家康の妻と側室

上段(築山殿・西郷局・阿茶局)下段(お亀の方・朝日姫・徳川家康)/wikipediaより引用

徳川家

20人以上もいた徳川家康の妻・側室ってどんなメンツだったのか

2024/10/09

公家も武家も、偉くなればなるほど跡継ぎが最重視され、政略結婚が推し進められます。

しかし、それにしても「さすがにやりすぎでは?」と眉をひそめたくなるのが、

夫:徳川家康

妻:朝日姫

の組み合わせでしょう。

なんせ朝日姫は豊臣秀吉の妹で、結婚当時で44歳。

既に夫もいる身だったのに無理やり離婚させられ、家康の継室になったのです。

徳川家康の肖像画

徳川家康/wikipediaより引用

当時の平均寿命を考えれば、あと数年で寿命を迎えてもおかしくないような年齢なのに、なぜそんなことになったのか。

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朝日姫(秀吉の妹)

話は単純。

当時仲違いしていた徳川家と豊臣家の和睦のためでした。

経緯をざっくり説明しますと、

【本能寺の変】で織田信長が亡くなる

豊臣秀吉が織田家内の勢力争いで筆頭に立つ

信長と同盟関係にあった徳川家康からすると秀吉に従う気になれず

小牧・長久手の戦いでは秀吉が政略勝ちしたが安心できない

そうだ、徳川と政略結婚だ! 妹に家康へ嫁いでもらおう!

……というわけです。

前述の通り、このとき朝日姫は44歳。

朝日姫/wikipediaより引用

戦国時代当時の医療事情では、両家のかすがいになるべき子供に恵まれる可能性は皆無に等しく、人質としての立場が丸見えです。

とはいえ大権力者の兄に逆らう術はなく、当時46歳だった家康のもとへ輿入れします。

駿河府中に住んだため、家中では駿河御前(するがごぜん)と呼ばれていたそうですが……どうせなら出身地の名前か、兄に関連する名前をつけてあげたほうが良かったんじゃないですかね。

しかし、彼女もいつまでも大人しくしていません。

婚姻からわずか2年後、「母のお見舞いに行って来ます」と言って京都の聚楽第に移り、以降、徳川へは戻らなかったのです。

もともとが家康を丸め込むための結婚ですから、秀吉も「もうアイツは裏切りそうにないし、追い返す理由もないか」とでも思っていたのでしょう。

その後は朝日姫自身も病気がちになったそうで、別居から2年後に亡くなっています。

一方、徳川家康も、彼女のことは何とも思っちゃいなかったでしょう。

なぜなら彼には、記録されているだけで20人以上の妻(側室)がいます。

というわけで、ここから先は、家康の妻の中から著名な息子を産んだ方や、強烈なエピソードが残っている方をピックアップしてみましょう。

 


築山殿(長男・信康生母)

家康最初の正室です。

家康の妻として最も有名でしょうか。

築山殿/wikipediaより引用

家康がかつて今川家に臣従していた頃の結婚相手であり、彼女は父が今川家の重臣、母が今川義元の妹という身分でした。

いわば義元による家康懐柔策。

”駿河御前”と呼ばれることがありますが、朝日姫とは年代がかぶらないので見分けはつきやすいほうですかね。

最初からそういう関係だったからか、あるいは余程性格が合わなかったのか。

家康と築山殿は仲睦まじい夫婦とはいえなかったようです。

一応、長男・松平信康と長女・亀姫が生まれたのですから、家康も主君としての務めはキッチリ果たしています。

結局、築山殿も信康も処分され、非常に後味の悪い展開を迎えてしまい……その詳細は、以下の松平信康か築山殿の記事をご覧ください。

近年の研究では新たな説も出てきていますので、今後も違った見解が出てくるかもしれません。

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長勝院(次男・秀康生母)

