明智光秀

明智光秀/wikipediaより引用

明智家

史実の明智光秀は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたのか?

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「本能寺」への道のり

天正9年(1581年)、織田信長は京都で「馬揃え」を行います。

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この馬揃えはなかなか大変なイベントです。

信長配下の者たちが京都を練り歩いて馬や自身の鎧姿を披露するのですね。いわば軍事パレード。

明智光秀も準備に忙殺されていたようです。

これは単に、信長が派手好きだっただけでなく、正親町天皇からの要請もあったりして、同イベントは複数回行われました。

『麒麟がくる』では正親町天皇と信長の関係がかなり悪化しておりましたが、実際の関係は良好だった可能性のほうが高いです。

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そして信長が天下に近づいていくと、光秀も武功以外のこうした仕事が増えていきます。

なにせ彼の経歴は将軍義昭の元家臣です。

細川藤孝と同じく洗練されており、豊臣秀吉柴田勝家などと比べて儀礼にも詳しく、適任だったことでしょう。

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そして運命の天正10年(1582年)。

宿敵・武田勝頼を滅ぼした織田信長に対し、明智光秀には失言があったと伝わります。

「私たちも苦労しましたねえ」

というようなことを発言してしまい、信長が激怒して滅多打ちにした、というものです。

確かに主力は信長嫡男の織田信忠軍であり、明智光秀はさしたる役目を果たしておりませんでした。

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それにしても滅多打ちはやりすぎでは?

だから本能寺の変に繋がった?

そう考えたくなる気持ちもわからなくはないですが、証拠はなく、むしろ可能性は低いと目されております。

では、この後に行われた徳川家康の饗応が原因では?

という話もあります。

『麒麟がくる』でもこのシーンは「家康が光秀を饗応役に指名して信長がキレる」という様子で取り上げられていましたね。

逸話では、信長が、家康を安土城で接待したとき、光秀の指示で出された魚が腐っていた――という理由で折檻されたという話になっています。

これをアレンジしたのでしょう。

信長に殴られた光秀は、この一件で恨むようになり、本能寺で殺したという怨恨説もまたフィクションでは度々用いられる話です。

他に著名なのが、1582年5月28日に行われた連歌会【愛宕百韻】でしょう。

絵・小久ヒロ

明智光秀は当日、こんな連歌を詠んだとされます。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

【意訳】今こそ土岐氏ルーツの明智が天下に号令するときだ

まぁ、こちらもかなり物語感(出来すぎた話)であって確定には至っておりません。

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ともかく6月1日夜、秀吉の中国攻めを助けるため、光秀は13,000の兵を丹波亀山城から進軍させるのです。

 

「敵は本能寺にあり」

1582年6月2日――ついに、その日は訪れました。

日本史上最大のミステリとされるのが、戦国時代ならばこの事件。

ここで慎重に考えねばならないのは「本当にミステリなのか?」ということです。

歴史的なインパクトが凄まじいゆえ、何かおぞましく、隠された真実があるのではないか?

そう人々の想像をかきたてる事件。

そのせいで荒唐無稽な黒幕説まで飛び交っています。

冷静に検証すれば、本来そこまで複雑怪奇ではないはずの事件であり、本サイトでも【突発的に起きた】という見方をしております。

なぜなら、このクーデターは

・織田信長
・織田信忠

という親子を揃って殺さねば成立せず、そんな千載一遇の好機がやってくるなど、誰にも予測ができなかったからです。

詳細はコチラの記事にまとめておりますのでよろしければご覧ください。

本能寺の変
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かくして6月2日(新暦6月21日)。

明智光秀は、羽柴秀吉の毛利征伐の援軍と称して、その日の早朝、京都内へ進みました。

その途上、重臣達に信長を討つと告げたとされます。

「敵は本能寺にあり!」

そして明智軍は、同寺を包囲。信長は、寺に火を放ち自害したと伝わります。

二条御所にいた信長の嫡男・織田信忠も自害しました。彼らの手にまともな兵数や武器はなく、抵抗すらろくにできなかったのです。

あまりにあっけない天下人の退場でした。

なお、遺体は灰となり、焼け落ちた寺と共に散ってしまったと思われますが、

【阿弥陀寺の清玉上人が遺灰を持ち去った】

という説もあります。

清玉上人
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まぁ、寺に残された記録なので、史実かどうかなんとも言い難いですが、一応……。

 

三日天下

信長父子を討ったあと、明智光秀が直面したのは、いくつかの大きな誤算でした。

まず安土城へ入ろうとしたところ、勢多城主の山岡景隆に瀬田橋を焼かれてしまいます。

橋の修繕に時間をとられ、安土城に入った後は掠奪を開始しました。

強奪した名物を与え、金子を配り、味方を増やそうと奮闘する明智光秀。

しかし、状況は暗転していくのです。

最大の誤算であり痛恨の極みとなったのが、細川親子の戦線離脱でした。

昵懇の仲の父親・細川藤孝。

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彼ら父子は、明智光秀の味方に付く前に髪を切り、喪に服し、ダンマリを決め込んだのです。

さらには光秀の娘を幽閉。織田家に対して【身の潔白】を証明する姿勢に努めました。

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それだけではありません。

娘婿の筒井順慶にも要請を無視され、同じく娘婿の津田信澄(織田信長の甥っ子)は織田信孝に殺され、思うように味方を得られなかったのです。

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そこへやってきたのが、来るはずのない豊臣秀吉。

毛利と和睦を結び、中国大返しという大技を決めて、京都へやってきたのでした。

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そして両軍が激突――【山崎の戦い】です。

秀吉の軍勢40,000に対し、13,000の明智軍では太刀打ちできるワケもなく、あえなく敗走。

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落ち延びる途中、落ち武者狩りの手にかかり、討ち死にを遂げました。

享年55。

明智左馬助斎藤利三といった明智の重臣達もまた、もはやこれまでと悟り、滅びの道を辿りました。

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織田信長が出る作品には、必ずといってよいほど出番のある明智光秀。

近年の大河ドラマでも、2016年『真田丸』、2017年『おんな城主 直虎』に出演しておりました。

しかし、その出番はあくまで信長を討つためのものであり、いわば影のようなもの。

それがいよいよ、彼自身に光が当たったのです。

大河ドラマは年間平均視聴率14.4%(過去3年は以下の通り)へと回復して、多くの視聴者を呼び戻し、

2019年『いだてん』8.2%

2018年『西郷どん』12.7%

2017年『おんな城主 直虎』12.81%

織田家の筆頭実力者が『単なる悪人じゃなかったんだ……』という印象をお茶の間に提供しました。

むろんドラマですから史実とはかなり違う一面もありましたが、主役を演じられた長谷川博己さんをはじめ、他の出演者・関係者さんたちの苦労が報われたと思われます。

一方で、『どうする家康』での意地悪い姿から、その印象は二転三転してしまい、さらに本能寺の謎は今後も明かされることなく世の中は進んでいくことでしょう。

しかし、光秀に対する人々の思いは着実に変わりつつあるはず。

歴史がまた一歩進化した証拠かもしれません。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考】
谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(→amazon
洋泉社編集部『ここまでわかった本能寺の変と明智光秀』(→amazon
小和田哲男『明智光秀』(→amazon
高柳光寿『明智光秀 (人物叢書 新装版)』(→amazon
読売新聞

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