本人は大したことをしていないのに、なぜか周囲に目立つ人物がいたり、派手なイベントが起きたり。
なんだか不思議な存在感のある平安貴族――それが大河ドラマ『光る君へ』にも登場している藤原為光でしょう。
劇中では阪田マサノブさんが演じる、ぶっちゃけ地味なキャラクターです。
しかし、実は藤原兼家の弟であり、花山天皇が愛した藤原忯子の父であり、ゆえに藤原斉信(はんにゃ金田さん)の父でもあり、他の娘は道長の妾になるばかりでなく、彼の邸が『紫式部日記』の著名なシーンの舞台にもなったり。
この時代においては欠かせない要素の中心にいて、決して目立ちはしないけど、この為光を知っておくと、ドラマがより楽しくなるのは間違いありません。
正暦3年(992年)6月16日はその命日。
藤原為光の生涯を振り返ってみましょう。
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子供の頃から地味な人?
藤原為光は天慶五年(942年)、藤原師輔の九男として生まれました。
母は醍醐天皇の娘・雅子内親王という高貴な方。
異母兄に藤原兼家がいます。
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兼家を兄に持つ時点で、普通ではない育ち方をイメージしそうですが、同時代における他の人々と同様、幼い頃の話はあまり伝わっていません。
父の日記『九暦』の天暦七年(953年)正月五日に少年時代の為光が登場し、少々地味というか、本人に関する話よりすぐ上の同母兄である藤原高光の話題が強めです。
この日、師輔邸では「大饗」という宴会が行われ、宴の後に高光・為光が式部卿親王に呼び出されました。
余興として呼ばれたのでしょうか。幼い兄弟は詩を諳んじたり、高光が手跡を披露したりして、為光については特別な記載がありません。
この「式部卿親王」とは、おそらく醍醐天皇の第四皇子・重明親王(906~954)のこと。
師輔の娘を妻の一人に迎えており、師輔の妻で高光・為光の母である雅子内親王とは異母きょうだいでもあります。
つまり重明親王にとって高光・為光は甥っ子なわけですね。
『九暦』の記述によると、重明親王は高光の手跡を気に入って持って帰ったらしいので、日頃から良い関係だったのかもしれません。
重明親王の日記『吏部王記』については、残念ながら散逸して現存していないとされているのですが、もしも今後見つかった場合は、師輔一家との交流も詳しくわかるかもしれません。
安和の変でヒヤリ
藤原為光は天暦十一年(957年)に従五位下に叙爵されたのを皮切りにどんどん出世していきます。
左兵衛権佐や右近衛少将といった武官が主な職でしたが、五位蔵人を務めたこともあります。
五位蔵人とは、天皇の秘書官長である蔵人頭のすぐ下にあたる役職であり、エリートコースに乗り始めたといったイメージですね。
康保四年(967年)6月に冷泉天皇が即位した後、10月に従四位下に昇進するまで蔵人を務めていました。
ヒヤリとした事件が起きたのは安和二年(969年)のこと。
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為光は高明の娘婿・為平親王の家司(エライ人に私的に仕える人)を務めていたため、連座して昇殿できなくなってしまいました。
しかし密接な関係でないことからすぐに許され、その後も昇進し続けています。
若い頃の為光にとって、かなり肝が冷えたと思われる出来事だったでしょうね。
安和二年(969年)8月に円融天皇が即位した後、同年10月に蔵人頭に任じられており、全く問題なかったことがうかがえます。
さらに、天禄元年(970年)には参議兼左近衛中将として公卿(政治を主導する太政官の中心人物たち)の一員に仲間入りしており、前途洋々といったところでした。
事件によって家は傾いてしまいましたが、高明は醍醐天皇の皇子であり血筋は抜群だったため、彼女の面倒を見ていた藤原詮子によって引き合わされています。
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異母兄たちのおかげで出世
九男である藤原為光は、セオリー通りに考えると大いなる出世は難しい。
しかし母が内親王という高貴な身分だったためか、異母兄の藤原伊尹(これただ/これまさ)や藤原兼通から引き立てられたようです。
天延元年(973年)には従三位権中納言になり、同じ年の夏に中宮大夫を兼任しました。
当時の中宮は兼通の長女・藤原媓子です。兼通の長男・藤原顕光が就任しても良さそうなものですが、それでも為光が任じられたあたりに存在感がうかがえますね。
その後も為光は順調に昇進し続け、貞元二年(977年)には従二位大納言となり、異母兄の藤原兼家を超えてしまいました。
こんなことをすれば、後に兼家から排除されたのでは?
と思われるかもしれませんが、当時の兼家は兄の兼通と対立していたため、為光が出世面で優先されたと考えられています。
しかし同年11月にその兼通も亡くなり、翌天元元年(978年)には兼家が右大臣に就任して立場が逆転。
異母兄弟の間では密かに火花がバチバチし始めます。
こうなると、勝敗の鍵を握るのは「どちらが先に天皇の外戚になるか」しかありません。
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