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日本史オモシロ参考書 鎌倉・室町時代 その日、歴史が動いた

南北朝時代を今こそスッキリさせよう!鎌倉時代に始まる両統迭立ややこし物語

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はじめ南北朝の、終わり応仁、三英傑で江戸が立つ――。

室町時代の足利将軍がいかに影が薄いか。
それを揶揄した言葉です……というのは真っ赤なウソで申し訳ありませんが、とにかく、この時代、始まりから終わりまで何かとややこしいのは事実ですよね。

特にスタート直後の南北朝時代
北朝と南朝に天皇家が分かれ、両家が正統性を提唱しながら朝廷を開いていくという異常事態です。

どっちが正しいの?
と、考えると最終的には北朝となりますが、結論に至るまで60年も続いてしまい、結果、私達の頭の中の年表がムズムズ、ムズムズ。

あ~、ややこしや~><;

しかし!
複雑な問題の始まりは、意外と単純なコトだったりします。

すべては二人の天皇の言動から始まっており、そこを踏まえておけば割と流れが捉えやすくなったりするもんで。

今回は、室町時代を嫌いにさせる【南北朝時代】をスッキリクリアにしておきましょう!

なお、後述する【両統迭立】は「りょうとうてつりつ」と読みます。

 

後嵯峨天皇がきちんと指名しておけば……

まずは鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、どのような天皇が、どんな順位で即位したか。
確認しておきたいと思います。

注意しておきますと、以下に出てくる天皇たちは厳密に言えば南北朝時代の主役ではなく、あくまで下地。
大きく顕在化するのは後醍醐天皇からになります。

要は、前提。
それを意識して一読しますと……。

【南北朝時代前の天皇即位】

88 後嵯峨天皇(父ちゃん 1242-1246年在位)

89 後深草天皇(兄・持明院統のはじまり)

90 亀山天皇(弟・大覚寺統のはじまり)

91 後宇多天皇(大覚寺統)

92 伏見天皇(持明院統)

93 後伏見天皇(持明院統)

94 後二条天皇(大覚寺統)

95 花園天皇(持明院統)

96 後醍醐天皇(大覚寺統)

とまぁ、このころは一応、持明院統と大覚寺統で、おおよそ順番に並んでいますね。

そして後醍醐天皇から本当の南北朝時代が始まるわけですが、まぁ、それでも十分にややこしい(´・ω・`)

なんせ小~中学生ぐらいの教科書では
「後醍醐天皇の時代に南北朝問題が起き、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に解決しました」
くらいの記述です。

おそらく紙面が足りないからでしょう。

サックリと終わらせがちですが、そもそもナゼこんなに話がややこしくなったのか。
大まかに三つの理由をマトメておきますと。

【南北朝問題3つの理由】

①ずっと実権を握っていた後嵯峨天皇が、後継者をちゃんと指名しないまま崩御した

②一度は「持明院統と大覚寺統が交代で天皇を出しましょう」という話になったのに、途中で「そんなのヤダヤダヤダ!><」(超訳)といい出した天皇が何人かいた

③仲裁に入っていた鎌倉幕府が滅び、同じく仲裁すべき室町幕府で内輪モメが始まり、それどころじゃなくなった

後嵯峨天皇/wikipediaより引用

こんな感じです。
現代人(特に受験生)にとっては「ちゃんとしてっ!」と思ってしまいますが、残念ながらこの通りなんだから仕方なく……。

ただ、最初に大きな理由を頭に入れておけば、細かい流れも呑み込みやすくなるとは思います。

もう少し細かくにコトの経過を見ていきましょう。

 

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残された後深草上皇と亀山天皇

「南北朝時代」そのものは、後醍醐天皇以降60年弱のことを指します。

原因は前述の通り、鎌倉時代の中期。
後嵯峨天皇(在位:1242~1246年)が実権を握り続ける(治天の君であり続ける)ため、短期間に自分の息子である皇子を次々に譲位・即位させ、院政を取り続けたことにありました。