決して無能ではないのに、秀吉の養子になっていた時期があることなどから冷遇された家康の次男・結城秀康。

その母親が長勝院です。

俗名は「お万の方」や「小督局(おごうのつぼね)」「於古茶(おこちゃ)」とされます。

もともと彼女は築山殿の身の回りの世話役を務めており、そのうち家康の目に留まってお手つきになったとか。

彼女には、秀康がお腹にいた頃

「築山殿の嫉妬に遭い、服を剥ぎ取られて真夜中の庭木にくくりつけられた」

という逸話もありますが、その頃この二人は別々の場所に住んでいたため、後世の創作でしょう。

何かと悪者にされる築山殿が実に気の毒です。

長勝院は秀康よりも長生きしているのですが、息子が亡くなったとき家康の許可を待たずに出家したといいます。

お咎めがなかったのは、たぶん家康もわかっていたからなのでしょう。あるいは、どうでもよかったとか……。

余談ですが、「万」の字が縁起が良いからか、江戸時代には他にも二人「お万の方」と呼ばれた人がいます。

一人は後述する家康の別の側室であり、もう一人は時代が飛んで、徳川家光の側室です。

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後者はよしながふみ先生の『大奥』でも男女逆転して登場した元僧侶なので、ご記憶の方も多いかもしれません。

こちらもよろしければ、上記の関連記事からご確認ください。

 

西郷局(三男・秀忠生母)

俗名は「お愛(相)の方」で、家康の三男・徳川秀忠と四男・松平忠吉の母親です。

一度、結婚していたところ、夫に先立たれて未亡人となり、今度は家康に気に入られて側室になりました。

西郷局/Wikipediaより引用

現代的な感覚で言えば二代将軍の母=勝ち組ですが、彼女自身が天正17年(1589年)に28歳の若さで亡くなっているため、徳川家の天下を見ていません。

したがって秀忠の妻・お江との嫁姑問題や江戸幕府への影響はなかったでしょう。

西郷局は、美人かつ心優しい女性だったらしく、家康はもちろん家臣や侍女にも相当慕われていたようです。

近眼だったために目を患った女性の支援も行っており、亡くなったときにはかつて恩を受けた女性たちがこぞって冥福を祈りに来たといわれています。

当時の平均寿命的に考えると江戸時代初期まで生きていてもおかしくはありませんが、その場合、息子・忠吉の早世を目の当たりにすることになるので、どちらにしろ哀れな人ということになってしまいますね。

まさに佳人薄命を地で行くような生涯。

寛永五年(1628年)には、後水尾天皇から従一位と法名「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」が贈られています。

後水尾天皇といえば、江戸時代初期において幕府とバチバチにやりあっていた天皇なのですが……なぜ西郷局を女性の最高位にしたのかよくわかりませんね。

西郷局はのちに後水尾天皇へ入内して中宮となった徳川和子の祖母でもありますので、和子の格上げのためでしょうか。

 


お勝の方(お梶の方)

幼い頃から賢さで知られた人です。

最初は「お梶の方」と呼ばれていました。

彼女の賢さを象徴する逸話がありますので、ご存じの方も多いかもしれません。

家康があるとき、家臣たちに「一番美味いものと一番まずいものは何か?」と尋ねたときの話です。

皆どちらかというと自分の好き嫌いを披露していたかと思われますが、彼女は

「一番美味しいものも一番まずいものも塩です。どんなものでも塩で適度に味を調えなければ美味しくならず、だからといって入れすぎたり塩そのままでは食べられない」

という実に理に適った返答をしました。ぐうの音も出ませんね。

その頭脳を買われてか、お梶の方は関が原の戦いや大坂の役にも男装・騎乗で同行したそうです。

特に関が原で勝利したときには、家康から

「この勝利はお梶がいたからに違いない! お前は今日から『お勝』と名乗れ!」

と言われて改名したといわれています。

家康のテンションが上がった話って珍しいですよね。

その他にも倹約家だったことがより家康の気に入ったらしく、家康の死後も幕閣から一定以上の尊敬を受けていました。

後に春日局が台頭したときにも、お勝の方のほうが序列が上だったほどです。

江戸幕府随一のキャリアウーマンといっていいでしょう。

お気に入りであるからにはもちろん子供も産んでおり、松姫・市姫という二人の娘がいます。

また、彼女は徳川家親族の子供の養育係としても重宝されました。

家康が亡くなった時点でまだ13歳だった末子・徳川頼房と、家康の孫(督姫の娘)・振姫をお勝の方が育てたとされます。

その後、頼房は水戸藩主、振姫は仙台藩主・伊達忠宗(政宗の子)の妻として、違う立場から幕府を支えることになりました。

後々への影響を残した女性ともいえそうです。

 

