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明智家

明智光安って何者?『麒麟がくる』で西村まさ彦さん演じる光秀の叔父

明智光安とは何者なのか?

2020年大河ドラマ『麒麟がくる』のキャストが発表されたとき、戸惑う方が多かったのがこの明智光安という武将です。

ドラマで演じられるのは名脇役としてお馴染みの西村まさ彦さん。

『真田丸』で演じた室賀正武は「黙れ、小童ぁ~!」という決め台詞が一躍話題となり、戦国ファンを飛び越え、お茶の間にも人気が広がりました。

そんな西村まさ彦さんに回ってきた役ですから注目しないワケにはいかないでしょう。

何かある武将に違いない――明智光安とは一体何者なのか?

 

光秀の父の死後、後見人となった明智光安

まずは一言で申しますと、明智光安は、明智光秀の叔父です。

ただし、他の明智一族同様、その生涯について、史実からの実態は全く分かっておりません。

系図類や『明智軍記』等を参照しますと、光安は、光秀の祖父にあたる明智光継(みつつぐ)の息子として生誕。
同時代の明智氏家督を継承したのは、兄の明智光綱(みつつな)でした。

この光綱が、光秀の父とされ、四者の関係をザックリと系図で記すとこうなります。

【光秀までの明智家三代略図】

明智光継

明智光綱(兄)ー光安(弟)―他の弟

明智光秀

明智光安は、さらにその下の弟たちである明智光久・明智光廉と共に、一門衆として兄の光綱をサポートしていたのではないかと考えられています。

しかし、その時代は長くは続きませんでした。

当主の光綱が天文7年(1538年)に早逝。
当時まだ11歳だったとされる光秀が、一族を率いるのは困難だと考えられたのでしょう。

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光秀の祖父・光継の命令により、叔父・光安を中心にした一門が事実上の実権を握り、同時に彼は光秀の後見人ともなりました。

領国経営は光安らに任せ、光秀は将来に備えた修行に明け暮れたともいいます。

 

道三に近づき御家を保っていたが……

戦乱の美濃でどう生き抜いていくか――。

明智城を中心に東美濃で勢力を有していた光安は、当時、台頭しつつあった斎藤道三に従うことで生き残りを図りました。

結果として道三は国盗りを成し遂げ、この時点での判断は正解だったと言えましょう。
後述する明智城の落城までには入道して、光安ではなく「宗寂」と名乗っていたようです。

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やがて自身の息子である義龍との対立が表面化し、衝突が避けられない情勢となります。

この親子間トラブル、かつては道三を裏切った義龍がヒール役で描かれがちでしたが、近年では道三が悪質な国盗りや政権奪取後の失政などによって家臣らの信任を失い、代わって義龍の勢力が伸びていたという見方が浮上しております。

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道三が、信長の妻・帰蝶の父であり、信長も頼りにしていたため、かなりバイアスのかかった【道三贔屓史観】とでも申しましょうか。

斎藤家は、結果的に美濃を追い出されており、いわば信長サイドから見た「勝者の歴史」だったんですね。

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3000の兵に明智城を囲まれ

道三の配下にある明智氏にとって、彼らの親子対立は他人事ではありませんでした。

どちらの勢力に味方するか。
それを決定しなければならないのです。

光安は決断に窮してしまいました。

なぜなら一説には、明智光安の娘が道三の正室として斎藤家に嫁いでいたとされ、光安からすれば道三が娘婿という関係性にあったからだと目されています。

もとより血縁関係だけでなく、個人間の親交も厚かったとされ、道三を見限れなかったようです。

ただし、美濃国内での状況は、道三が不利な立場であることは明白であり、結果的に光安は苦し紛れの「中立策」を採りました。
義龍からも帰順勧告は届いていながら、「味方する」という明確なスタンスまでは明かしていないのです。

結局、どちらの勢力にも属することがないまま、迎えた弘治2年(1556年)。
斎藤道三と斎藤義龍の親子は【長良川の戦い】で激突し、圧倒的な兵力差の前に道三は敗れ去りました。

道三を打倒した義龍は、中立を宣言しながら味方にはならなかった明智氏に反感を抱きます。

どころか東美濃における反義龍勢力が生まれることを恐れたのか。
家臣らの諫めにも耳を貸さずに討伐を決意、3000余りの兵を差し向けました。

対する明智勢はわずか1000余りの兵力しか有しておらず、光安らは絶体絶命の危機に直面してしまうのです。

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明智の再興を光秀に託し、討ち果てる

光安を中心にした明智勢は、明智城に籠って義龍軍を迎え撃ちました。
兵力差は圧倒的でしたが、光安の奮戦と堅固な城の造りに助けられ、襲撃初日は乗り切ったといいます。

そしてその夜には「最後の晩餐」として酒宴を開き、死線を越える覚悟を決めたのでしょう。

翌日には籠城から一転して城外へ出て、皆が思い思いに奮戦したと伝わります。

しかし、勝ち目がないことを悟っていた光安は、早々に城へ引き返し、自害の決意を固めました。
以上が、光安の戦ぶりと死を覚悟するまでの動向です。

こうして城へ引き返した光安。
彼と光秀のドラマはこの後に待っていました。

自分も一族と運命を共にしようとした光秀に対し、光安はこう語りかけます。

「私はこれから自害します。殿は、自分も果てたいとおっしゃいますが、ここでいったん明智氏は断絶することになるでしょう。しかし、祖父の遺言もあり、また殿の志もここで終わるようなものではないのですから、落ち延びて明智の家名を再び立ててはくださいませんか。また、私たちの子供(光安の子・秀満、光久の子・光忠を指すか)を召し連れて、末々取り立ててくださいますよう、お頼み申し上げます!」

光秀は彼の言葉に従い、城を脱出。西美濃に落ちて諸国を放浪したのち、朝倉義景に仕えるようになったと記されています。その後の活躍については、皆さんもよくご存じでしょう。

光安は、城に火を放って自害しました。

 

果たして光安は実在したのか?

上記で記した光安の生涯については、すべて後世に編纂された二次史料に基づく内容です。

そのため、光秀の父である光綱の記事でも述べましたように、光秀の出自や青年期の記述は信頼できず、光安に関しても実在から疑うぐらいがちょうど良いでしょう。

実際、明智城が滅ぶ際のエピソードは「史実の出来事としては出来が良すぎる」という印象を抱きます。

道三を裏切れない理由が「血縁と友誼」である点や、戦中の様子が事細かに記されすぎている点、さらには「御家の再興」を託された光秀がそれを叶える点など、あまりにも「シナリオ」として完成されてしまっているのです。

だからこそ、直感で史実ではなさそうだと感じますし、物語中に出てくる価値観に、江戸時代の思想が見え隠れしているような気がするのです。

ただし「シナリオ」として出来がいいので、創作映えするのは間違いないでしょう。
個人的には、ぜひとも『麒麟がくる』で、映像としての光安最期を目の当たりにしてみたいものです。

文:とーじん

【参考文献】
『明智光秀:浪人出身の外様大名の実像(洋泉社)』谷口研語
『明智光秀・秀満:ときハ今あめが下しる五月哉 (ミネルヴァ日本評伝選)』小和田哲男 (著)
『明智光秀と本能寺の変(筑摩書房)』渡邊大門
『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀(洋泉社)』
「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」『女性歴史文化研究所紀要』18巻(京都橘大学女性文化研究)

 



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