しかもそれでいて、後嵯峨天皇は薨去する前に次の【治天の君】を指名しなかったのだからややこしい。

治天の君とは、実質的なTOP権力者であり、時代によって天皇がなったり、上皇(法皇)がなったりします。
この辺が3つの理由のうちの①ですね。

ここでは、残された後深草上皇(兄)と、亀山天皇(弟)のどちらが政治を主導するか、揉めに揉めたのです。

あまり話題になりませんが、皇室でも遺産相続(この場合は荘園の相続)に繋がり、権力だけでなくお財布の問題でもあります。
生きるためですから、そりゃあ御二方ともに必死ですよね。

結論が出ず、埒が明かないいので、朝廷は鎌倉幕府へ宛てて
「これこれの経緯で治天の君が決まらないので、幕府の意見を聞かせてほしい(´・ω・`)」(※イメージです)
という使いを派遣しました。

後深草天皇/wikipediaより引用

幕府としては、朝廷の争いを機に、権力介入してこれを牛耳ろう――なんて腹づもりはありません。
そもそも武士は、公家と比べて為政者としては後輩ですし、形式的には将軍という位を受けている立場ですから、積極的に関与しづらいものです。

困った幕府は、後深草上皇と亀山天皇の生母である大宮院に
「後嵯峨上皇がどのようにお考えだったか、何かご存じありませんか?」
というお伺いをたてます。

朝廷のほうでも、あらかじめ大宮院の話を聞いて、その上で幕府に連絡してれば早かったんでは?と思いますが……この辺に当時の混乱ぶりがうかがえますね。

ともかく幕府からの質問に対し、大宮院は
「(弟の)亀山天皇が親政を行うことが故院のご遺志です」
と答え、幕府でも「ではそのように」という返事を朝廷に提出。

亀山天皇が現役の天皇で【治天の君】ということになりました。

かくしてトップに立った亀山天皇は、自分の皇子である後宇多天皇に位を譲って、院政を開始し、問題は解決した――かに見えました。

亀山天皇/wikipediaより引用

 

西園寺実兼の登場

納得いかないのは兄の後深草上皇です。
幕府からの申し出に不満バリバリであり、まずは「上皇」の尊号を突っぱねて出家しようとしました。

なんとなく「どこかで聞いたような話だな……」と思った方もいらっしゃるかもしれません。

時を遡ることおおよそ130年前の【保元の乱】と似た構図なんですね。
「皇室内の兄弟の対立」と「治天の君の座・次代の皇太子を巡る対立」というところが、です。

同じ過ちを繰り返してしまう切なさよ……(´・ω・`)

鎌倉幕府のほうでもイヤな予感はしていたようで、関東申次(幕府との折衝役)である西園寺実兼と相談し、後深草・亀山両上皇の対立を避けるための方策を模索しました。

例えば、後深草上皇の皇子(後の伏見天皇)を亀山上皇の猶子として、後宇多天皇の皇太子に立てています。

「伏見天皇はイトコである後宇多天皇の次に即位する」
ということですね。

この辺から互いの血縁関係よりも
「どっちが持明院統でどっちが大覚寺統なのか」
を意識したほうがよいかもしれません。

あくまで余談ですが、鎌倉幕府の六代将軍に就任する宗尊親王(むねたかしんのう)は、後深草天皇と亀山天皇の異母兄だったりします。
後継者争いを繰り広げていた後深草天皇と亀山天皇は同母兄弟です。

普通こういうときって、異母兄弟のほうが対立したり血なまぐさいことになったりしやすいんですけどね。

宗尊親王は母親の身分が低く、最初から皇位継承の可能性がありませんでした。
そのため息子である惟康親王も七代将軍となり、持明院統vs大覚寺統の争いに巻き込まれずに済んでいます。

どこの国でも「君主になれば万々歳」と思いがちですけれども、一歩引いた位置になることで助かるという例もあるんですね。

ついでに「それぞれの系統が天皇の名前じゃなくてお寺の名前なのか」と言いますと……。

持明院統→後深草天皇が譲位後に住んでいたお寺の名前
大覚寺統→亀山天皇の子・後宇多天皇と縁の深いお寺の名前

だそうです。
チョットわかりにくい(´・ω・`)

 

