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【エドワード7世】
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結婚と女性関係
王族同士かつ母子ですから、二人は全く関わらないというわけにもいきません。
1862年になると、首相パーマストンから女王へ「王太子殿下のお妃選びを始めてもよろしいのでは?」と打診がありました。
ヴィクトリアも「身を固めさせれば、いくらか素行が良くなるかも」と考え、首相に一任。
選ばれたのはデンマーク王女のアレクサンドラです。
当時オーストリアの皇后エリーザベト(愛称シシィ)と並び称されるほどの美女でした。
この時代になると写真があるので、現代人の我々も彼女たちを見比べられますが、本当に二人ともどちらが勝るとも劣らない美貌です。
あえてどちらかに分類するとすれば、アレクサンドラのほうが綺麗系、エリーザベトのほうが可愛い系でしょうかね。
両親の際と同様に、ベルギー王レオポルドがお見合いを取り計らってくれ、ベルギーでヴィクトリアとエドワード、そしてアレクサンドラは顔を合わせました。
当人たちにも女王にも異存はなく、お見合いから半年後の1863年3月10日にウィンザー城で結婚式が執り行われ、エドワードは一家の主となって自らの宮廷を構えることになりました。
二人の間には3男3女が生まれたものの、エドワードの女性関係については生涯変わらなかったので、アレクサンドラは深い悲しみを抱えて過ごしています。
エドワードにとっての大伯父・大叔父(ヴィクトリアの伯父・叔父)たちも女性関係がアレだったので、隔世遺伝みたいなものなんでしょうか。
アレクサンドラには非がないので、実に気の毒なことです。
「エドワードはアレクサンドラが結婚前に行っていた首の手術跡を嫌い、愛情が冷めてしまったのだ」という俗説もありますが……「その割に子供6人も作るんかい」という気もします。
子供が早世する懸念を考慮したとしても、そこまでしなくていいような。
政治に関与させてもらえない王太子
結婚を機に、エドワード7世には貴族院議員や枢密顧問官などの地位が与えられました。
しかし、女王の態度は相変わらず。
ヴィクトリアは毎年恒例だった議会の開会式への参加もしなくなり、夫との思い出の地であるワイト島のオズボーン・ハウスに引きこもってしまいました。
彼女は決してサボっていたわけではなく、そこで政務をしていたのですが、目立つ場に出てこないため
「女王はいつまで喪に服しているんだ?」
「仕事ができないなら、王太子を摂政にすればいいじゃないか?」
「仕事をしない王室なんて何の意味がある?」
と、世間からは批判の嵐。
もともとヴィクトリアには「一度嫌った人物について後々まで引きずる」という傾向がありました。
アルバートの生前は彼がその人物との仲立ちになって女王を説得し、うまくいくというケースが度々ありましたが、その夫がいなくなり、同じ役割をできる人もおらず、「日にち薬」しかないような状況に陥ってしまいます。
ヴィクトリアは優秀な長女・ヴィッキーとエドワー7世を何かと比較し、「無能」「出来損ない」と言って嫌っていた上に、前述の理由もあるので、溝が深まる一方。
1863年11月にはアレクサンドラの父がクリスチャン9世としてデンマーク王になっていたため、エドワードは「イギリス女王の長男であり、デンマーク王の婿」という立場になっていました。
それでいて政治を担えないというのは相当にストレスが溜まり、肩身が狭く感じたことでしょう。
アレクサンドラも夫の浮気に加えて政治的な立場までこれでは、相当辛かったでしょうね。
こうなると、エドワードは役職が必要ない仕事をもらって、最低限の役割を果たすしかありません。
デンマーク王の代替わりに伴って、大陸ではデンマークとプロイセンの間にあったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国の継承問題を巡った争いが起きかけていました。
本来イギリスは関係なかったのですが、エドワード7世は妃の実家が関わっていることもあって、デンマーク寄りの態度を取りました。
そして「なんならイギリスとデンマークの連絡役を務めよう」と政府に相談。
これも女王に止められてしまっています。
というのも、プロイセンはヴィクトリアの長女であり、エドワード7世の姉でもあるヴィッキーの嫁ぎ先だからです。
イギリスはどちらかに偏りすぎた態度を取るわけには行きません。
エドワード7世が動くとすれば、姉と連絡を取って母やイギリス政府と連携し、あくまで中立な立場から穏便に事を収められるように計らうことだったでしょうか。
ヴィクトリアとしてはエドワード7世が政治や外交に口を出してくるのは面白くなかったでしょうけれども、彼も少しずつ成長していました。
上記の問題とほぼ同時期の1860年代に、アルバートの馬の世話係だったジョン・ブラウンがヴィクトリアに仕えるようになっていました。
侍医が乗馬や馬車での外出を勧めたため、その仕事に慣れている彼に話が回ってきたのです。
しかしジョンはスコットランド人だったことからそちらの訛りがあり、酒癖が悪く、貴族社会での評判はよくありませんでした。
アルバートの思い出話もできたからか、ヴィクトリアはジョンを使い続けました。
そこで新聞はゲスな勘ぐりをし、女王のことを「ミセス・ブラウン」とあだ名したのです。これをテーマにした映画もありますね。
エドワード7世もジョンの悪評に耐えかねて、彼を罷免するよう母に願い出たことがあったのだとか。
ほんの数年前には父に素行を叱られていた彼が、母の側近の言動に眉をひそめたのですから、これは成長と言っていいでしょう。
ヴィクトリアとしてはやましい理由でジョンを取り立てていたわけではなく、息子への嫌悪も引いていなかったので、容れられませんでしたが……。
少しずつ外交に関わる
こうして内政には携わらせてもらえなかったエドワード7世。
持ち前の社交性や語学を活かし、王室外交の場では才能を発揮していきます。
特にヴィクトリアが警戒していたロシアとの関係においては、エドワード7世やすぐ下の弟・アルフレッドが結婚を介して改善に努めました。
1866年、エドワード7世にとって義妹にあたるデンマーク王女ダウマーがロシア皇太子アレクサンドル(3世)に嫁ぐことになりました。
エドワード7世は女王の反対を押し切ってサンクトペテルブルクへ直接お祝いに行き、大歓待を受けています。
そして翌1867年にパリで万博が行われた際、エドワード7世は母に
「前年の歓待に対する答礼として、ロシア皇帝にガーター勲章を差し上げるべきです。奉呈役は自分が務めます」
と申し出て、渋々ながらに了承を得ました。
さらに、1873年7月にはエドワード7世のすぐ下の弟・アルフレッドがアレクサンドル2世の娘・マリアと結婚し、英露の関係がより深まります。
ロシア皇帝が「マリアをロシア皇女として扱い続けること」や宮廷での席次を王太子妃アレクサンドラよりも上にするようゴリ押ししたため、王室内での評判はよくありませんでしたが。
特に”的”になってしまったアレクサンドラは激怒し、マリアとずっと険悪な仲でした。
アレクサンドラの妹・ダウマーがマリアの兄・アレクサンドル3世に嫁いでいましたので、デンマーク-イギリス-ロシアそれぞれの王家の繋がりは保たれています。
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