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【明智光秀】
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信長に助力を得て義昭の上洛&将軍就任
こうした信長の一連の動きに対し、義昭も流石にキレ、越前の朝倉義景を頼ろうとしました。
そこで光秀と接触したわけです。
しかし、肝心の義景は腰が重い。一向に上洛の素振りも見せません。
しびれをきらしつつある義昭に対し、明智光秀は「信長こそ頼れる者なり」と話を持ちかけ、自らが使者となって発ちました。
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永禄11年(1568年)。
かくして足利義昭一行が織田信長から招聘を受け、岐阜に入った時期から、光秀の動向もはっきりとしてきます。
信長と義昭の交渉を担当したのが細川藤孝であり、さらに信長と藤孝の間にいたのが、明智光秀なのです。
【義昭―藤孝・光秀―信長】
信長が美濃を攻略した永禄10年(1567年)あたりから、明智光秀は細川藤孝の家臣として、信長の周辺に姿を見せていたと思われます。
この両者は、本能寺の変にて数奇なヤリトリをすることになりますが、それは後ほど。
国を追われて十年を経て、故郷に戻った明智光秀には、どのような思いが胸に去来したのでしょうか。
永禄11年(1568年)。
ついに信長が義昭を引き連れて上洛すると、光秀と藤孝も京都に同行しました。
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二人は、信長が岐阜に戻ってからも京都に留まります。
そしてその翌年の永禄12年(1569年)、事件が起きます。
足利義昭が三好三人衆らに襲撃されたのです。
堅固ではない寺での防衛戦となり、守備をするにも限界がありましたが、光秀も藤孝らとともに応戦。
ほどなくして到着した織田家の援軍により、事なきを得ます【本圀寺の変】。
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信長の事績を示す『信長公記』に明智光秀が登場するのは、この戦いからです。
とはいえ、まだ際だった活躍をしたわけではありません。
このころの明智光秀の立場はなかなかややこしく、足利将軍家と織田家、両方に所属するというものでした。
光秀は、義昭にとって有能な家臣として仕えていたのです。
織田家の優秀な家臣としての道は、まだ先でした。
義昭と信長の決裂
永禄11年(1568年)、足利義昭は念願の15代将軍となりました。
と、同時に違和感をおぼえていました。
どうも信長に好きなように利用されているようで、「話が違うやん!」という気持ちになったのです。
信長にとって将軍はただのお飾り。上洛のため使えるだけに過ぎません。
しかし義昭は、将軍として全国の大名を支配できると思っていたわけです。
この不幸なすれ違いは、明智光秀の人生にも大きな影響を及ぼします。
永禄13年(1570年)、信長は【殿中御掟】等を出して義昭の行動を制限します。
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一方、義昭は、裏で朝倉義景と通じておりました。信長は義景の行動を警戒し、朝倉家に対し、上洛するよう命じます。
と、義景はその命令を黙殺。
しびれをきらした信長は、ついに越前へと出兵するのです。
明智光秀も従軍しました。
織田の主力部隊に対し、朝倉が絶対的なピンチに陥った――そう思われた矢先、織田軍を待ち構えていたのは予期せぬ事態でした。
背後にいた浅井長政に裏切られたのです。
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越前へ攻め込み、朝倉義景を滅ぼそうとした信長。
その直後に、義弟の浅井長政に背後を取られ、織田軍は撤退を余儀なくされます。
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僅かな伴を引き連れた信長が、京都まで逃げるまでの間、敵を引きつける役を請け負ったのが明智光秀でした。
この撤退戦は、豊臣秀吉による【金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)】として有名ですが、光秀も殿(しんがり)に加わっていました。
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義昭と通じていた朝倉。
そこへ攻め込むという戦に従軍したことにより、光秀の所属も、両属から織田家臣へと切り替わっていったといえましょう。
ただし、元亀3年(1571年)の時点で、まだ義昭家臣とする記録もあるため、このあたりの切り替えタイミングも難しいようです。
ドラマとしても義昭と信長の対立で苦悩する光秀の姿がありましたね。
元亀2年(1571年)には【比叡山焼き討ち】に参加。
信長にとっては目の上のたんこぶを取り除いたようなものでして、よほど嬉しかったのか、このときの光秀の戦いぶりを絶賛しています。
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実際、抜群の活躍であったのでしょう。
明智光秀は、この功績によって近江志賀郡を与えられ、坂本城の築城を開始。
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それまでの居城だった宇佐山城よりも、志賀郡の行政統治に適した城でした。
なにより琵琶湖の水上交通も利用したネットワークは、岐阜城(美濃)と京都をつなぐのに超重要な拠点となりますので、ここは地図でも確認しておきましょう。
◆美濃~京都ルートを支える重要拠点
・赤色(右)→岐阜城
・紫色(中央)→安土城 ※1579年に完成
・黄色(左)→坂本城 ※1571年頃に完成
いかがでしょう?
織田家本拠地・岐阜城だけでなく、後の安土城を考慮しても、明智光秀の坂本城がどれだけ重要だったか、現代の我々にとっても明白ではありませんか。
信長から並々ならぬ信頼を得て、足下を固めていった様子がうかがえます。
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