)】を定めるなどし、新しい世の中を作る努力を惜しみませんでした。
令外官の中には、征夷大将軍や検非違使、関白など、後に歴史上の重要人物が多く就いた役職も含まれています。
詳細は以下の記事をご覧ください。
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関白・検非違使・中納言など「令外官」を知れば日本史全体の解像度が上がる
続きを見る
また、式家の流れをくむ藤原緒嗣と、百済王家の子孫である菅野真道(すがのまみち・菅原道真ではない)に、より良い政治のための意見を募りました。
そこで緒嗣は「軍事と都の工事で民が苦しんでいるので、直ちにこの二つを取りやめるべきです」と主張。
真道は異を唱えましたが、桓武天皇は緒嗣の意見を容れて軍事と工事を取りやめました(この両者の議論を徳政論争と言います)。
ただ、その後に蝦夷討伐を三回やっているんですよね……これ、どういうことだってばYO!
ちなみに、二回目の討伐で活躍したのが、かの有名な坂上田村麻呂です。

坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
当初は補佐役で、三回目の討伐で征夷大将軍に任じられています。
桓武天皇としては四回目も計画していたようですが、やはり緒嗣の反対で取りやめています。
多くの皇子が誕生 臣籍降下で桓武平氏も興る
桓武天皇は後継者の確保にも力を注ぎ、多くの皇子をもうけました。
もうけすぎて臣籍降下した人も多く、息子たちは主に平氏となって桓武平氏に続き、娘達は他の貴族に嫁いで血を繋げています。
前者の子孫は平清盛の正室・時子、後者の子孫は在原業平などです。

月岡芳年が描いた平清盛/wikipediaより引用
あまりに数が多すぎてここでは書ききれません……が、興味のある方は系図をたどってみると、意外なところで繋がっていて面白いですよ。
もちろん、皇室に残った人もおり、しばらく皇位継承問題は起きずに済む……はずでした。
しかし、そうは問屋が卸さないのが世の常というもの。
桓武天皇の次に即位した平城天皇が、弟の嵯峨天皇に譲位した後も実権を握り続けようとしたことで、骨肉の争いが起きてしまいます。
前述の藤原種継の娘・薬子が絡んでいたため【薬子の変】と呼ばれている政争です。
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薬子の変は薬子が平城上皇を誑かしたから?平城京で一体何が起きていたのか
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最終的には嵯峨天皇方が勝ち、平城天皇の復位とはなりませんでした。
また、薬子が藤原氏の中でも式家と呼ばれる系統だったため、この乱以降の式家は没落同然になっていきます。
代わって、後に道長らを輩出する藤原北家が台頭していくことになるわけです。
この辺、歴史の繋がりを実感できますよね。
薬子の変後に藤原式家が没落→北家が台頭する
桓武天皇の話はここまでとして、その後の平安前期も確認しておきましょう。
薬子の変の後は、嵯峨天皇の下で、藤原北家の藤原冬嗣が土地課税を重視した政治を執り行いました。
冬嗣の息子・良房も同じ路線を引き継ぎます。

藤原良房/wikipediaより引用
良房は権力の集中化を図りました。
その代表例が【応天門の変】という他家排斥事件です。
平たくいうと「気に入らないヤツを皇居放火の犯人にでっち上げて、島流しにした」という身も蓋もない事件です。
軍事衝突ではなかったとはいえ、あまり穏便な手段とはいえませんね。こういう流れは、日本史で何回か出てきますけれども。
しかし、権力者とは自分の思うように行っていれば、乱暴でなくなることも多いものです。
応天門の変以降の良房と嵯峨天皇の時代は【貞観の治】と呼ばれ、後の政治の見本と称されるようになります。
「天皇親政の理想形」とみなされることもありますが、実権はほとんど良房にあったので、むしろ「摂関政治の例」といえるでしょう。
あるいは「天皇の政治関与が薄まり、祭祀王としての性格を固めた時期」とみなすこともできるかもしれません。
こうして藤原北家(以下「摂関家」)に権力が集中していきましたが、他家の人材が全くなかったわけではありません。
道真を追いやった時平は祟りで……
低い身分から実力で身分を高めていった人もいました。
その代表例が菅原道真です。
藤原摂関家にとって、この出世が面白くないことは、皆さんご想像の通り。
せっかく自分の家の権力を確立させたのに、またかっさらわれるかもしれないわけですからね。
ときの天皇だった宇多天皇は道真らを庇護しましたが、その息子である醍醐天皇の代になると対立が深まり、摂関家の藤原時平によって道真は太宰府へ飛ばされてしまいます。
時平は意欲的に政務へ取り組みましたが、道真を追いやってたった8年、満年齢にして38歳で亡くなってしまいました。
あまりにも唐突だったこと、他にも道真と対立していた人も同じように亡くなったことから、世間では「道真の祟りだ」と噂されています。
これを除けば、醍醐天皇と時平がタッグを組んでいた時代も「延喜の治」と呼ばれ、理想的な政治が行われていたと考えられていますが……。
祟りが本当にあるのかどうかは別として、やはり強引な手段を取ると、どこからかしっぺ返しをくらうものですね。
政治の流れはだいたいそんな感じです。
文化面も、少々見ておきましょう。
弘仁・貞観文化とは?
ここまでの平安京は、唐(中国)の影響を強く受けていました。
そもそも、平安京自体が唐の都・長安を模して造られたものですしね。
漢文や書道などにも中国の影響が強くみられ、この時期の文化を【弘仁・貞観文化】と読んでいます。
元号そのまんまなのは日本史のお約束ですね。
書道といえば【三筆】と呼ばれる三人の名書家も欠かせません。
・嵯峨天皇
・空海
・橘逸勢(たちばなの・はやなり)
上記の三人です。
逸勢だけは他の分野で名前が出てこないので、ちょっと覚えにくいかもしれませんね。
しかし彼には、なかなかなエピソードがあります。
実は逸勢、延暦二十三年(804年)の遣唐使で最澄・空海と共に大陸へ渡ったのですが、あまりに中国語ができなくて涙目状態になり、
「書と琴なら、喋れなくても身につけることができる」
と思い直したのだとか。
それで1200年後の現代まで名を残しているのですから、いやはや何ともはや。
帰国後は無実の罪で伊豆への流罪になり、その途中で亡くなってしまっています。
「能力はあるのにひたすら運が悪い人」という感じでしょうかね。
日本が“日本らしさ”に向かって歩み始めた
中国の影響を残す一方で、唐から帰国した
・最澄が天台宗
・空海が真言宗
を開き、日本の仏教が独自路線を歩み始めた時期でもありました。
日本の仏教で特に際立った特徴は、肉食を禁じていることです。
実は当初の仏教は「動物を殺すのはダメ(不殺生)だけど、肉食はしてもいい」ということになっていたのです。
つまり、現代の我々がしているように、肉屋さんなどで既に処理された肉を仏教徒が食べるのはおkとされていたのですね。
日本で家畜の肉食が禁じられたのは平安時代より前のことです。
その頃には仏教が定着していたので、日本古来の山岳信仰などが仏教に習合していったのと同じように、「仏教では肉食はダメ」ということでまとまったのでしょう。
だいぶかっ飛ばしましたが、桓武天皇と平安前期はこういった時代でした。
少々乱暴にまとめると「日本が“日本らしさ”に向かって歩み始めた」という感じでしょうか。
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【参考】
国史大辞典「桓武天皇」