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元寇が起きて幕府もドタバタしているうちに

話をもとに戻しまして。

このタイミングで元寇が起き、しばらくは朝廷も幕府も皇位継承問題どころではなくなります。

そして弘安の役が終わって数年後の弘安十年(1287年)、西園寺実兼の申し出で再び問題が表面化してしまうのです。

「そろそろ代替わりをしてもいいのでは? 次の治天の君は、新しい天皇のお父上である後深草上皇でいいですよね」

当然ながら、実権を持ち続けたい亀山上皇は、息子である後宇多天皇の譲位に反対します。

が、結局は伏見天皇が即位して後深草上皇の院政開始。
兄弟の間で、実権が入れ替わったわけですね。

こうなると、やはり「次の皇太子をどうするか」という話になります。

後宇多上皇の皇子と、伏見天皇の皇子のどちらにするか。
意見は真っ二つに割れ、既に「後深草上皇と亀山上皇の皇子を交代交代に」という流れになりつつありましたが、原則としては、やはり親子間での皇位継承が望ましい、というのも事実でして。

このとき、西園寺実兼は自分の娘を伏見天皇の中宮にしていたこともあって、伏見天皇の皇子(後の後伏見天皇)を皇太子に強く推し、その通りになりました。
さらに、伏見天皇の弟・久明親王は鎌倉幕府の八代将軍となり、朝幕間のパイプもがっちり固まった……かに見えました。

 

伏見天皇の暗殺を企む事件を機に両者の仲は……

皇位は、持明院統で落ち着いたかに見えました。

しかし、そこで事件が勃発。
浅原為頼という武士とそのオトモダチが内裏に乱入、伏見天皇の暗殺を企むというトンデモナイ事態となったのです。

持明院統は当然、大覚寺統とその代表者である亀山上皇を疑いました。
亀山上皇は無関係であることを主張しますが、これをキッカケに両統の感情は悪化し続けることになります。

また、この頃は治天の君が後深草上皇から伏見天皇になっていました。
これに伴って、朝廷での立ち位置も変わってきます。

具体的には、西園寺実兼の立場がやや弱まり、京極為兼が台頭していました。

当然、実兼と為兼は対立するわけですが、ここで実兼が持明院統を離れ、大覚寺統に接近するというスゴイ(褒めてない)ことをやってのけます。

おそらくや当時の誰もが「(゚Д゚)ハァ?」となったでしょうね。

そして実兼は、節操なく、大覚寺統として動き始めます。

後宇多上皇の皇子を皇太子にし、そのまま後二条天皇として即位。
こうなると次の皇太子を持明院統・大覚寺統どちらから出すかで当然のように揉めるわけで……。

要は「新しい天皇が即位するたびに、次の皇太子(その次の天皇)の座をお互いに争っていた」ということです。
藤原道長みたいに「娘を入内させて孫の皇子を即位させ、その後見として実権を握る」みたいな感じだったら、割とわかりやすいのですが。

後二条天皇/wikipediaより引用

 

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幕府はあらためて両統迭立を支持することに

幕府のほうにも、持明院統・大覚寺統の両方から「私達に味方してください!!」という要求が届きます。
しかし、どちらかだけに肩入れすると、後々に悪影響を及ぼす可能性が高くなります。

そこで、幕府は「ここは以前決めた通り、両方の系統を交代交代にしていきましょう(これを両統迭立と言います)」と返事をしました。
この時の天皇は大覚寺統なので、皇太子は持明院統から出しましょう、というわけです。

実質権力者の幕府から正式にこう言われてしまうと、朝廷もそれ以上はゴネられません。

そこで伏見上皇の皇子(後の花園天皇)が皇太子になります。
延慶元年(1308年)には後二条天皇が急死したため、花園天皇として即位しました。

花園天皇/wikipediaより引用

このときも幕府は改めて両統迭立を支持しています。

持明院統の天皇が即位したので、次は大覚寺統から皇太子を立てましょう、というわけです。
実際、順番でいえば、ここは後二条天皇の皇子である邦良親王が皇太子になるべきところでした。が……。

当時、邦良親王が幼かったために、中継ぎとして後二条天皇の異母弟が立つことになりました。

これが後の後醍醐天皇です。

 

