エドワード7世

エドワード7世/wikipediaより引用

イギリス

英国王エドワード7世~偉大すぎる母ヴィクトリアに振り回された生涯とは

1841年11月9日は、イギリス国王エドワード7世の誕生日です。

彼は、ヴィクトリア女王という一等星のもとに生まれ、そして厳しく育てられた王でした。

「バーティ」という愛称でも知られますが、偉大な母や品行方正な父と比べられると、どうしても素行の悪い面が目立つ存在。

しかし、その生涯には興味深いエピソードもあり、捨て置けない人物だったりします。

一体どんな方だったのか?振り返ってみましょう。

エドワード7世の肖像画/wikipediaより引用

 


小さい頃からスパルタ教育で褒めてもらえず

エドワード7世は、ヴィクトリア女王と王配アルバートの第二子として生まれました。

上にいたのは姉一人だけでしたので、両親は「父のような聡明な男性に育ちますように」という願いを込めて、「アルバート・エドワード」と命名。

その割に後々の王名が「エドワード」な理由については、記事の後半でお話しします。

幼い頃のエドワード7世/wikipediaより引用

1840年代は、両親が王室外交に力を入れていた時期でしたので、エドワード7世も幼い頃からさまざまな王侯に会っています。

一例をあげると、1844年にロシア皇帝ニコライ1世が訪英した際、当時2歳のエドワード7世にロシアで一番エライ勲章を与えられていたりします。

おそらく本人は覚えていなかったでしょうけれども、母ヴィクトリアは叔父のレオポルド1世への手紙で「坊やは誇らしげにしていた」と記しているため、子供らしく喜んでいたことがわかります。かわいい。

幼いうちは王室で厳格な教育を受け、英語はもちろん、ドイツ語やフランス語をマスターしました。

この時代のイギリス王室はハノーヴァー朝=ドイツ系であり、父アルバートの出身もドイツでしたので、両親の間ではドイツ語で話すこともあったとか。

それを聞いていたエドワード7世も、勉強として教わる他にドイツ語を耳にする機会が増えて、自然と覚えていったのでしょうね。

成長した後の彼は自ら各国に赴くようになるのですが、早いうちにマルチリンガルになっていたからこそ、ハードルが低かったのかもしれません。

しかし、将来を期待されすぎたのか、エドワード7世はかなり厳しくしつけられたといわれています。

イギリス王室は基本的に長子相続でしたので、ヴィクトリアとアルバートの間に男子が生まれなければ、優秀な長女ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)が次代の王になることもありえました。

ですがそれだと女系相続となり、二代続けて王朝が代わることになってしまいます。

ヴィクトリア女王とアルバート一家/wikipediaより引用

また、外交上の理由もあって、エドワード7世が生まれた時点で「王太子」は彼の称号になっていました。

そんなわけで、謹厳実直な両親はエドワード7世を世界に恥じない王にするべく、厳格な教育をしたのです。

ですがエドワード7世には堅苦しすぎたらしく、この後さまざまな形で反発します。

 


「あなたの息子に生まれたかった」

1855年8月、エドワードは両親とともにフランスを訪問しました。

当時のフランスは一時的に帝政が復活しており、ナポレオン3世が皇帝を務めていた時期です。

彼にはまだ子供がいなかったこともあってか、エドワード7世を可愛がり、自ら御者を務めて馬車に乗せてくれました。

優しくしてくれた皇帝に深く感謝し「あなたの息子に生まれたかった」とぼやいた程だったようで。

ナポレオン3世/wikipediaより引用

ナポレオン3世がどんなリアクションしたのか、気になりますね。「思春期の少年がよその家の子になりたがる」というのは現代でもままある話ですけれども、なんとも切ないですね……。

エドワード7世の場合は将来の重責がのしかかっているわけですが、「皇帝の息子になりたい」と言ったからには、君主になること自体は嫌ではなかったのかもしれませんし。

この発言の真意が

両親が嫌い>>>>君主の重責

だったとすると、さらに切ないですよね。

 


大学デビューで両親を困らせる

エドワード7世の願いは叶えられることなく帰国し、厳格な教育は続きます。

1859年10月にオックスフォード大学に入れられ、学寮クライスト・チャーチに入って両親の手元を離れました。

しかし学問にはあまり身が入らず、女性との交際や酒、悪い遊びに没頭してしまうようになります。

両親は頭を悩ませましたが、学生時代から周囲の人には人気があったようです。

「素行はアレだが人間的には魅力がある」というのは、エドワード7世にとって大伯父にあたるジョージ4世とも共通しますね。

ジョージ4世/wikipediaより引用

オックスフォード在学中の1860年7~11月にはカナダやアメリカを訪問しているので、あまり腰を落ち着けて勉強する感じではなかったかもしれません。

アメリカ独立後にイギリスの王太子が来訪したのは史上初めてのことで、両国の関係が改善するきっかけになりました。

1861年にはイギリス陸軍に入隊して短期訓練を受け、同年10月にケンブリッジ大学へ転校したが、素行は相変わらずだったようで。

軍でのストレスもあったのかもしれませんけれども、やはり限度はあるでしょう。

どちらかというとケンブリッジのほうがよろしくない友人が多かったらしく、学則違反をたびたびやらかし、大学から父のアルバートに苦情が届いたこともありました。

アルバートはケンブリッジ大学の総長も務めていたため、示しがつかないやら恥ずかしいやらで、さらに胃を痛めてしまっています。

エドワード7世が大学に入る前に長女ヴィッキーがプロイセンへ嫁いでいき、アルバートは気落ちしていたともいわれているため、二重にダメージが加わったようです。

 

父の死と母との軋轢

体調を崩しながらも、アルバートは公務をこなし、そしてエドワードを真っ当に戻そうと駆け回りました。

そして1861年12月の冷たい雨の中、エドワード7世を直接叱るためにケンブリッジへやってきます。さすがに体調不良をおしてやってきた父の言うことを聞きました。

しかし、そこで気力が尽きてしまったのか。ウィンザー城に戻ったアルバートは倒れ、同年12月14日に息を引き取ってしまいました。

晩年のアルバートとヴィクトリア女王/wikipediaより引用

最愛の夫をあまりにも早く亡くしてしまったヴィクトリアは、

「アルバートがこんなに早く亡くなってしまったのは、あのドラ息子のせい!そんな奴に仕事を任せるなんてとんでもない!!」

と思いこみ、この後エドワード7世を遠ざけ、公的な役割をなかなか与えませんでした。

その象徴ともいえるのが、1862年に撮られたとある写真です。

エドワード7世がアルバートの胸像の前に座ったヴィクトリアと妹アリスを撮ったものなのですが。

この写真でアリスは正面=エドワードのほうを見ている一方、女王は胸像をまっすぐ見つめ、全くカメラの方を向いていません。

左手には結婚指輪らしきものも見えており、夫への愛と同時に息子への憎悪が伝わってくるようです。

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