まだ幼い大姫が悲嘆に暮れています。
彼女は、冠者殿こと源義高の首を見てはいないけれど、その死を知ってしまった。
母の政子と実衣の姉妹が心配そうにしていて、なぜか政子が実衣の責任を問う。彼女は責任を求められる運命なんですね。
八重が子どもを集めて世話をしている話を聞いた二人は、大姫を預けてみることに。
実はこれも中世らしい感覚といえるかもしれません。後世で儒教朱子学を取り入れた後は、こうなりますので。
男女七歳にして席を同じゅうせず。
男女は七歳以降、同席して学ばない。
『論語』
八重が世話をする子たちは七歳以下のようには見えますが、時代が降ると男女のジェンダーがハッキリするのです。
男児の教育は男性、女児の教育は女性が担うようになる。
しかし明治以降、この流れは崩れ、「教育は母のもの」とされてゆきます。
自由奔放な若君(信長)に振り回される爺(政秀)のシーンは定番であり、男性側も教育の責任を感じていますよね。
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学校もない中世らしい教育――そこで八重は筆を持ち、大姫に「大」の字を書かせています。
間に点を打つと「太」姫になるとトボける八重。さらには鼻の下に筆で落書きをして笑わせようと試みるも、大姫はニコリともしない。
彼女は心の扉を完全にを閉じてしまった。
なんとかしたい……と政子が気を揉みますが、無理矢理開けようすると余計に閉じこもってしまう、気長に参りましょう――と八重が訴えます。
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義盛をなだめる範頼
そのころ源義経や源範頼が率いる源氏軍は、破竹の勢いで西日本へ進出していました。
都に足がかりを築く源氏。
対する平家は、瀬戸内海を拠り所として、抵抗をします。
最終決戦が、目の前に迫っていることは、両軍共に意識されていることでしょう。
【一ノ谷の戦い】に敗れた平家は、まず四国の屋島へ逃亡していました。
頼朝の戦略としては、義経を四国、範頼を九州に送って逃げ道を塞ぎ、その上で挟撃――というわけですが、九州へ渡海する船が不足してしまい、足止めを食らってしまいます。
元暦2年(1185年)、兵糧も届きません。
範頼軍の和田義盛は、このままでは飢え死にだと嘆いています。
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なんでも米を積んだ船が屋島で奪われ、義経の抑えも遅れているとか。義盛はもう鎌倉へ戻りたいとそわそわしています。
どうにも兵糧の輸送がうまく行っていない様子。
彼らは確かに武力を持ってはいるものの、これだけの長期間、そしてこの行軍距離ではそうそう戦っていない。どうも、あまりうまく行っておりません。
戦国時代ならばもっとスムーズに運べる場面でしょう。
かといって義盛が暴れ出すと、規律が乱れて略奪が止まらなくなります。そこで範頼が耐えるように頼んできます。
こうした場面でも、戦国時代ならばシステム化した食糧略奪と農地破壊のノウハウがあります。
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それにしても範頼はいい人だ。義盛に魚を釣ってこようとするほどで、本気かパフォーマンスか不明ではありますが(本気のような気がしますが)、きちんと御家人の心を掴む情けがあります。
嗚呼、なんて素敵な人格者なのでしょう。
豊後水軍を味方につけ
そこへ三浦義村がやってきました。
なんでも豊後水軍を味方につけたとかで、海の武士・三浦党は大活躍です。
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豊後水軍は九州の平家と争っていたため、敵の敵は味方ということで、腹を割って話し合ったら乗ってきたらしい。
北条義時のアイデアを義村が実現したようだ。
もしも平家が地元民や武士たちに優しくしていれば、こうはならなかったかもしれませんよね。
かくして九州勢は攻め込む手筈が整い、平家は逃げ道を絶たれてしまいます。
勢いよく攻め込む源氏軍。
義時も馬上で矢を放っています。
今年は甲冑も武術考証も盤石で、義時はそこまで戦闘力抜群という設定ではないようです。
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つまり彼が身体能力を発揮してズバズバ暴れる場面はなく、ここは珍しいシーンとなりそうなのでよく見ておきたい。
といっても、あくまで他の強者と比較してという話ですね。
小栗旬さんは相当気合を入れてアクションの鍛錬をされていますから、そりゃあ見せたくもなります。眼福です!