「文保の御和談」で余計に揉める

後醍醐天皇が即位した段階で、両統迭立(交互に治天の君が変わる)問題が発生してから三十年近くが経過。
この頃には元寇の後始末や、御家人vs御内人(みうちびと・北条家の家臣)の対立などで、幕府でも厄介事が山積しておりました。

そのためか、花園天皇が即位して9年目に入り、大覚寺統から
「そろそろ代替わりしてもいいよね?」
という話が出たとき、鎌倉幕府は素っ気ない返事に留まります。

「今度からは幕府は介入しませんので、持明院統と大覚寺統の話し合いで継承順を決めてください」

交互に治天の君が変わる順序が半ば確定しかかっていたので、これ以上の問題は起きないと思ったのでしょうか。愛想が尽きたとかそんなまさか。

そこで、持明院統と大覚寺統の間で「文保の御和談」と呼ばれる話し合いの場が設けられます。

が、結局、意見が一致せず、和談どころか破談。
再び西園寺実兼が幕府に工作を行い、後醍醐天皇の即位と、同じ大覚寺統から皇太子を立てることが決まります。

これと討幕のアレコレが絡んでさらにややこしくなるのですが、その辺について今回はざっくり流させていただきます。
でないと余計わからなくなりますからね。

後醍醐天皇/wikipediaより引用

 

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後醍醐天皇が始めた政治でさらに混乱

大覚寺統である後醍醐天皇は、
「鎌倉幕府の両統迭立を保つ姿勢が、天皇への権力集中の妨げになる」
と考えていました。

それを解消すべく討幕を計画します。
が、そのたびにバレ、一時は後醍醐天皇自身が隠岐に流されるほどでした。

事態がさほどに単純でなくなってきたのは、天皇方の討幕計画がポシャっても、武士の内部から討幕の機運が高まっていたからでしょう。

元寇の恩賞不足や、御内人と御家人の対立に加え、ついには地方武士などが愛想を尽かし始めます。
そしてその中には、源氏の名門として知られる足利尊氏や、その同族である新田義貞などもいました。
また、楠木正成のような悪党もその流れに加わります。

彼らの活躍によって鎌倉幕府は倒れました。

これを見た後醍醐天皇は【建武の新政】と呼ばれる天皇主権の政治体制を始めます。
……が、あまりにも天皇に集権させようとして業務の停滞を招き、逆にあらゆる方面に反感を買って崩壊してしまいました。

また、新体制の不安定さを見て、関東では北条氏の残党が中先代の乱を起こしています。

これを見た足利尊氏は、後醍醐天皇への相談なしに関東へ向かい、中先代の乱を実力で収めて武士からの信望をさらに高めました。
デキるときの尊氏は本当にカッコイイんですよね……デキるときは(ボソッ)

足利尊氏の肖像とされていたが、近年では「高師直だ」という説が根強くなった一枚/Wikipediaより引用

 

新田や楠木は後醍醐天皇を支持していたが

新田義貞や楠木正成は、この間も大覚寺統の後醍醐天皇に従う動きを見せました。

持明院統にとっては苦々しい場面となりますね。

そこで後醍醐天皇方に圧されて一時九州に落ち延びていた足利尊氏を、最終的には持明院統も支持して、光明天皇を擁立。
さらに征夷大将軍の宣下を受けて、室町幕府を開くことになります。

後醍醐天皇は京を追われて吉野に逃げ延びました。

それでもなお後醍醐天皇はまだ諦めず、吉野で「自分こそ正当な天皇だ」として、南朝を開きます。

セオリー的にいうと、
・首都を奪われた
・追い出された
この時点で政治的には詰みのハズですが……。
そしてその場合、逆転を目指すのであれば、真っ先にやるべきは首都の奪還ですが……。

実は南朝方も一枚岩ではありませんでした。

少し時系列を遡りますが、楠木正成が足利尊氏との和睦を献言しても、公家などが鼻で笑って採用せず、正成が半ばヤケになって湊川の戦いで命を落としたことは割と知られた話です。
他の武士も各地で敗北し、南朝の軍はあっという間に数を減らしていくのでした。

今も歴史ファンに人気の高い楠木正成/Wikipediaより引用

さらには中核である後醍醐天皇も暦応二年=延元四年(1339年)に崩御してしまい、南朝の大義名分が薄れ始めます。
時勢はすでに北朝で固まりつつありました。

 

