後醍醐天皇/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

南北朝時代を今こそスッキリさせよう!鎌倉時代に始まる両統迭立ややこし物語

更新日:

はじめ南北朝の、終わり応仁、三英傑で江戸が立つ――。

室町時代の足利将軍がいかに影が薄いか。
それを揶揄した言葉です……というのは真っ赤なウソで申し訳ありませんが、とにかく、この時代、始まりから終わりまで何かとややこしいのは事実ですよね。

特にスタート直後の南北朝時代
北朝と南朝に天皇家が分かれ、両家が正統性を提唱しながら朝廷を開いていくという異常事態です。

どっちが正しいの?
と、考えると最終的には北朝となりますが、結論に至るまで60年も続いてしまい、結果、私達の頭の中の年表がムズムズ、ムズムズ。

あ~、ややこしや~><;

しかし!
複雑な問題の始まりは、意外と単純なコトだったりします。

すべては二人の天皇の言動から始まっており、そこを踏まえておけば割と流れが捉えやすくなったりするもんで。

今回は、室町時代を嫌いにさせる【南北朝時代】をスッキリクリアにしておきましょう!

なお、後述する【両統迭立】は「りょうとうてつりつ」と読みます。

 

後嵯峨天皇がきちんと指名しておけば……

まずは鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて、どのような天皇が、どんな順位で即位したか。
確認しておきたいと思います。

注意しておきますと、以下に出てくる天皇たちは厳密に言えば南北朝時代の主役ではなく、あくまで下地。
大きく顕在化するのは後醍醐天皇からになります。

要は、前提。
それを意識して一読しますと……。

【南北朝時代前の天皇即位】

88 後嵯峨天皇(父ちゃん 1242-1246年在位)

89 後深草天皇(兄・持明院統のはじまり)

90 亀山天皇(弟・大覚寺統のはじまり)

91 後宇多天皇(大覚寺統)

92 伏見天皇(持明院統)

93 後伏見天皇(持明院統)

94 後二条天皇(大覚寺統)

95 花園天皇(持明院統)

96 後醍醐天皇(大覚寺統)

とまぁ、このころは一応、持明院統と大覚寺統で、おおよそ順番に並んでいますね。

そして後醍醐天皇から本当の南北朝時代が始まるわけですが、まぁ、それでも十分にややこしい(´・ω・`)

なんせ小~中学生ぐらいの教科書では
「後醍醐天皇の時代に南北朝問題が起き、室町幕府三代将軍・足利義満の時代に解決しました」
くらいの記述です。

おそらく紙面が足りないからでしょう。

サックリと終わらせがちですが、そもそもナゼこんなに話がややこしくなったのか。
大まかに三つの理由をマトメておきますと。

【南北朝問題3つの理由】

①ずっと実権を握っていた後嵯峨天皇が、後継者をちゃんと指名しないまま崩御した

②一度は「持明院統と大覚寺統が交代で天皇を出しましょう」という話になったのに、途中で「そんなのヤダヤダヤダ!><」(超訳)といい出した天皇が何人かいた

③仲裁に入っていた鎌倉幕府が滅び、同じく仲裁すべき室町幕府で内輪モメが始まり、それどころじゃなくなった

後嵯峨天皇/wikipediaより引用

こんな感じです。
現代人(特に受験生)にとっては「ちゃんとしてっ!」と思ってしまいますが、残念ながらこの通りなんだから仕方なく……。

ただ、最初に大きな理由を頭に入れておけば、細かい流れも呑み込みやすくなるとは思います。

もう少し細かくにコトの経過を見ていきましょう。

 

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残された後深草上皇と亀山天皇

「南北朝時代」そのものは、後醍醐天皇以降60年弱のことを指します。

原因は前述の通り、鎌倉時代の中期。
後嵯峨天皇(在位:1242~1246年)が実権を握り続ける(治天の君であり続ける)ため、短期間に自分の息子である皇子を次々に譲位・即位させ、院政を取り続けたことにありました。

しかもそれでいて、後嵯峨天皇は薨去する前に次の【治天の君】を指名しなかったのだからややこしい。

治天の君とは、実質的なTOP権力者であり、時代によって天皇がなったり、上皇(法皇)がなったりします。
この辺が3つの理由のうちの①ですね。

ここでは、残された後深草上皇(兄)と、亀山天皇(弟)のどちらが政治を主導するか、揉めに揉めたのです。

あまり話題になりませんが、皇室でも遺産相続(この場合は荘園の相続)に繋がり、権力だけでなくお財布の問題でもあります。
生きるためですから、そりゃあ御二方ともに必死ですよね。

