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【エドワード7世】
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母との和解?
1897年にはヴィクトリアの在位60周年記念「ダイヤモンド・ジュビリー」が執り行われることになりました。
このときドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が参加したがりますが、ヴィクトリアはすっかりこの孫を嫌いになってしまっており、エドワード7世も同意見でした。
母子の意見が一致した珍しい出来事です。
女王はダイヤモンド・ジュビリーを「大英帝国の祭典」にしようと考え、自分の親族とイギリスの支配下にあったブリテン島・インド・カナダ・オーストラリア・香港の人々を一堂に集めて、今一度連帯感を強めることにします。
この方針のもとに各国の君主の参加は丁重にお断りし、代わりに後継者たちを名代としてくれるよう伝えて、ヴィルヘルムの参加を穏便に断ることができました。
とはいえヴィルヘルムは個人的には祖母を慕っており、この後1901年にヴィクトリアが危篤になった際は駆けつけ、自ら体の向きを変える手伝いまでしています。
不器用さについては、エドワード7世と通じるところがあるような、ないような。
頑なだった女王も少しずつ柔らかくなっていき、1900年には39年振りにアイルランドへの公式訪問を決めました。
当時行われていた南アフリカ戦争(ボーア戦争)でアイルランド兵も立派に役目を果たしていたこともあり、態度を和らげたようです。
エドワード7世も賛成し、現地でも大歓迎されましたが、81歳となった女王にはかなりの負担でもありました。
1901年に入るといよいよヴィクトリアの容態は悪化し、ほぼ寝たきりに。
もちろんエドワード7世も駆けつけています。
1月22日に彼が母の枕元ですすり泣いていると、ヴィクトリアが目を覚まし、愛称の「バーティ」と呼んだのが最後の言葉となったそうです。
「誰もが父を思い出すようにしたかった」
偉大な母の跡を継ぐエドワード7世。
いつまでも泣いてはいられず、最初の仕事として王名選びにとりかかります。
冒頭で述べた通り、彼の名前は正式には「アルバート・エドワード」であり、従来の法則であれば「アルバート1世」となるはずでした。
しかし彼は「エドワード7世」を選びました。
「イギリス王室の”アルバート”といえば、誰もが父を思い出すようにしたかった」という理由でした。泣ける。
天国でアルバートもヴィクトリアも喜んだことでしょう。
かつてよその皇帝の息子になりたがった「出来損ない」は、きちんと父の偉大さを理解した「イギリス王」になったのです。
エドワード7世は即位後も、自らの得意とする外国語と社交性を活かそうと考えました。
そこで1903年3月、初めての外遊先としてフランスへ向かいました。
当時のフランスは第三共和政で、王室外交が通用しない相手。
しかもアフリカ進出を巡って英仏領国が衝突したファショダ事件などの記憶も新しく、当初エドワード7世は歓迎されませんでした。
しかし、彼にとってパリはナポレオン3世の息子になりたがった遠い昔からの思い出の地です。
文化や人々の気質もよく知っている。
エドワード7世が鮮やかなフランス語でスピーチすると、フランス市民たちは一気に彼を歓迎するようになったとか。
やっぱり魅力的な人なんですね。
これに対する答礼として、フランス大統領エミール・ルーベが同年7月にロンドンを訪れ、植民地に関する両国間の協議を開始することにします。
1904年に英仏協商が結ばれ、これまで歴史上対立することが多かった両国が友好的に結びつきました。
ピースメーカー(平和王)
日本とイギリスの関係が深まったのも、エドワード7世の治世初期のことです。
ヴィクトリア時代にもイギリスは日本の使節を迎えたり、王子が訪日したことがあったため、エドワード7世にもいくらかの知識はあったと思われます。
1901年の12月27日、エドワード7世はクリスマス休暇の予定を取りやめて、訪英中だった伊藤博文と会見する機会を設けました。
彼は親ロシア派とされていましたが、英語で直接話せたこともあってエドワードは警戒を解いたといいます。
伊藤の帰国後、1902年1月30日に日英同盟が結ばれました。
これは当時のヨーロッパ-アジアの同盟としては珍しく対等な内容で、
「日英どちらかが二カ国以上の相手と戦争になった場合、もう一方も参戦する」
というもの。
1904年の日露戦争で大いに効いてきます。
ときのロシア皇帝ニコライ2世は王妃アレクサンドラの甥(妹の子)のため、エドワード7世は幼い頃からニコライを可愛がっていました。
