絵・小久ヒロ

明智家

【戦国明智譚】斎藤利三 光秀の右腕として戦場を駆け抜け本能寺の変へ

投稿日:

謀反人・明智光秀に付き従った家臣といえば、その終わりが儚いことは皆さんご想像つくことでしょう。

秀吉に殺されたり。
落ち武者狩りに遭遇したり。

天下人・織田信長を斃しておきながら、彼等の結末は、主君の光秀と共に三日天下で幕を閉じてしまったのです。しかし……。

見方によっては大いなる血を残した人物もいます。

その名も斎藤利三――。

明智家の重臣であり、春日局の父でもある利三は、謀反人として命を落とし、娘は江戸幕府で多大なる功績を残したのでした。

一体いかなる人物だったか?
ナゾ多き斎藤利三の生涯を振り返ってみましょう。

 

出自や生年不明の斎藤利三

斎藤利三は、出自や生年などの多くが不明。
最大の理由は【本能寺の変】です。

主君の明智光秀が織田信長を斃した後、山崎の戦いを経て謀反人として滅亡したため、主君同様に良質な史料が残されておりません。

ゆえに利三の生年は活動時期から推定するしかなく、説としては天文3年(1534年)、あるいは天文7年(1538年)が存在します。

父の正体もまた不明です。
一応、斎藤利賢(さいとうとしかた)と考えられており、仮にこれが事実であれば、利三は美濃斎藤氏の系譜にあたります。

この「美濃の斎藤」とは、斎藤道三のことではありません。

斎藤道三64年の生涯スッキリ解説!最期は息子に殺されたマムシの一生

戦 ...

続きを見る

道三は美濃を乗っ取って「オレは斎藤氏だ!」と名乗っていただけ。
その流れとは別に美濃斎藤氏がおり、守護の土岐氏に仕えておりました。

斎藤利三もその出自の可能性が考えられるというわけです。

利三の通称は「内蔵助」で、赤穂事件で著名な大石内蔵助などと同じ名称になります。
名前の読み方は「としみつ」であるとされていますが、『明智軍記』においては「としかず」と表記されている箇所もあり、この部分も確定はしていません。

もっとも、これ以外の出自はほとんど謎に包まれたままです。

母は、蜷川親順・娘と考えられていますが、明智光秀の姉妹または叔母ではないか?という説もあり、確定するには至っていません。
ちなみに蜷川親順は政所執事代(執事の補佐)という役職に就く、室町幕府の重臣でした。

 

幕府末期の奉公衆で光秀と面識があった?

出自や生年がハッキリしない利三の前半生は、やはり闇の中。
良質な史料に初めて登場するのは実に元亀元年(1570年)のことであり、推定年齢からすると30代であり、単純に考えて生涯の半分以上が謎に包まれていることになります。

しかし、多少質の下がる史料や当時の慣習から前半生を推測している研究や文書もあります。
史実とは言い難い面もありますが、その内容をもって彼の生涯を見ていきたいと思います。

利三が明智光秀に仕え始めたのは、かなり後年になってからのこと。
父や実兄の石谷頼辰の素性から、利三もまた室町幕府末期の奉公衆だった可能性があります。

後の主君・明智光秀も奉公衆の出身と考えられており、仮にこれが事実であれば両者は若かりし頃から互いに面識があったのでしょう。

その後は父と同様、美濃斎藤氏に仕え、「西美濃三人衆」の筆頭と目された稲葉良通稲葉一鉄)の配下として活動していたと推測されています。

【美濃三人衆】稲葉一鉄(稲葉良通)! 信長の配下になった頑固一徹な武将

今 ...

続きを見る

あくまで想像ではありますが道三を没落させた【長良川の戦い】や、織田信長との抗争にも参加していた可能性も考えられますね。

長良川の戦いでマムシ撃沈~首謀者の義龍も早死して、その息子・龍興も……

戦 ...

