葛飾北斎82才の頃の自画像/wikipediaより引用

江戸時代 その日、歴史が動いた

葛飾北斎はケタ外れの天才奇人!引っ越し93回、弟子200人、作品数は3万点

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天才とは、常人の考えられないことを平気でするもので。

その中でも群を抜いているのが、嘉永二年(1849年)4月18日に亡くなった葛飾北斎でしょう。

ご存知、「富嶽三十六景」に始まり、数々の名画で国内だけでなく海外でも有名な日本人です。

一方で、
・引っ越し93回
・弟子200人
・雅号(名前)を変えること30回以上
・作品3万点以上
などなど、実力も、普段の行動もとにかくぶっ飛んでいたりもします。

本日は作品と合わせて、彼の人柄なども見て参りましょう。

 

百姓の家に生まれ、貸本屋や木版彫刻家に弟子入り

北斎は、宝暦十年(1760年)、江戸の百姓の家に生まれました。

幼い頃は鏡職人の家に養子入りして出戻ったり。
貸本屋の下働きになったり。
木版の彫刻家に弟子入りしたり。

いろいろ忙しく過ごしていたようです。

一貫しているのは【何かしら文化的なものに関わっていた】ことでしょう。

特に貸本屋で働いていたときに絵に興味を持ち、自分で描き始めたといいます。人間、どこに人生を変えるきっかけがあるかわかりませんね。

そして18歳のとき浮世絵師に弟子入りし、日本画はもちろん中国や西洋の画法も幅広く学びます。

代表作の一つ「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏/wikipediaより引用

風景画や役者絵はもちろん、大人向けのマンガ本にあたる黄表紙の挿絵など。
当初から幅広いジャンルで描いていたようです。

ただし、何のきっかけからか師匠に破門とされ、たびたび雅号(生涯で30回以上)変えながら一人でやっていくことになりました。

 

弟子・孫弟子は200人以上 残した作品は3万点以上

「葛飾北斎」を名乗り始めたのは文化二年(1802年)、42歳のときです。

それから十五年ほどして名古屋の西本願寺別院に120畳サイズの達磨半身像を描いているので、少なくともこの間に名を上げたと思われます。

他にも大阪・伊勢・紀州・吉野・信濃などさまざまなところを訪問。
特に近畿方面は少なくとも二回旅をしていて、何かしら気に入っていたと思われます。

北斎は弟子・孫弟子が200人以上いたと言います。

同時に、自身でも生涯現役で、亡くなる直前まで絵を描いており、浅草の浅草寺子院・遍照院境内で90歳で息を引き取ったとき、生涯に残した作品は3万点とも言われます。
ただし、挿絵なども1点と数えた場合になりますので、研究者さんによっては数が変わったります。

いずれにせよ、数字で見たって凄まじいことをされている方で。
同時に、日常生活も天才奇人そのものでした。

「冨嶽三十六景」凱風快晴/wikipediaより引用

 

掃除もせず部屋が汚れる度に引っ越~し♪

葛飾北斎は雅号の変更はともかく、生涯に93回も引越しをしたということから始まり、とかく常人には思いつきもしないことをいろいろやっています。

引越しについては「部屋が散らかったり汚れるたびに掃除をせず引っ越した」からだそうで。
大家さんに大迷惑ですね。その後、新しい借り手はついたんでしょうか。

「絵を描くことだけに集中したから」とのことですが、日頃料理や後片付けもしなかったといいます。
居酒屋の隣に住んだときには三食とも出前を取り、何か食べ物をもらったときにも食べた後はゴミをそのまま放置したという汚部屋ぶり。

「生魚をもらってもまた別の人にあげてしまっていた」
とか
「客が来ても自分や娘では茶を煎れず、隣の家の子供に煎れさせていた」
とか、ものぐさぶりを示す逸話が多く伝わっています。

皆さん、よくそんな小間使いをやってくれたものですね。
「あの先生なら仕方ない」とか思われてたんでしょうか。

 

二度結婚しているのは金に無頓着だったから?

荒れた生活をしているからと言って、酒やタバコに溺れることはなく。
だから90歳まで生きられたのでしょう。
大福など甘いものは好きだったようです。

さらに衣服や他の贅沢に散財することなく、本当に画業一筋だったようです。
ただ単に銭勘定が嫌いで貧乏だっただけという見方もありますが。

なぜかと申しますと、「相場の倍以上のギャラをもらうようにしていたが、米屋などの支払いのときそれを包みのまま渡していた」からだとか。
現代でいえば通帳を放り投げるようなものですし、お金が貯まらないのも当然ですね。

北斎は二度結婚しているんですが、この有様でよく奥さんにキレられなかったものですね。
子供も何人かいますし。

『肉筆画帖-鷹』/wikipediaより引用

ただし、天保の大飢饉のときにはガンガン絵を描いて何とか生計を立てているので、本当にヤバイというときの危機感はちゃんとあったようです。

というかそんな大飢饉のときに買い手がいたというのもスゴイ話ですね。
藩によっては、お偉いさんの機転で犠牲者を防げたところもあったようなので、やはりあるところにはあったんでしょうか。