室町幕府でも盛大な兄弟喧嘩が始まってしまい

それでも、この時点で生き残っていた南朝方の武士は北朝との戦を続けます。
もはや目的と手段が入れ替わるという、戦をすることが義務や目的になってる空気すら感じられますね。

鎌倉幕府の滅亡が1333年、後醍醐天皇の崩御が1339年。
たった6年の間に、これだけの混乱が起きてしまったのです。

後世から眺めている我々ですら混乱するのですから、いわんや当時をや。

しかも、です。
このあたりで、北朝に属する室町幕府でも観応の擾乱が起きてしまうのだから、更にややこしや~。

観応の擾乱とは足利尊氏vs足利直義の兄弟喧嘩です。

キッカケは、
【政務担当&副将軍状態だった尊氏の弟・直義を、室町幕府のナンバー2だった高師直(こうのもろなお)らがやっかんだ】
のがそもそもの始まり。

そうなった理由は
【師直たちが南朝軍を打ち破っていたため、「直義とかもういらなくない?w」(超訳)と考えた】
からでした。

この状況で内輪揉めってどうなのよ!
せめて事が片付くまでは協力すればいいのに……と思ってしまいますが、まぁ後の祭りで。

 

今度は新田や楠木の息子たちが大活躍でとにかくカオス!

敵の混乱に乗じるのは兵法の基本。
北朝が観応の擾乱で揺れている隙を狙って、南朝方の軍が勢いづきます。

具体的には、楠木正成の息子・楠木正儀らが京都を、後醍醐天皇の皇子・宗良親王を報じる新田義貞の息子・義興と義宗が鎌倉を攻撃しました。

北朝方は京都・鎌倉を奪回したものの、南朝方が【光厳・光明・崇光の三上皇】と【三種の神器】を奪って吉野へ帰還。
大打撃を北朝に与えます。

さらには、これを見た足利直義の養子・足利直冬まで南朝に寝返り、中国・九州で勢力を拡大。
解決しきらないまま、室町幕府では尊氏が病死して息子の足利義詮が将軍となる……というカオスっぷりです。

とにかくカオス!

二代目・義詮は将軍の権威を高めつつ、南北朝の問題を解決するため、南朝方の掃討戦を計画・実行するしかありません。

と、これが決着のつかないうちに、またも幕府軍の中で内輪揉めが起き、再び京都を攻撃され……って、仲間割れ、いい加減にしぃや~(´・ω・`)

関東に目を向ければ、国人たちが関東執事・畠山国清の罷免を求めて蜂起。
これに対し、鎌倉公方(室町幕府の関東・東北統治機関のトップ)である足利基氏が要求に応じ、畠山国清を追放して、旧直義派の上杉憲顕を後任に命じます。

『古画類聚』に収められた足利義詮像/Wikipediaより引用

 

北の仲間割れで、南もキッパリ戦をやめられず

京都では、以前から強引な面があった細川清氏が義詮に追放され、新たに斯波義将が幕府のナンバー2である執事の座に就きました。

室町幕府における「執事」とは、本来ナンバー2のことです。
が、これ以降は将軍の代理という感が強くなり、斯波義将自ら「管領」と名乗るようになります。

さすがに双方落ち着き始めたのが、貞治二年=正平十八(1362年)頃のこと。
室町幕府と南朝の間で講和の動きが見え始めます。

南朝方の武将が何人か、室町幕府に帰順したことがきっかけでした。
なんでもっと早くできなかった!

後醍醐天皇薨去からここまでの動きを乱暴にまとめると

北朝:外の問題が片付いてないのに仲間割れして問題を量産する
南朝:北朝がgdgd過ぎて降伏する気にならないので戦をやめない(やめられない?)

みたいな感じです。ホントに。

なお、これに終止符を打つのが、室町幕府三代将軍・足利義満です。

足利義満/wikipediaより引用

 

義満は積極果敢に力を誇示!