結論が出ず、埒が明かないいので、朝廷は鎌倉幕府へ宛てて
「これこれの経緯で治天の君が決まらないので、幕府の意見を聞かせてほしい(´・ω・`)」(※イメージです)
という使いを派遣しました。

後深草天皇/wikipediaより引用

幕府としては、朝廷の争いを機に、権力介入してこれを牛耳ろう――なんて腹づもりはありません。
そもそも武士は、公家と比べて為政者としては後輩ですし、形式的には将軍という位を受けている立場ですから、積極的に関与しづらいものです。

困った幕府は、後深草上皇と亀山天皇の生母である大宮院に
「後嵯峨上皇がどのようにお考えだったか、何かご存じありませんか?」
というお伺いをたてます。

朝廷のほうでも、あらかじめ大宮院の話を聞いて、その上で幕府に連絡してれば早かったんでは?と思いますが……この辺に当時の混乱ぶりがうかがえますね。

ともかく幕府からの質問に対し、大宮院は
「(弟の)亀山天皇が親政を行うことが故院のご遺志です」
と答え、幕府でも「ではそのように」という返事を朝廷に提出。

亀山天皇が現役の天皇で【治天の君】ということになりました。

かくしてトップに立った亀山天皇は、自分の皇子である後宇多天皇に位を譲って、院政を開始し、問題は解決した――かに見えました。

亀山天皇/wikipediaより引用

 

西園寺実兼の登場

納得いかないのは兄の後深草上皇です。
幕府からの申し出に不満バリバリであり、まずは「上皇」の尊号を突っぱねて出家しようとしました。

なんとなく「どこかで聞いたような話だな……」と思った方もいらっしゃるかもしれません。

時を遡ることおおよそ130年前の【保元の乱】と似た構図なんですね。
「皇室内の兄弟の対立」と「治天の君の座・次代の皇太子を巡る対立」というところが、です。

同じ過ちを繰り返してしまう切なさよ……(´・ω・`)

鎌倉幕府のほうでもイヤな予感はしていたようで、関東申次(幕府との折衝役)である西園寺実兼と相談し、後深草・亀山両上皇の対立を避けるための方策を模索しました。

例えば、後深草上皇の皇子(後の伏見天皇)を亀山上皇の猶子として、後宇多天皇の皇太子に立てています。

「伏見天皇はイトコである後宇多天皇の次に即位する」
ということですね。

この辺から互いの血縁関係よりも
「どっちが持明院統でどっちが大覚寺統なのか」
を意識したほうがよいかもしれません。

あくまで余談ですが、鎌倉幕府の六代将軍に就任する宗尊親王(むねたかしんのう)は、後深草天皇と亀山天皇の異母兄だったりします。
後継者争いを繰り広げていた後深草天皇と亀山天皇は同母兄弟です。

普通こういうときって、異母兄弟のほうが対立したり血なまぐさいことになったりしやすいんですけどね。

宗尊親王は母親の身分が低く、最初から皇位継承の可能性がありませんでした。
そのため息子である惟康親王も七代将軍となり、持明院統vs大覚寺統の争いに巻き込まれずに済んでいます。

どこの国でも「君主になれば万々歳」と思いがちですけれども、一歩引いた位置になることで助かるという例もあるんですね。

ついでに「それぞれの系統が天皇の名前じゃなくてお寺の名前なのか」と言いますと……。

持明院統→後深草天皇が譲位後に住んでいたお寺の名前
大覚寺統→亀山天皇の子・後宇多天皇と縁の深いお寺の名前

だそうです。
チョットわかりにくい(´・ω・`)

 

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元寇が起きて幕府もドタバタしているうちに

話をもとに戻しまして。

このタイミングで元寇が起き、しばらくは朝廷も幕府も皇位継承問題どころではなくなります。

そして弘安の役が終わって数年後の弘安十年(1287年)、西園寺実兼の申し出で再び問題が表面化してしまうのです。

「そろそろ代替わりをしてもいいのでは? 次の治天の君は、新しい天皇のお父上である後深草上皇でいいですよね」

当然ながら、実権を持ち続けたい亀山上皇は、息子である後宇多天皇の譲位に反対します。

が、結局は伏見天皇が即位して後深草上皇の院政開始。
兄弟の間で、実権が入れ替わったわけですね。

こうなると、やはり「次の皇太子をどうするか」という話になります。

後宇多上皇の皇子と、伏見天皇の皇子のどちらにするか。
意見は真っ二つに割れ、既に「後深草上皇と亀山上皇の皇子を交代交代に」という流れになりつつありましたが、原則としては、やはり親子間での皇位継承が望ましい、というのも事実でして。

