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【20人以上いた家康の妻たち】
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西郷局(三男・秀忠生母)
俗名は「お愛(相)の方」で、家康の三男・徳川秀忠と四男・松平忠吉の母親です。
一度、結婚していたところ、夫に先立たれて未亡人となり、今度は家康に気に入られて側室になりました。
現代的な感覚で言えば二代将軍の母=勝ち組ですが、彼女自身が天正17年(1589年)に28歳の若さで亡くなっているため、徳川家の天下を見ていません。
したがって秀忠の妻・お江との嫁姑問題や江戸幕府への影響はなかったでしょう。
西郷局は、美人かつ心優しい女性だったらしく、家康はもちろん家臣や侍女にも相当慕われていたようです。
近眼だったために目を患った女性の支援も行っており、亡くなったときにはかつて恩を受けた女性たちがこぞって冥福を祈りに来たといわれています。
当時の平均寿命的に考えると江戸時代初期まで生きていてもおかしくはありませんが、その場合、息子・忠吉の早世を目の当たりにすることになるので、どちらにしろ哀れな人ということになってしまいますね。
まさに佳人薄命を地で行くような生涯。
寛永五年(1628年)には、後水尾天皇から従一位と法名「宝台院殿一品大夫人松誉定樹大禅定尼」が贈られています。
後水尾天皇といえば、江戸時代初期において幕府とバチバチにやりあっていた天皇なのですが……なぜ西郷局を女性の最高位にしたのかよくわかりませんね。
西郷局はのちに後水尾天皇へ入内して中宮となった徳川和子の祖母でもありますので、和子の格上げのためでしょうか。
お勝の方(お梶の方)
幼い頃から賢さで知られた人です。
最初は「お梶の方」と呼ばれていました。
彼女の賢さを象徴する逸話がありますので、ご存じの方も多いかもしれません。
家康があるとき、家臣たちに「一番美味いものと一番まずいものは何か?」と尋ねたときの話です。
皆どちらかというと自分の好き嫌いを披露していたかと思われますが、彼女は
「一番美味しいものも一番まずいものも塩です。どんなものでも塩で適度に味を調えなければ美味しくならず、だからといって入れすぎたり塩そのままでは食べられない」
という実に理に適った返答をしました。ぐうの音も出ませんね。
その頭脳を買われてか、お梶の方は関が原の戦いや大坂の役にも男装・騎乗で同行したそうです。
特に関が原で勝利したときには、家康から
「この勝利はお梶がいたからに違いない! お前は今日から『お勝』と名乗れ!」
と言われて改名したといわれています。
家康のテンションが上がった話って珍しいですよね。
その他にも倹約家だったことがより家康の気に入ったらしく、家康の死後も幕閣から一定以上の尊敬を受けていました。
後に春日局が台頭したときにも、お勝の方のほうが序列が上だったほどです。
江戸幕府随一のキャリアウーマンといっていいでしょう。
お気に入りであるからにはもちろん子供も産んでおり、松姫・市姫という二人の娘がいます。
また、彼女は徳川家親族の子供の養育係としても重宝されました。
家康が亡くなった時点でまだ13歳だった末子・徳川頼房と、家康の孫(督姫の娘)・振姫をお勝の方が育てたとされます。
その後、頼房は水戸藩主、振姫は仙台藩主・伊達忠宗(政宗の子)の妻として、違う立場から幕府を支えることになりました。
後々への影響を残した女性ともいえそうです。
雲光院(阿茶局)
武田氏の家臣の娘で、本名は飯田須和といいます。
家康の側室になってからは「阿茶局」と呼ばれていました。
当初は今川氏の家臣・神尾忠重と結婚していましたが、天正五年(1577年)に死別。
忠重との間には守世と守繁という息子がいたものの、まだふたりとも幼かったため、天正七年(1579年)ごろに阿茶局が家康へ仕えるようになりました。
家康は彼女を気に入って戦場にも伴い、小牧・長久手の戦いの中で阿茶局は流産したといわれています。
家康が側室を戦場に伴っていたのは、間者や性病を避けるためと思われますが……それにしたって妊娠中の人を連れて行かなくてもいいでしょうに。
現代でもお腹が目立たない妊婦さんがいらっしゃいますので、阿茶局もそういうタイプだったんでしょうか。
その後、阿茶局自身は子供を産んでいないものの、天正十七年(1589年)以降は、母・西郷局を亡くした秀忠と忠吉の養育を任されており、信頼のほどがうかがえます。
阿茶局は家康のブレーン的な役割も果たしており、それを伝える逸話が2つあります。
ひとつは慶長十九年(1614年)、大坂冬の陣でのことです。
このとき家康は和睦の使者として、淀殿の実妹であり京極高次の妻・常光院と、阿茶局を大坂城へ送りました。
そして淀殿と豊臣秀頼から誓書を受取り、和睦を成立させています。
大河ドラマ『真田丸』では斉藤由貴さん演じる阿茶局が豊臣方を丸め込んでおり、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。
阿茶局が髪を落としたのは、秀忠が亡くなった後のことです。
というのも、側室の中でお勝の方に並んで家康の信頼が厚かったため、
「秀忠をよろしく頼む(=出家せず俗体でいてくれ)」
と遺言されていたのでした。
ちなみに阿茶局は前述したお勝の方より23歳も年上だったのですが、亡くなったのは5年しか変わりません。
頭脳に加えて、その健康さも家康のお気に入りだったのでしょうね。
特にこの二人が対立したとか揉めたという話はないようですから、おそらくはお勝の方が年長者の阿茶局を立てるような感じでうまくやっていたと思われます。
頭のいい人同士ならではという感じがしますね。
阿茶局は家康の見込み通り、死別後もバリバリ働いています。
朝廷と幕府との橋渡しとして、元和六年(1620年)秀忠の娘・和子が後水尾天皇へ入内する際には、母親の代理としてともに上洛しています。
その後は和子が出産する際にも上洛して身の回りの世話をし、さらに寛永三年(1626年)に後水尾天皇が二条城に行幸して秀忠と家光が謁見する際にも饗応を取り仕切るなど、重要な場面で茶阿局が登場しました。
寛永七年(1630年)に秀忠と家光が上洛した際も阿茶局が同行しており、家康が望んだ通り後の世代をよく導いていたようです。
後水尾天皇も茶阿局の働きぶりを認めたようで、従一位の位を与えられています。
その後も幕府の精神的支柱を務め、寛永十四年(1637年)1月に83歳で大往生しました。
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