そうした縁もあって個人的にはロシア寄りだったのですが、あくまで私情よりも同盟を優先し、当初仲介役になろうとしたのです。
そこで起きたのがドッガーバンク事件――ロシアのバルチック艦隊がイギリス近辺を通った際に、誤ってイギリス漁船を砲撃した上、救助も行わなかったのです。
こうなると世論もエドワード7世も一気に反ロシア・親日本に傾くのは当然のことでした。
イギリスは本土はもちろん、植民地でもロシア艦隊への入港や補給を拒否し、バルチック艦隊を大きく疲弊させました。
その結果、日本海海戦では日本が勝利し、日英同盟の延長が決定されます。
日本もイギリスの支援に感謝し、協議の末インドでもイギリスに協力することを約束。
これはイギリスにとっても大助かりで、日本への好感が増したと思われます。
また、エドワードはキリスト教徒以外の王侯に勲章を与えることを嫌がっていましたが、日露戦争後に
「明治天皇にガーター勲章を差し上げては?」
と提案されたときは快く許可を出しました。
これによって1906年にエドワード7世の弟アーサーが訪日し、ガーター勲章を授与しています。
また、エドワード7世は王太子時代に訪米したこともあってか、アメリカとの友好関係を築くことも重視しました。
ときの大統領セオドア・ルーズベルトと文通をし、関係改善に務めています。
経緯が経緯なだけに、イギリスとアメリカの間には複雑な感情がありましたが、トップ同士が良い関係を築いたことで、徐々に近づいていきました。
こうして血縁に頼り切らない外交をしたエドワードは、「ピースメーカー(平和王)」と称えられたのでした。
まさに「忙殺」な最期
しかし、内政に長年携わらせてもらえなかったことが仇となってか、議会の舵取りには難儀しました。
1908年4月に自由党政権が発足。
首相のオックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキスと、財務大臣デイヴィッド・ロイド=ジョージは「軍艦建造」と「労働者向け老齢年金制度の創設」という2つの柱を立てました。
いずれもかなりの経費を必要としたため、高額所得者への所得税や相続税の増額、そして新たに土地への課税で賄おうとします。
が、地主でもある貴族院議員たちから猛反発を受けました。そりゃ増税は誰だってイヤですよね。
下院ではこの予算案が可決されたものの、貴族院で否決されるという結果に。
そのためエドワードが間に入って与野党の話し合いとなり、「議会を解散して総選挙をし、与党側が勝ったら野党も協力する」という譲歩案が出されました。
総選挙の結果は与党が勝利し、野党も約束通り予算案を可決させました。
しかし、アスキス首相は釈然としないものを抱えていました。
「下院で可決した法案が貴族案で否決された」ということは、「大多数の庶民の賛成があるにもかかわらず、より数の少ない貴族たちがそれを否定した」ということ。
今後似たようなことが起きないとも限りません。
そのためアスキスは貴族院の権限を縮小しようと動き始めました、そのためには貴族院で同調者を増やさねばなりません。
今いる貴族院議員たちにその協力を求めても無理なことは目に見えているので、新たに貴族を叙爵して票を確保しようと考えます。
それは流石に無理な話で、エドワード7世もこれを容れる気はありませんでした。
そもそもエドワード7世はこの頃体調を崩しており、1910年3月からフランス南西部へ保養に出かけていたのです。
そこへ貴族院よりも庶民院を重んじることを柱とした改正法案の原案が送られてきましたが、それはあまりにも貴族院議員の反発が予測されるものでした。
「これは自分が間に立たねば収まらないだろう」と考えたエドワード7世は、予定を早めてイギリスへ戻ります。しかし……。
やはり休養が足りず、同年5月6日深夜に息を引き取ってしまいました。
父アルバートと似たような経緯になっているのが、運命の皮肉というか父子というか……。
国王の急逝により議会法案改正は一旦棚上げされ、5月20日に葬儀が執り行われます。
急に王位を継ぐことになった息子のジョージ5世は、父を見送った後この問題に取り組んでいくのでした。
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長月 七紀・記
【参考】
君塚直隆『ヴィクトリア女王 大英帝国の“戦う女王” (中公新書)』(→amazon)
君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで (中公新書)』(→amazon)
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
岩波 世界人名大辞典