雲光院(阿茶局)

武田氏の家臣の娘で、本名は飯田須和といいます。

家康の側室になってからは「阿茶局」と呼ばれていました。

阿茶局(雲光院/wikipediaより引用

当初は今川氏の家臣・神尾忠重と結婚していましたが、天正五年(1577年)に死別。

忠重との間には守世と守繁という息子がいたものの、まだふたりとも幼かったため、天正七年(1579年)ごろに阿茶局が家康へ仕えるようになりました。

家康は彼女を気に入って戦場にも伴い、小牧・長久手の戦いの中で阿茶局は流産したといわれています。

家康が側室を戦場に伴っていたのは、間者や性病を避けるためと思われますが……それにしたって妊娠中の人を連れて行かなくてもいいでしょうに。

現代でもお腹が目立たない妊婦さんがいらっしゃいますので、阿茶局もそういうタイプだったんでしょうか。

その後、阿茶局自身は子供を産んでいないものの、天正十七年(1589年)以降は、母・西郷局を亡くした秀忠と忠吉の養育を任されており、信頼のほどがうかがえます。

阿茶局は家康のブレーン的な役割も果たしており、それを伝える逸話が2つあります。

ひとつは慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣でのことです。

このとき家康は和睦の使者として、淀殿の実妹であり京極高次の妻・常光院と、阿茶局を大坂城へ送りました。

そして淀殿と豊臣秀頼から誓書を受取り、和睦を成立させています。

大河ドラマ『真田丸』では斉藤由貴さん演じる阿茶局が豊臣方を丸め込んでおり、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。

淀殿/wikipediaより引用

阿茶局が髪を落としたのは、秀忠が亡くなった後のことです。

というのも、側室の中でお勝の方に並んで家康の信頼が厚かったため、

「秀忠をよろしく頼む(=出家せず俗体でいてくれ)」

と遺言されていたのでした。

ちなみに阿茶局は前述したお勝の方より23歳も年上だったのですが、亡くなったのは5年しか変わりません。

頭脳に加えて、その健康さも家康のお気に入りだったのでしょうね。

特にこの二人が対立したとか揉めたという話はないようですから、おそらくはお勝の方が年長者の阿茶局を立てるような感じでうまくやっていたと思われます。

頭のいい人同士ならではという感じがしますね。

阿茶局は家康の見込み通り、死別後もバリバリ働いています。

朝廷と幕府との橋渡しとして、元和六年(1620年)秀忠の娘・和子が後水尾天皇へ入内する際には、母親の代理としてともに上洛しています。

その後は和子が出産する際にも上洛して身の回りの世話をし、さらに寛永三年(1626年)に後水尾天皇が二条城に行幸して秀忠と家光が謁見する際にも饗応を取り仕切るなど、重要な場面で茶阿局が登場しました。

寛永七年(1630年)に秀忠と家光が上洛した際も阿茶局が同行しており、家康が望んだ通り後の世代をよく導いていたようです。

後水尾天皇も茶阿局の働きぶりを認めたようで、従一位の位を与えられています。

その後も幕府の精神的支柱を務め、寛永十四年(1637年)1月に83歳で大往生しました。

 


茶阿局(六男・松平忠輝 七男・松千代生母)