義経「坂東武者は腰抜けばかりだ!」
そのころ摂津では義経がイライラしていました。
配下には比企能員と畠山重忠がいますが、時化が酷く、足止めを喰らっていたのです。
いっそ京へ戻るか?という話すら出て、義経はキレ始めます。
「何を言っているか! 京へなど戻れない!」
すると梶原景時が提案します。
舟は馬と違って戻れない。そこで今のうちに櫓を舟の穂先につけ、後退できるようにしてはどうか。
重忠もこれには「なるほど」と感心していますが、義経が吠える。
「馬鹿じゃないか! 逃げるための道具などなぜ考える!」
景時が、ムッとして前に進むのは猪武者だと指摘すると、鶏武者よりはマシだと義経が言い返す。チキンということでしょうか。
しかも今夜出陣すると言い始めました。
たまらず三浦義澄も反対します。
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嵐の中では無理だ。土地の者も渋っている。
しかし、義経は黙るどころか、ますます猛り狂う。
「坂東武者は腰抜けばかりだ!」
同じ源氏の大将でも、和田義盛をなだめていた範頼とはまるで違いますね。
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ただ、義経も頭に血が上っていたのは理解して、少し冷静になったのでしょう。「自分は思ったことをそのまま口にするから忘れて欲しい」と景時に告げます。
と、景時が重々しい口調で答える。
「よくよく考えれば九郎殿の申される通り。艪をつけている場合ではござらぬ」
嵐をうまく使えば三日かかる阿波まで半日で着く。危険でない戦などない。そう意気軒昂になる義経。
異論はござらぬと納得する景時に、満面の笑みで応える。
「私の言うことを一番わかってくれるのは、お前だ、平三!」
そして自分の手勢だけで行くとして「屋島で待っている」と告げると、「ご無事を祈っている」と丁重に受け入れる景時です。
『逆艪の論争』
義経と景時のヤリトリに対して、重忠には疑念がありました――これだけの嵐で船を出す人がいるのかどうか。
たとえ一艘でもあの方はやる――そう酔いしれたように語る景時に、こう告げる。
「あれだけの武人をここで失ってよいのですか?」
「命を落とせばそれまでのお人だったということ、九郎義経が神に選ばれた男なら、必ず……」
景時の神頼みは悪い使われ方をしてしまう。
神と対話をして、死んでもよいと思った相手ならばどうでもよくなってしまうようだ。そういう心理的な退避ってあるんですね。
ともかく、この義経と景時の争いが有名な「逆艪(さかろ)の論争」です。それを捻ってこうしてきたのが面白い。
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景時の方が時代を先取りしています。
舟のコントロールを改善した方が、長期的に見ればよい話。
軍隊で用いる道具や技術を向上させる者が一番の名将です。
実際、こういう考え方は中国と朝鮮半島に確固としてあり、科挙を合格した官僚が軍勢を率いる背景にも、そんな考え方が影響している。
「木牛流馬」で兵糧輸送を改善した伝説のある諸葛亮。
倭寇の用いる刀と武術を取り入れ、対抗策を編み出した戚継光(せきけいこう)。
装甲船である亀甲船を生み出した李舜臣。
こうした発明名人が名将とされ、『鎌倉殿の13人』に適用すると景時の方が名将になります。
義経の奇跡的な戦闘は、彼とその配下だけが実現できるもの。再現性の低い戦術を評価すると、かえって危険に陥ることがあるものです。
やはり源義経という英雄は、その時代、そして考え方ゆえに生み出されたのだと思えてくる。
歴史は、やはり面白い。
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