そんな感じでネタの尽きない人なのですが、北斎の金銭感覚というか、価値観を示す逸話をあと二つだけご紹介しましょう。

 

医師・シーボルトが土壇場になって「お金半分でいい?」

一つは、長崎のオランダ商館長から
「日本人の男女の一生を二巻に分けて描いてほしい」
と頼まれたときのことです。

当時この商館に所属していた医師・シーボルトも同じものを依頼してきたので、北斎は注文通り二人分描いていきました。

が、館長はきちんと依頼時の金額を払ったものの、シーボルトは「給料が少ないので半額でいいか」と言ってきたのです。
天下の北斎をどんだけナメてんだよと言いたくなりますね。

もちろん北斎も怒り、「半額がダメなら一巻だけ買う」と言われても譲らず、二巻とも売らずに帰ってきてしまいました。

奥さんには「外国人向けに描いたものだから、日本人には売れないでしょう。損は損だけれど、売らなければまた貧乏してしまいますよ」と怒られます。そりゃそうだ。

しかし北斎は答えます。
「それはわかっているが、外国人に『日本人は人を見て値段を変える』と思われたらどうする」

まだほとんどの人が外国の目など意識していなかった時代に、そういう視点があったことはスゴイですよね。
奥さんと子供にとってはいい迷惑ですけども。

葛飾北斎自画像/wikipediaより引用

その後、商館長にこの話が伝わり、シーボルトの分も無事に当初の金額で買い取ってくれて、この件は丸く収まりました。
いい気分にはならなかったでしょうけどね。

また、そのお詫びか絵を気に入ってか、オランダ商館から年に数百枚の絵が注文されるようになり、本国オランダへも輸出されるようになりました。

少し時期がずれますが、ゴッホたち西洋画家やヨーロッパでジャポニズム(日本趣味)が流行ったのもこのためかもしれませんね。

黒船が来るのは北斎が亡くなってから4年後のことで、日本の様子が広まるようになるのもその後ですから、当時は「知る人ぞ知る」という扱いだったでしょう。

ただ、そのきっかけがきっかけがシーボルトの値切りかと思うと(´・ω・`)

 

ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川

他にも偉い人や有名人とのトラブルは絶えなかったようです。

唯一の例外が十一代将軍・徳川家斉ですかね。
このときはさすがの北斎も喜んでいたようです。

鷹狩り」の帰りにとある寺で休息するついでに、何人かの名画家を呼んで目の前で絵を描かせるという趣向。
北斎は、こんな行動に出ました。

まず普通に山水・花・鳥を描いた後、細長い紙を刷毛で藍色に塗るという珍妙なことをします。

皆が何をするのかと思って見守っていると、籠に入れてきた鶏の足の裏に朱色を塗ってその紙の上を歩かせました。

そして藍色の上に朱色の足跡ができた部分を指し、「竜田川でございます」と言っただけで一礼し退出――。

竜田川というのは奈良県にある古来からの紅葉の名所で、数々の和歌にも詠まれている有名なところです。

百人一首十七番
「ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」
でご存知の方もおられるかもしれません。

家斉含め、「絵は筆で描くもの」という概念にとらわれない趣向に感嘆したといわれています。

徳川家斉/wikipediaより引用

 

娘もやばし!夫よりも才能に優れて離縁となる

さて、この奇人っぷりと画才を最も受け継いだのが、娘の応為(おうい)です。

彼女は一度とある画家に嫁ぎ、
「夫よりも才能に優れていたせいでケンカして離縁」
という父の遺伝子の受け継ぎっぷりがよくわかる経緯で実家に戻っていました。

残っている作品数は北斎よりもずっと少ないのですが、応為の絵は日本画にはあまりない「光」の概念を取り入れたり、他にない作品を生み出したあたりに父の影響がうかがえます。

この親子の作品はたまに海外のマニアのところから見つかったりするので、これからもまた新しいものが出てくるかもしれませんね。

個人的には北斎の「月見る虎図」という絵が好きです。

その名の通り満月を見上げる虎の絵なのですが、寂しそうな羨ましそうな、そんな絶妙な顔をしています。

『月見る虎図』/wikipediaより引用

時代が前後しますが、中島敦の「山月記」の李徴がこんな感じじゃないかなあと思えるような絵ですよ。

親子揃って奇行も多いですけれど、それでも認めさせるだけの実力があったからこそ親子共に仕事が絶えなかったのでしょうね。

だからといってフツーの凡人が奇行だけ真似しても才能は身につきませんので、猿真似ダメゼッタイ。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
葛飾北斎/Wikipedia
幕末ガイド
葛飾応為/Wikipedia

 



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