家康六男・松平忠輝と、その弟・松千代の母親です。

既婚者だったにもかかわらず土地の代官に言い寄られ、

「はねつけたところ代官が逆ギレして夫を殺したため、娘を連れて家康に直訴した」

という、なかなかインパクトの強い経緯で家康のもとに来ています。

その場で家康に気に入られ、娘と共に引き取られたのだとか。

彼女に迫った代官はもちろん処罰されています。

家康との間に子供を二人授かっていることからもわかるように、彼女は家康から寵愛された側室の一人です。

それでいて、上記の「阿茶局」と非常によく似た呼び「茶阿局(ちゃあのつぼね)」名をつけられた点がよくわかりませんが……。

さらに松千代は夭折してしまい、忠輝は順調に育ったもののいろいろとアレで両親を悩ませることになります。

忠輝は母に取り成しを頼みましたが、家康は最期まで許さず、生前の再会は叶いませんでした。

茶阿局も悲しんでいたでしょう。

 

養珠院(お万の方)

家康晩年のお気に入りだったと思われる人で、十男・頼宣(紀伊家初代)と十一男・頼房(水戸家初代)の生母です。

彼女はエピソード豊富な方で、気前の良い人物であったことが浮かび上がってきます。

お万の方(養珠院)像/
phogo by sarugajyo

例えば、江戸幕府ができてから神仏への寄進のために日本橋周辺でまとまった買い物をしたことがあったらしく、それを感謝した商人たちによって彼女の名を冠した”於満稲荷神社”が作られました。

残念ながら明暦の大火で被災してしまいましたが、その後、再建され現代にも残っています。

東京駅のすぐ近くであり、目の前の道には彼女の法名を冠して”養珠院通り”と名付けられており、長く親しまれていることがわかります。

また、彼女は異父兄の正木為春を家康に推挙したといわれています。

お万の方本人からは離れてしまいますが、この人に纏わる話も面白いのでついでにご紹介しましょう。

正木家はもともと桓武平氏系の三浦氏を名乗っていたのですが、戦国時代に正木を名乗るようになりました。

すると家康が、為春に三浦氏の名乗りを許したため、以降は三浦為春と名乗るように。

そして為春は家康の信任を受け、頼宣が2歳のときに傅役(もりやく)となり、その後、移封されるごとに供をしました。

また、南光坊天海が三浦氏の血を引いていたことから、為春と親しかったとされます。

そしてその縁から、天海は三浦家の秘宝・海老錠切(えびじょうきり)という刀を為春に譲ったのだそうです。

この刀がその後どうなったのかはよくわかりません。

おそらく三浦家に伝わったのでしょうが、八代将軍・徳川吉宗が作らせた名刀カタログ『享保名物帳』には載っていないので、紛失もしくは焼失してしまったのかもしれません。

あるいは、借金のために売ってしまった可能性も高いかと思われます。

紀州藩は「綱教の正室に五代将軍・綱吉の娘を迎えたこと」や「二代・光貞、三代・綱教、四代・頼職が全員宝永二年(1705年)に亡くなったこと」で経費が膨らみ、莫大な借金をしていた時期があるためです。

海老錠切のようないわくつきの名刀なら、借金の担保にするには十二分だったでしょう。

この借金は五代藩主となった吉宗がどうにかしたのですが、吉宗が将軍になったのは紀州藩の財政を改善した後。

徳川吉宗/wikipediaより引用

もしもこのときまでに海老錠切が三浦家にあったのなら、吉宗は名物帳に書かせたのではないでしょうか。

自分の家老の家にあった名刀のことを全く知らなかったというのは考えにくいですし。

もし仮に海老錠切を担保にして金を借りられたのだとしたら、お万の方といい三浦家といい、他人に金運をもたらすような星の下に生まれたのかもしれませんね。

妄想じみた話ですが、まあロマンということで。

家康ほどの人物とその夫人となると、世の夫婦とは異なる点が多すぎて一概にはいえませんが、どうにもこうにも幸せそうな人が少なく見えますね。

強いていうなら、お勝の方や阿茶局は”自分の才覚を発揮した上で長生きした”という点で幸福でしょうか。

また、お万の方も息子二人が御三家となったことからすると、名誉に感じているかもしれませんね。

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【参考】
歴史読本編集部 『物語 戦国を生きた女101人 (新人物文庫)』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典
日本人名大辞典
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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