このとき、西園寺実兼は自分の娘を伏見天皇の中宮にしていたこともあって、伏見天皇の皇子(後の後伏見天皇)を皇太子に強く推し、その通りになりました。
さらに、伏見天皇の弟・久明親王は鎌倉幕府の八代将軍となり、朝幕間のパイプもがっちり固まった……かに見えました。

 

伏見天皇の暗殺を企む事件を機に両者の仲は……

皇位は、持明院統で落ち着いたかに見えました。

しかし、そこで事件が勃発。
浅原為頼という武士とそのオトモダチが内裏に乱入、伏見天皇の暗殺を企むというトンデモナイ事態となったのです。

持明院統は当然、大覚寺統とその代表者である亀山上皇を疑いました。
亀山上皇は無関係であることを主張しますが、これをキッカケに両統の感情は悪化し続けることになります。

また、この頃は治天の君が後深草上皇から伏見天皇になっていました。
これに伴って、朝廷での立ち位置も変わってきます。

具体的には、西園寺実兼の立場がやや弱まり、京極為兼が台頭していました。

当然、実兼と為兼は対立するわけですが、ここで実兼が持明院統を離れ、大覚寺統に接近するというスゴイ(褒めてない)ことをやってのけます。

おそらくや当時の誰もが「(゚Д゚)ハァ?」となったでしょうね。

そして実兼は、節操なく、大覚寺統として動き始めます。

後宇多上皇の皇子を皇太子にし、そのまま後二条天皇として即位。
こうなると次の皇太子を持明院統・大覚寺統どちらから出すかで当然のように揉めるわけで……。

要は「新しい天皇が即位するたびに、次の皇太子(その次の天皇)の座をお互いに争っていた」ということです。
藤原道長みたいに「娘を入内させて孫の皇子を即位させ、その後見として実権を握る」みたいな感じだったら、割とわかりやすいのですが。

後二条天皇/wikipediaより引用

 

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幕府はあらためて両統迭立を支持することに

幕府のほうにも、持明院統・大覚寺統の両方から「私達に味方してください!!」という要求が届きます。
しかし、どちらかだけに肩入れすると、後々に悪影響を及ぼす可能性が高くなります。

そこで、幕府は「ここは以前決めた通り、両方の系統を交代交代にしていきましょう(これを両統迭立と言います)」と返事をしました。
この時の天皇は大覚寺統なので、皇太子は持明院統から出しましょう、というわけです。

実質権力者の幕府から正式にこう言われてしまうと、朝廷もそれ以上はゴネられません。

そこで伏見上皇の皇子(後の花園天皇)が皇太子になります。
延慶元年(1308年)には後二条天皇が急死したため、花園天皇として即位しました。

花園天皇/wikipediaより引用

このときも幕府は改めて両統迭立を支持しています。

持明院統の天皇が即位したので、次は大覚寺統から皇太子を立てましょう、というわけです。
実際、順番でいえば、ここは後二条天皇の皇子である邦良親王が皇太子になるべきところでした。が……。

当時、邦良親王が幼かったために、中継ぎとして後二条天皇の異母弟が立つことになりました。

これが後の後醍醐天皇です。

 

「文保の御和談」で余計に揉める

後醍醐天皇が即位した段階で、両統迭立(交互に治天の君が変わる)問題が発生してから三十年近くが経過。
この頃には元寇の後始末や、御家人vs御内人(みうちびと・北条家の家臣)の対立などで、幕府でも厄介事が山積しておりました。

そのためか、花園天皇が即位して9年目に入り、大覚寺統から
「そろそろ代替わりしてもいいよね?」
という話が出たとき、鎌倉幕府は素っ気ない返事に留まります。

「今度からは幕府は介入しませんので、持明院統と大覚寺統の話し合いで継承順を決めてください」

交互に治天の君が変わる順序が半ば確定しかかっていたので、これ以上の問題は起きないと思ったのでしょうか。愛想が尽きたとかそんなまさか。




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そこで、持明院統と大覚寺統の間で「文保の御和談」と呼ばれる話し合いの場が設けられます。
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