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【エドワード7世】
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腸チフスで重体に
少し時系列が前後しますが、1871年1月にエドワード7世は大きな試練と直面しました。
かつて父の命を奪った腸チフスにかかり、重体になってしまったのです。
日頃は散々な言いようをしていたヴィクトリアもさすがに心配し、エドワード7世が滞在していたノーフォークシャーのサンドリンガム・ハウスに駆けつけました。
王太子妃アレクサンドラやその他側近もともに看病しましたが、病状はなかなか良くならず、周囲も気が気でない状態が続きます。
この頃も喪に服し続けるヴィクトリアに対して、世情の声は厳しいままでした。
しかし、王太子の重病にはさすがに論調を緩め、町の教会でも王太子の回復祈願が行われていたといいます。
そしてアルバートの命日である12月14日にエドワード7世の意識が戻り、女王も新聞各社も「奇跡だ」と大喜び。
その後エドワードは急速に回復し、クリスマスも無事に家族で迎えることができました。
ヴィクトリアもこの年は王太子一家とクリスマスや年末を過ごしたといいます。
1872年2月、ときの首相グラッドストンの発案により、セント・ポール大聖堂で王太子の回復記念礼拝が行われました。
市民や名士たちはもちろん、旧知の仲であるナポレオン3世夫妻も参加してくれたそうです。
このときどんな会話をしたんでしょうね。
ヴィクトリアにとっては「市民が王室を重視している」ことを再確認する契機にもなりました。
夏はスコットランドのバルモラル城、冬はワイト島のオズボーン・ハウスで過ごし、それ以外はウィンザー城やバッキンガム宮殿で政務をするようになったのです。
本当にアルバートが妻や息子を助けに来たのかもしれませんね。
外交の要として
ヴィクトリアもエドワード7世の社交性や外交の才について、ほんの少し見直してくれるようになりました。
1875年にエドワード7世がインド訪問を願い出たとき、女王はこれを承諾。
ちょうど彼の誕生日である11月9日に現在のムンバイに到着し、母の名代としてインドの王たちに勲章を授与したり、インド軍の閲兵を行ってまわりました。
また、公務から離れたところではヒマラヤ山麓で虎や象狩りを楽しんでいます。輿の付いた象に乗っている写真もあり、エンジョイしていたようです。
帰国の際は動物好きな妃アレクサンドラへの土産も兼ねていたのか、東洋の動物を多く連れ帰ったそうです。
王太子が歓迎されたことによってインド統治が成功していることを確信したヴィクトリアは、「インド女帝」と名乗るための法律を議会に通し、皇帝の一員となりました。
これで国際序列上では上とされていたロシア皇帝やドイツ皇帝とも並び立てます。
エドワード7世には伝えられておらず、彼にとっては寝耳に水だったそうですけれども……。
この時点でも大事なことを相談してもらえない、というのは息子としても王太子としても辛かったでしょうね。エドワード7世としてはなんとか責務を果たそうと考えていたフシがあります。
1881年にエジプトで起きたオラービーの乱では従軍を希望したのです。
王位継承者であることや、指揮能力が疑問視されたために許可が出ませんでしたが、代わりに陸軍での指揮経験があった弟・アーサーが出征し、軍功を上げてヴィクトリアを喜ばせています。
アーサーの名前は、ナポレオン戦争の英雄であるウェリントン公アーサー・ウェルズリーから取られたものだったため、母として鼻が高かったようです。
同年3月にはロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺され、女王の名代としてエドワード7世がサンクトペテルブルクに赴き、葬儀に出席。
もしもエドワード7世がエジプトで従軍していたら、こちらの役割は果たせなかったと思われますので、本人の素質的にもよかったかもしれません。
1887年にヴィクトリアの在位50周年記念を祝うゴールデン・ジュビリーが執り行われ、エドワード7世も乾杯の音頭を取るなど祝福に加わりました。
