なぜ荒木村重は織田信長を裏切ったのか?村重過失説・光秀陰謀説・毛利傘下説の3つの説を中心に史実から考察

落合芳幾『太平記英勇伝三十八:荒木摂津守村重』/wikipediaより引用

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なぜ信長は荒木村重に裏切られたのか?浅井長政や松永久秀に続き今度は何が原因?

天正6年10月17日(1578年11月16日)は荒木村重が有岡城(伊丹城)にこもり、織田信長を裏切った日。※1

以下の地図でも確認できるように、

村重の本拠地・有岡城は現在の兵庫県伊丹市にあり、織田軍が京都から西へ進むのに避けては通れない要衝だった。

いわば絶対に裏切られてはいけない相手だけに、当初「村重が謀反の画策をしている」という噂が流れた時、信長は「ちゃんと話を聞くから、一度、説明してくれないか?」と下手に出るほど。

それでも村重は離反した。

一体なぜなのか?

今なお不可解とされる荒木村重の謀反、その理由を考察してみよう。

※1 参照:吉川弘文館『日本史「今日は何の日」事典』

 


信長に厚遇された村重 摂津国を任され

そもそも荒木村重は織田家の中でどのような立ち位置にいたのか?

元亀4年(1573年)に織田家の傘下に入った村重は、当初から信長に好意的に受け入れられ、天正2年(1574年)に伊丹城を落とすと、それを有岡城として自身の本拠地とし、信長からは摂津国の支配を任された。

現在の大阪府である摂津は、面積こそ小さいものの、当時から交易の盛んな重要エリア。

それを任されるほど信長に信頼されていたということであり、さらには同年、信長が東大寺の名香「蘭奢待」を切り取ったときにも、共に参加を許された“御奉行”に選ばれていた。

村重というと「刀に指した饅頭を喰わされる浮世絵」があまりにも有名である。

歌川国芳『太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重』/wikipediaより引用

なんとも情けない姿を後世に伝えられているが、実際は織田家の重臣と言える立場にあり、外国人宣教師からも「柴田勝家ら織田家重臣と比べて勝るとも劣らない」と評される程だった。

だからこそ不思議である。

なぜ、そんな厚遇ポジションを捨て、織田信長を裏切ったのか?

主に3つの説が掲げられ、それが以下の通り。

①村重の過失説

②光秀の陰謀説

③毛利に賭けた説

一つずつ見てみよう。

 


「毛利に寝返った」は確かに有力だが

①の“過失”とは「村重の家臣が本願寺へ兵糧を売った」というもの。

たしかに現場の軍規に照らし合わせれば重大事件だが、だからといって織田を裏切るとは突拍子もない。

例えば豊臣秀吉(羽柴秀吉)は、戦場を勝手に離れ、信長に激怒されたこともある。

そしてその直後、秀吉は別の合戦で戦功を挙げ、信長から褒美を貰っていた。

信長は結果オーライ主義であり、村重の家臣が本願寺に兵糧を売った件など、謝罪して他で武功を挙げれば問題ない話。

現に信長は「理由を聞かせてくれ」と歩み寄っているのだから、そうと説明して、また働けば良いだけの話だ。

織田信長と豊臣秀吉の肖像画
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②の“陰謀”とは「光秀の謀反に邪魔になる村重を先に葬ろうとした」というもの。

かなり荒唐無稽な話である。

光秀が本能寺の変を実行するにあたり、邪魔になる織田家の武将は誰?

というと、ほとんど全員ではないか。あまりにも多すぎて現実性はない。

逆に、光秀が「絶対に味方になって欲しい!」と考えていた細川藤孝細川忠興の父子にも見捨てられる程だった。

③の“毛利に賭けた”というのは、文字通り「中国地方の雄・毛利に寝返った」というものだ。

吉川元春(右)小早川隆景の肖像画

毛利元就の息子である吉川元春(右)と小早川隆景/wikipediaより引用

有岡城の南にいる本願寺と手を組めば、織田家の西進を食い止めることができ、毛利からの支援も期待できた。

これが一番真っ当な理由であり、実際、有力視されている。

しかし、これだけではイマイチ何か物足りないからこそ、他に2つの説も提唱されているのだろう。

そこで無視できない要素が「人事下手な信長」である。

 


浅井長政や松永久秀のように

金子拓氏の著書『織田信長 不器用すぎる天下人』でも指摘されているように、信長には「空気を読まなすぎる一面」がある。

浅井の意向を無視して朝倉へ攻め込み、浅井長政に裏切られたり。

松永久秀の意向を無視して筒井順慶を重用し、松永久秀・久通父子に裏切られたり。

人と人の関係性を軽視して行動を起こし、何度も裏切られている。

その点に関しては、幾度も同じ過ちを犯しており、では荒木村重の場合は?というと、当然、当人にも思い当たる節はあるはず。

それは、中国方面の攻略を豊臣秀吉(羽柴秀吉)に任せたことだ。

豊臣秀吉イメージイラスト

絵・富永商太

本記事でも何度か触れてきたように、有岡城は播磨侵攻への前線基地であり、立地からして荒木村重が同国の攻略を任されてもなんら不思議はない。

にも関わらず、村重の頭を飛び越えるようにして、信長は秀吉を送り込んだ。

事前に何らかの説明があれば村重の心情も変わったかもしれない。

逆に何の言葉もなしに秀吉に前へ行かれたのでは、織田家の重臣としてのプライドが傷つけられただけでなく、信長から全く信頼されてないように考えてしまい、将来に失望しても仕方ないだろう。

実際、織田家では、林秀貞佐久間信盛のように、たとえ重臣でも容易く家を追い出されてしまう例がある。

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編集管理人・五十嵐利休。 1998年に大学卒業後、都内の出版社に勤務。 書籍や雑誌の編集者を務め、2013年に新聞記者の友人と武将ジャパンを立ち上げた。 月間の最高アクセス数は960万PV超。 現在は企業のオウンドメディア運用やコンサルティング業務もこなしている。

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