天正五年(1577年)7月3日、奥羽の戦国大名・伊達輝宗が、再び織田信長へ鷹を献上してきました。
非業の死を遂げたともされる政宗の父ですね。
前回の献上(126話)の際は、返礼品なども細かく書かれていましたが、今回はあまり記述がありません。
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織田氏の勢力が急拡大し、伊達氏よりも圧倒的に優位になったからでしょうか。
今回は、織田氏と東日本の大名について少し見ておきましょう。
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戦国ド真ん中の東日本とはどんな関係?
皆さんよくご存じの通り、信長は中国地方と四国地方の攻略中に【本能寺の変】で斃れたため、甲斐より東に織田家は進出していませんでした。
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しかし、いくつかの言動や手紙から、信長が東日本の攻略に関する準備をしようとしていたことがうかがえます。
まず先に、当時の関東地方・東北地方を確認しておきますと……まだまだ戦国ド真ん中です。
【東北】
・大名同士で政略結婚を繰り返していた
・雪のため冬には撤退することから、和睦と戦を短期間に繰り返して泥沼化しやすい
こんな感じで、どちらも統一は難しい状況でした。
特に関東は、応仁の乱以前からゴタゴタが始まり、以下のような戦いに代表される戦乱期が100年以上も続いておりました。
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一方、東北では、多産な伊達家の婚姻政策などもあって、混乱が激化。
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後に台頭してくる政宗は、蘆名との戦いを中心に周辺へ火の粉を撒き散らしています。
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こうした状況、織田氏から見たらどうなるのか?
後北条氏の当主は氏政
関東では、やはり後北条氏が頭が二つ三つ抜きん出た存在。
なんと言っても北条五代当主たちは、皆、一様に優秀でした。
天正五年(1577年)時点では、武田信玄や上杉謙信、今川義元らと五分に渡りあった智将・北条氏康もすでに亡くなっていて北条氏政が当主。
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織田家として、この段階で北条氏政に対しては特に明確な立場を示しておりません。
そもそも岐阜城や安土城から見た関東は、その手前に武田勝頼の「甲斐信濃上野」が立ちはだかっており、直接矛を交わす相手ではありません。
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ただし、北条が武田をバックアップするようなことがあれば織田としても困りますので、注意は払っていたでしょう。
外交に長けていた輝宗と基信
東北は、前述の通り非常にややこしい状況でした。
至るところで婚姻を進めた結果、硬直しきった各大名家の状況を打開するためには、よほど残虐になるか、上方の権威を借りるかしかありません。
そこで織田家に歩み寄ったのが当時の伊達氏当主・輝宗です。
彼は家臣の遠藤基信から勧められ、信長との連絡をある程度保っていました。
遠藤基信は修験者出身という身分でありながら、非常に切れる頭と先見性を持った人物。輝宗自身も戦より外交や人材育成などが得意なタイプでしたが、これには基信の存在も大きく影響したと思われます。
基信によって見いだされた人物として有名な例では、輝宗の嫡子・伊達政宗の近侍となった片倉景綱がいます。
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彼はもともと輝宗の徒小姓でしたが、基信によって政宗の近侍に推挙され、見事にその役目を果たしました。
輝宗は信長が鷹狩を好むと知って、過去(126話)に見事な鷹を贈っています。
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信長もその情報収集力を評価してか。返礼品だけでなく使者にも褒美を与えるなどして応えました。
信長としても、遠く離れた東北の事情を知る機会が増えるのは願ったり叶ったりでしょう。時候の挨拶程度のやり取りであれば、大した人員や費用もかかりません。
また、西から東まで全ての大名を敵に回すのも得策とはいえませんから、友好関係を築けるメリットは大きなものです。
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