義満は幼い頃、摂津に泊まった際
「ここの景色が気に入ったから持って帰りたい^^」
というダイナミックなわがままを言って、家臣たちをいろんな意味で驚かせたような人ですから、ナイーブな逸話の多い祖父・尊氏や、父・義詮とは根本的に性格が違います。

祖父や父が武家出身の母から生まれているのに対し、義満の母が聖職者の娘だったから――というのは関係ありますかね。

尊氏や義詮が「戦が起きてから対処する」という対症療法的な動きをしていたのに対し、義満は「自分の力を誇示してから戦をする」という方法をとりました。

義満は正平二十二年=貞治六年(1367年)、わずか9歳で将軍職を就任。
しばらくは周囲の重臣たちが実務を行っていました。

しかし、応安三年(1370年)からは延暦寺の取締権を与えられたり、朝廷の行事を再興させたり、北朝朝廷との結び付きを自ら強めていきます。

ほかにも寺院の建立や将軍御所の移転、将軍直属の常備軍・奉公衆の設置など、自分の周囲を固めました。

平たくいうと「世間的な地位を高めつつ、自分の身辺警護を固めて、ちょっとやそっとでは地位が揺れ動かないようにした」わけです。

上記の通り、これまでの室町幕府内部では
「誰かが何かにムカついて実力行使に出ました」
というケースが多発していました。

まずこれを防ぐために、いざとなったら叩き潰せる準備をしたのですね。

 

「いざとなったら俺がここまで来て相手してやんよ!」

義満の示威行動もなかなかのもので。
東大寺・興福寺への参詣によって南朝に、富士山や厳島神社への視察によって東国・西国の武士にプレッシャーをかけています。

「いざとなったら俺がここまで来て相手してやんよ!」
というわけです。

また、管領・斯波義将が禅宗寺院をえこひいきして、他の宗派や守護から反発を受けていたため、彼を罷免して細川頼之を後任にしています。
頼之は十年ほど幕政を主導しましたが、他の大大名との確執により、【康暦の政変】によって領地である四国へ身を引きました。

入れ替わりに義将が中央に返り咲いています。
しかし、この頃には義満自身が政治を主導するようになっていたので、以前ほど義将が反感を買うことはなかったようです。

頼之が二年ほどで赦免されて京へ戻ってくると、今度は義将が領国の越前へ引っ込んでいます。

つまり、義満がその時々の状況を見て、他の大名が暴発しないように管領に就く人間を入れ替えていたことになりますね。
どこまで意図していたのかは不明ですし、小狡いといえば小狡いですけれども、それできちんと幕府をまとめていったのだから、やっぱりヤリ手ですわなぁ。

義満が頼之や義将にブチ切れたという話もありませんしね。
当人同士の仲は良くないものの、双方ともに教養に溢れた人物でした。

 

【明徳の和約】で南北朝を合一させたのだが

義満はその後も手を緩めません。

明徳元年=元中七年(1390年)には、美濃・伊勢・尾張三ヵ国の守護である土岐氏を叩き、その翌年には山陰地方の大部分を領有していた山名氏の勢力を半減。
こうして名実ともに将軍の力を誇示することに成功し、いよいよ本丸である南朝との和平交渉に入ります。

【明徳の和約】で南北朝を合一させたのです。

ただし、こちらは「室町幕府と南朝の間で和約が成った」というもので、北朝の面々は蚊帳の外。
当然、北朝の帝だった後小松天皇らは強く反発します。

例えば、和約では「今後の皇位は両統迭立とする」とされていましたが、合一後、後小松天皇は旧南朝方ではなく、自らの皇子である称光天皇を後継者にしました。

これには旧南朝方が猛反発。
称光天皇が皇子のないまま崩御したこともあって、応仁の乱あたりまで旧南朝方(後南朝とも呼ぶ)はゴネています。

応仁の乱のドタバタでほっぽり出されて断絶し、その後は歴史の中に埋もれてしまいましたが……にしても長っ!

こうして、始まったときもモヤモヤでしたが、終わりもスッキリしないまま南北朝時代は終わったことになっています。

乱暴に表現すると
「応仁の乱以降は戦国時代になったので、南北朝とか言ってるヒマない」
みたいな感じですかね。

ともかく大変な時代。
きっちりご理解された受験生の皆様は、テストに出ることを祈るばかりですね。

長月 七紀・記




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【参考】
国史大辞典「両統迭立」「南北朝の内乱」

 



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