織田信忠/wikipediaより引用

織田家 信長公記

父・信長から嫡男・信忠へ 豪勢な贈り物の真意は?|信長公記第156~157話

2020/06/30

天正五年(1577年)12月10日。

織田信長は三河の吉良(愛知県西尾市)で鷹狩をするため、安土を出発しました。

吉良とは、あの吉良上野介義央と縁の深い土地柄で、『信長公記』では以前にも一度、この地で鷹狩をした記録が残されています。

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※左から(すべて黄色)安土城・佐和山城・岐阜城・清州城と来て、紫色が吉良

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秀吉に褒美を与えよ

鷹狩に向かう信長はことのほか上機嫌でした。

かなり過酷な運動になるはずですが、信長にとっては現代のゴルフ感覚だったんですかね。

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というのはさておき、なぜ信長の機嫌が良かったのかと申しますと、このころ羽柴秀吉(豊臣秀吉)の播磨攻略が首尾よく進んでおり、

「秀吉が帰ったら、この乙御前(おとごぜ)の釜を褒美として渡すように」

と言付け、それから吉良へと出かけているのです。

「乙御前の釜」というのは固有名詞ではなく、「乙御前」という「形状」を指します。

全体的にふっくらとした形の釜で、下に向かって広がった形状の「尻張釜」や、浅く広い「平釜」と比較するとわかりやすいでしょうか。

「布団釜」という、平釜と乙御前の中間のような形もあります。

茶道の大家・千利休が平釜を好まなかったため、この時代の茶釜はふっくらした形状のものが流行ったようですね。

少々余談になりますが、利休は茶釜に限らず、”ふっくらした形””や”黒色の茶道具”を好んでいたと思われます。「利休好み」とされる名物に、そうした特徴のものが多いからです。

後々かの有名な”黄金の茶室”を作った秀吉と比べると、趣味のベクトルが真逆に近かったであろうことがうかがえますね。

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信長はというと、茶道具や芸術品については自分の好みではなく、

「名物と呼ばれており、世間的に価値が高いと認められているかどうか」

を重んじていた節があります。

秀吉や利休とはまた違った視点が感じられます。

モノひとつからしても、それぞれの価値観がうかがえて興味深いですね。

 


この日の獲物は雁や鶴

閑話休題。

この日、信長は佐和山に泊まりました。

垂井を経由して12日に岐阜に到着し、翌日は滞在しています。

年末には織田信忠が安土へ行き、そのまま正月を迎えています。

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この岐阜滞在のときに、出発の日時やその準備に関する指図などをしたのかもしれません。

14日に信長は清洲に到着し、15日に吉良で鷹狩を行いました。

この日の獲物は雁や鶴が多かったとあります。

後の節によると、生け捕りにした鶴も複数いたようで、この点は次々回に登場します。

19日に岐阜へ帰還しましたが、その道中で過失を犯した者を信長が手討ちにしたとか。

手討ちになった者の名前も、それ以外の情報が全く書かれておらず……一体、何があったのでしょう。

20日も岐阜に滞在していたようで、安土へ帰ったのは21日のことでした。

 

「初花」の茶入や「松花」の茶壺など

そして話は『信長公記』巻十のラスト、天正五年(1577年)暮れへと向かいます。

大晦日も近い12月28日。

信忠が岐阜から安土へ参上し、丹羽長秀の屋敷を宿所としました。

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信長は寺田善右衛門という者を使者として、信忠へ名物の数々を贈ります。

「初花」の茶入

「松花」の茶壺

「平沙落雁図(へいさらくがんず)」(絵画)

「竹の子」の花入れ

釜を吊る鎖

藤波某旧蔵の釜

曲直瀬道三旧蔵の茶碗

内赤の盆

茶道具、及び床の間などに飾る芸術品といったところですね。

平沙落雁図は中国の画家・牧谿(もっけい)作といわれている名画です。

元は足利将軍家に伝来したものでしたが、松永久秀の手に渡り、その後信長が手に入れたと考えられています。

牧谿作の国宝「煙寺晩鐘図」(畠山記念館蔵)/wikipediaより引用

曲直瀬道三は、当時の名医として知られた人物。

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正親町天皇毛利元就を診察したこともあり、皇族や公家・武家との交際手段として茶道も嗜んでいたようです。

 


またまた名物を贈る信長

これに加え、信長は翌29日にもう一度使者を立て、信忠に名物を贈りました。

この日の使者は松井友閑です。

・珠徳(しゅとく)作の茶杓

・武野紹鴎(たけの・じょうおう)旧蔵のひょうたんの炭入れ

・古市澄胤(ふるいち・ちょういん)旧蔵の高麗箸(火箸)

珠徳は、当時名の知られていた茶道具職人です。生没年や足跡は詳らかではありません。

武野紹鴎は堺の豪商でした。

弘治元年(1555年)に亡くなっているので、信忠からすると「自分が生まれた頃のすごい商人」といった感じでしょうか。

古市澄胤は紹鴎よりさらに前の時代の僧侶で、永正五年(1508年)に亡くなっています。

古市家には「淋汗茶湯(りんかんちゃのゆ)」という習慣がありました。これは、夏場に水風呂で汗を流し、その後飾られた名物などを見て茶を飲むという、なかなか変わった催しです。

茶の後に酒宴が行われることなど、今日一般的にイメージされる「茶道」とはかなり異なるものでした。

澄胤も淋汗茶湯をあまり好まなかったのか、わび茶の創始者とされる村田珠光の一番弟子になったといわれています。

 

領地の代わりに名物を?

いずれも負けず劣らず、まさに「名物」と呼ぶにふさわしいものばかり。

信長が何を考えて信忠に贈ったのか?

明確な記載はありません。

しかし、これまで信長が名物を恩賞として用いていたことを考えると、信忠に

「今後、褒賞として配る領地が不足しそうなときは、この名物を渡せ」

と教えたかったのではないでしょうか。

当時はまだ毛利家の君臨する中国進出も序盤戦というところですが、順調に攻略が進めば、いずれ召し抱えている家臣の数と領地の釣り合いが取れなくなる可能性はあります。

信長にしても、既に40歳を超えていましたから、いつ健康上の問題が起きてもおかしくありません。

戦国大名にとって大切なのは、戦に勝ったり領地を広げたりすることだけではなく、死後も「自分の家が続いていくこと」です。

そのためには、自分が健康なうちにに家督と財産を相続しておかなければなりません。

織田家の場合は家督の譲渡は済んでいましたので、少しずつ財産も……という状況でしょうか。

今回は地味な話になりましたが、おそらく、この名物譲渡にはそういった意味があったと思われます。

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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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