また、このときエドワード7世の息子であるアルバート・ヴィクターとジョージはアイルランドに渡り、祖母や父に代わって記念式典を行いました。
華々しい実績ではなくても、外交や国内でのエドワード7世や息子たちの存在感は徐々に増していたといえます。
ニコライ2世とジョージは激似
翌1888年は、エドワード7世にとって多忙な年となりました。
3月にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が崩御し、ベルリンでの葬儀にアレクサンドラと参加、直後に銀婚式を迎えました。
同年6月にはヴィルヘルム1世の跡を継いだフリードリヒ3世が崩御し、再びベルリンで葬儀に参加しています。
フリードリヒ3世はエドワード7世の姉ヴィッキーの夫ですから、彼にとっては義兄でもありました。
さらにこの間4月頃から、かの有名な「切り裂きジャック」(事件名は「ホワイトチャペル殺人事件」)が起き始め、エドワード7世の長男アルバート・ヴィクターが疑われていた時期もありました。
これに対するエドワード7世の反応は分かりません。耳に入ったとしても聞き流していたのでしょうかね。
さらにさらに同年10月には、ヴィッキーの息子ヴィルヘルム3世にウィーンで会おうとして断られ、母とともに激怒しています。
ヴィルヘルム3世は矜持の高い人物で、オーストリア皇帝と会うことを優先したために断ったようです。
どうも彼は「理屈は正しいが立ち居振る舞いで反感を買う」というタイプの人だったらしく、この件以外でもいろいろと「おいおいおい」という言動をやらかします。
翌1889年8月にヴィルヘルム一家がオズボーン・ハウスを訪れ、和解はしています。
同じ頃、エドワード7世の長男アルバート・ヴィクターがインドを訪問し、次次代の王として育ちつつありました。
彼も成人していたため、1891年にはヴィクトリアのいとこの娘メアリーと婚約。しかし結婚式の直前、彼はインフルエンザから肺炎を起こして1892年1月14日に亡くなってしまいました。
挙式前に未亡人となってしまったメアリーをエドワード7世の次男ジョージが支え、1893年に結婚する運びに。
この式にはジョージとそっくりなロシア皇帝ニコライ2世も参列し、ヴィクトリアが二人を時々間違えるという愉快なハプニングもありました。
二人が並んだ写真もあるのですが、本当にそっくりで現代人でも笑ってしまうほどです。
エドワード7世の反応はハッキリ伝わっていないものの、訃報の相次いだこの数年間で、数少ない笑顔のひとときだったでしょうね。
数奇な運命で結ばれた二人でしたが、ジョージは一途にメアリーを愛し、愛人も作らず温かい家庭を築きました。
彼らの長男がのちに「王冠を賭けた恋」で有名なエドワード8世です。
良い家庭で育ったからこそ、愛を最優先にしたのでしょうかね。
その頃には当然エドワード7世はこの世を去っていますが、一途に一人の女性を愛した息子や孫のそばで頭をかいていたかもしれません。
また、ジョージとメアリーの次男がのちのジョージ6世であり、その娘がエリザベス2世です。
だんだん現代に近づいてきますね。
グラッドストンへの感謝
話をエドワード7世に戻しましょう。
政治的に何かしようとすると母に頭を押さえつけられる事が多かったエドワード7世ですが、密かに見方もいました。
ヴィクトリアとたびたび対立していたウィリアム・グラッドストンです。
彼はいつまで経っても女王から政治を学ばせてもらえないエドワード7世に同情し、女王には内緒で重要な書類を見せてくれていました。
1892年にグラッドストンがうっかり口を滑らせて女王にバレてしまったのですが、この時点でエドワード7世も50歳を超えていたため、大きな問題とはならずに済んでいます。
ヴィクトリアも随分丸くなった感がありますね。
そんなわけで、エドワード7世はグラッドストンに深く感謝しており、1898年に彼が亡くなった際は率先して国葬に参加し、息子のジョージとともに棺の付添人を務めました。
女王はグラッドストンのことも嫌っており、国葬であるにもかかわらず参加せず、グラッドストン夫人への弔電だけで済ませていました。
しかし、エドワード7世が参列したため、世間の論調は穏やかだったようです。
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