羽柴秀吉が中国攻略を進めれば、九鬼嘉隆らが石山本願寺対策に取り組み、明智や丹羽らも精力的に動き回るなど。
まさに『信長の野望』の様相を呈してきた天正六年(1578年)の織田家で、もう一つの重要なターゲットが上杉軍のいる北陸エリアでした。
同年9月24日――。
織田信長の命により、斎藤新五(斎藤利治)が美濃・尾張の兵を連れ、越中へ出陣します。
斎藤新五とは、斎藤道三の末子といわれていて、信長にとっては義弟にあたる人物。
道三の長子・斎藤義龍の系統は断絶してしまいましたが、信長は新五を助けて近侍させ、斎藤氏の名跡を継がせようと考えていました。
斎藤道三
↓
斎藤義龍
↓
斎藤龍興
↓
こちらは断絶
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上杉家が泥沼の家督争い その隙に
天正六年(1578年)に越中へ進軍させたのは大きな理由があります。
そのころ越後で、上杉家が真っ二つに割れる【御館の乱】が発生していたのです。
上杉謙信が、後継者を決めないまま亡くなってしまったため、後継者候補だった
・上杉景勝
・上杉景虎
の両者が、多くの家臣を巻き込んで壮絶な内戦へと突き進んでいました。
その隙に織田家は越中における勢力圏を広げておこう――そう考えたのですね。
御館の乱についての詳細は以下の記事に譲り、
上杉家が真っ二つに割れた「御館の乱」謙信の死後に景勝と景虎が激突した結果は?
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概要だけ補足説明しておきますと……。
争いの当事者となった上杉景勝は謙信の姉の子(謙信にとっては甥)であり、北条景虎は後北条氏から養子入りした北条氏康の七男でした。
後顧の憂いを断ちたかった景勝は、かつて父同士が激しく争っていた武田家に和睦交渉を持ちかけ、武田勝頼がこれを受諾。
勝頼はできるだけ中立的な立場から、景勝と景虎の和睦を取り結ぼうとします。
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
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武田勝頼は最初から詰んでいた?不遇な状況で武田家を継いだ生涯37年
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ところが……。
越中武士・神保長住の援軍
このタイミングで徳川家康が武田領に侵攻してきたため、勝頼は和睦成立前に帰国を余儀なくされてしまいました。
仲介者がいなくなれば、再び争いが始まるのもごく自然なこと。
本拠である越後内でこんな状態ですから、景勝も景虎も、越中の拠点に兵を送る余裕などありません。
織田家や越中の武士にとっては、絶好の大チャンスであり、斎藤新五が派遣されたのですね。
今回の出陣は、先行して現地へ向かっていた越中武士・神保長住(じんぼ ながずみ)の援軍という立場です。
新五にとっては、ちょうど一年前(天正五年・1577年)、上杉謙信に手痛い敗戦を喫した【手取川の戦い】に対する雪辱の機会でもありました。
織田軍と上杉軍が正面から激突!手取川の戦いで謙信はどこまで勝家に大勝した?
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道中にある“津毛(つけ)の城”には上杉家の椎名道之・河田長親の軍が入っていましたが、織田軍が来ると知って退散。
ここには神保長住の軍を入れて守備を任せ、新五はさらに三里(約12km)ほど進みます。そして……。
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