続きを見る

しかし、斎藤家による美濃の領国経営はやがて破綻を迎えます。

美濃攻略を視野に入れていた信長と、斎藤義龍に代わって当主になった齊藤龍興。
その狭間で折衝役を務めていた稲葉良通ら西美濃三人衆(美濃三人衆)は、次第に龍興との不和により斎藤氏への忠誠心を失っていくのです。

仲たがいの理由は「龍興が一部の重臣のみを寵愛した」ことが原因でした。
上司の贔屓と部下の不満は、戦国武将もサラリーマンも同じようなものですね。

 

主の稲葉家が龍興を見限って織田家へ

龍興の方針に苛立ちを募らせ、真っ先に行動したのが三人衆の一角・安藤守就です。
娘婿の竹中重治(半兵衛)と共に龍興配下の稲葉山城を占領するというクーデターを実行しました。

「稲葉山城乗っ取り事件」半兵衛を有名にしたアノ伝説とは?

永 ...

続きを見る

が、この騒動自体は思ったほど斎藤家臣らの支持を集めることができなかったようで、結局、城は龍興に返還されます。

彼らが矛を収めたことにより一応の和解と相成ったのですが、やはり三人衆の我慢は限界に達しており、永禄10年(1567年)からは信長と内応していたようです。

そして1567年、信長が美濃への本格的侵攻を開始――。

事前に調略されていた斎藤家はもろくも崩れ【稲葉山城の戦い】、龍興は美濃からの敗走を余儀なくされました。

龍興の失脚により没落した斎藤家を見限った稲葉一鉄(稲葉貞通)は、これ以後、信長の配下として仕えます。このときの内応について利三が関与していたかどうかは不明ですが、少なくとも稲葉氏の離反に伴い、主と共に織田家へと離反したのは確実でしょう。

信長の配下になる前の斎藤時代に利三が妻を娶っていたことは確実で、その素性は道三の娘とか、良通の娘とか、あるいは姪とか様々な説が混在します。

実は、生まれてきた子供が後に江戸幕府でかなり重要な役割を担うことになるのですが、詳細は後述するとして先へ進めましょう。

 

光秀に仕えてからは信頼を獲得して大活躍

前述のとおり、良質な史料に利三の名が登場するのは元亀元年(1570年)のこと。
浅井・朝倉の裏切りに遭った信長が越前から撤退する最中、警護を命じられています。

この時はまだ稲葉良通の配下にあったようで、彼の与力という立場は変わっていなかったと考えられます。

しかし、その後まもなくして利三は良通のもとを離れ、光秀に仕えるように。
鞍替えの詳細な史料が残されておりませんが、一説では光秀が利三の能力を見込んでヘッドハンティングしたという見方もあります。

仮にこれが事実であるとすれば、親戚関係にあったとはいえ利三の能力は高く評価されていたと考えられるでしょう。

『当代記』という史料では彼のことを「信長勘当の者」と表記しており、鞍替えの際に何かしらのトラブルを起こし信長を激怒させた可能性が指摘されています。

ただし、天正8年(1580年)ごろには、信長に重用されていた茶人・津田宗及に関係した茶会に利三が出席していることから、この時期までには信長の許しを得ていたと見るべきです。

いずれにせよ利三は、光秀から非常に重用されました。

処遇を見ると明智秀満ら筆頭家臣のそれと似通った扱いを受けているのです。
やはり優秀な人物であったのでしょう。

 

各地の合戦と並行しながら丹波を攻略

詳細は不明ながら光秀が関わった主要な合戦にはほとんど従軍していたと見なされており、例えば丹波国攻略などにも貢献したはずです。

丹波周辺は国人たちが割拠する攻略の難しい地域と目されており、厳しい戦いを強いられました。

赤井直正(悪右衛門尉)50年の生涯をスッキリ解説!光秀を最も苦しめた男

鬼 ...

続きを見る

しかも、雑賀攻めや本願寺攻略など、織田家の合戦と並行しながら、丹波国のみならず丹後国の平定も見事に成し遂げ、信長から感状を受け取っています。

黒井城の戦いで光秀が躍進! 丹波衆(赤井・波多野)との激戦で得たものは?

明 ...

続きを見る

明智光秀は計34万石を所有する一大勢力に成長。
手に入れた丹波の地には重臣らが配置されました。

利三も1万石を与えられ、黒井城城主と氷上郡(現在の兵庫県付近)の統治を命じられます。

このように、急成長していく光秀の勢力拡大に伴う恩恵にあずかる形で、利三もまた織田家臣団の中で力を握っていくようになります。

しかし、主君である光秀のクーデターにより、彼もまた運命を急転させます。
利三は、織田家と長宗我部家(四国)との狭間に立たされてしまい、その動向は【本能寺の変】にも影響しているかもしれないのです……。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-明智家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.